番外編《雨月》

こぼれ雨 ➀

(こぼれ雨:ぱらぱらとこぼれ落ちるように降ってすぐにやんでしまう雨)

* * *


 目の前の賽銭箱に小銭をそっと落とすと、どこか重厚な音が響く。多くの参拝客が次々と賽銭を投げ込むリズミカルな音を聞きながら、珠恵は、続けて二度ほど頭を下げ、柏手を打ちそっと目を閉じた。
 頭の中に思い浮かべたお参りの手順を辿りながら、目には見えない存在に届くように、胸の中にある願い事を声に出さずに唱える。そうして、小さく頭を下げてから、無意識に詰めていた息をそっと吐き出し顔を上げて。急がなければと思いながらも、もう一度願い事を届けるように、まっすぐに拝殿の奥を見遣った。
 視線を感じて顔を横に向けると、今しがたの願い事の中にいたその人が、早々に祈りを終えていたのか、珠恵を見下ろしていた。
「終わったか?」
「あっ、はい。すみません」
 慌てて後ろに続く人たちに祈りの場所を譲るために、急かされるように脇へと避けて列を外れる。
 祈りを終えて引き返す人並みに紛れながら、珠恵はふとなんとなく、風太は、手を合わせ祈ってはいなかったんじゃないか――と、そんな気がした。
 肘の辺りに添えられた手が滑り下りてきて、はぐれるなというように指が結ばれる。何度も繋いだ今でも、心臓の在処を教えてくれるその手を、珠恵はきゅっと握り返した。

 晴れ渡った温かな元日の朝。風太と初めて初詣に訪れたのは、古澤の家からほど近い場所にある、普段は静かな神社だった。
「正月から暇な奴が多いな」
 人混みから早く抜け出したいのか、足早に歩く風太につられて足を早める。
「暇なわけじゃ、ないと思います」
「……どうなんだろうな」
 冗談だったのだろうか、真剣に答えを返す珠恵にどこか微妙な顔を見せた風太が、不意に足を止めた。
「風太さん?」
「お前、ちょっとあの鳥居の向こう辺りで待ってろ」
「え、あ、はい」
 言い置いて手を離した風太が、それ以上何の言葉もなく人波をすり抜けるように、今来た道を戻って行く。知り合いでも見かけたのだろうか、いずれにせよ後を追うのも却ってはぐれてしまいそうだと、珠恵は先に人の間を縫うように鳥居を抜けて、人通りの邪魔にならなさそうな灯籠の脇で風太を待つことにした。
 華やかな着物姿の女の子たちが、おみくじを手に顔を突き合わせながらはしゃいでいる。その様子に、少しだけおみくじを引けばよかったと残念な気持ちになるが、今から戻って引こうという気にはさすがにならなかった。
 手を繋ぎ脇を通り抜けた若いカップルは二人ともが和装で、それ以外にもポツポツと着物を着た人の姿を見かける。最近は若い男性の和装も多くなった。
 ――着物……風太さんが着たら似合いそう
 想像したその姿が余りに嵌っていて、口元が緩みそうになる。ひとりで勝手に空想しているその事に気恥ずかしさを覚えて、振り払うように視線を巡らせた。
 参拝に向かう人とお参りを終えて帰って行く人たちが、次々と目の前を流れていく。じっと見ているうちに、どこか画面の向こう側の世界を見ているような、現実の世界とここにいる自分との間に隔たりを感じるような、不思議な気持ちになる。
 ぼんやりと見つめている視線の先で、通り過ぎた人の中に、珠恵とそう変わらない年代の女性と母親との親子らしき姿が目に入った。

 去年の今頃――正月は実家で過ごしていた。翌年の正月をこんな風に誰かと過ごすことになるなんて、想像すらせずに。
 初詣で何を願ったのだったかも、はっきりとは覚えていない。あやふやな記憶のそれは、きっと無難なものだったのだろう。
 考えまいとしていたのに、父や母の事が頭を過ぎる。
 騒がしいテレビを見ることもなく、多くの人が尋ねてきて賑わうわけでもない実家での正月は、母と共に作った食卓を彩るお節料理と、叔父や叔母夫婦の来訪。そして元々仕事柄年末年始の休みが少ない父親が、その短い休みの間だけは殆ど終日家にいることが、日常とは違っていた。
 以前は、叔父や叔母と共にいとこ達も遊びに来ていた。けれど、子どもが集まったといっても彼らと一緒に子どもらしくはしゃぎ回っていたような記憶もあまり無い。
 子どもの頃からどこか冷めているところのあったそのいとこ達も、大学生になる頃にはもう親と一緒に訪ねてくることはなくなっていた。
 父方のいとこ達は皆、各々が東西で最高峰といわれる大学に進学し、就職先も、親たちが誇らしく口にするような、名を知らない者がいない世間的に一流とされる企業や職種に就いた者が殆どだ。
 うちだけが、そうではなかった。
 叔父や叔母夫婦が話す子どもらの話を聞いた父の纏う空気が、彼らが帰ったあとに悪くなるのは、ここ何年かの恒例行事のようなものだった。
 その窮屈さや心地悪さから逃れるように、昌也はいつの頃からか正月に戻るのは元日だけとなり、様々な用事を理由に短い滞在時間だけを家で過ごし、すぐに家を出て行ってしまうようになっていた。
 尋ねてくる親戚も、その訪問は半ば、自分たち家族のことを誇らしげに語るのが目的のようなもので、珠恵に関心を向けることはあまりなかった。
 それはそれで却って気持ち的に楽ではあったが、二十歳を過ぎた頃からだったか、従姉妹が見合いで医者との結婚を決めてからは、気遣い程度に振られる話は、まだ珠恵自身には全く現実味のない、将来の結婚の話が大半となっていた。

――条件のいいお相手と結婚させるなら、できるだけ若いうちにお見合いさせて話を進めなきゃだめなのよ、お兄さん
――珠恵ちゃんのようにね、ほら、なんて言うのかしら、大人しくて家庭向きな子は、ほんと若いっていうことぐらい……いえ、若さが一番いい条件になるんだから
 そういった遣り取りは、やがて身内の自慢話に繋がり話は逸れていく。父の謙遜だけとは思えない辛辣な受け答えも、だから、居心地が悪くてもその話が過ぎるまでをどうにか遣り過ごせばよかった。珠恵自身、そんな話が、現実に自分に降りかかるとは、まだ思ってもいなかったのだ。
 あの家で過ごす正月が、楽しかったという記憶は正直なところ殆どない。ただそれでもやはり、珠恵が家を出てしまった今年の正月をどんな風に迎えているのだろうかと、それは重石のように胸に存在する気掛かりだった。

「今年は出来るだけ、家に戻るようにするよ」
 昌也は、そう言ってくれた。親戚の訪問も、父が早々に断ったと聞いている。
「まさかあの姉さんが男と駆け落ち同然に家を出たとか、勘当したなんて話、できるわけもないしね。かといっていつも家にいた姉さんがいなきゃ、きっと色々聞かれるだろ。まあ、どうせいつかはあの人達の耳にも入るって思うけど。それもあって、最近またずっとピリピリしてるよ」
 言い難そうに昌也が話していた通り、ほんの微かに柔らいできたのではないかと期待された父の態度は、正月を前に、また硬化してしまった。
 珠恵達の名前を出すことは半ばタブーで、正月に挨拶に行きたいなどという申し入れは、取り合って貰うことも検討の余地もなく断られている。
 そんな事を考えているうちに、胸に支えた重荷が迫り上がるような息苦しさを覚えた。けれど、戻ってくる風太にはそれを悟られたくない。珠恵は、それ以上は考えないように、引き摺らないようにと、頭の中に蓋をした。
 さっきまでそばにいた人の事を、もう一度頭の中に思い浮かべる。どこに行ったのか、風太はまだ戻って来ない。今日のこの初詣も、自分はあまり気乗りしないのに、珠恵の気持ちを優先して付き合ってくれたのだろう。
 そもそもが、初詣に行けという話を振ったのも、喜世子だった。

  * * *

「風太、あんたも今年はちゃんと珠ちゃん連れて初詣に行くんだよ」
 皆が揃って御節の重箱や豪勢な料理を並べた食卓を囲み、正月の挨拶を交わして、毎年の恒例らしく未成年の翔平と愛華には、親方からお年玉が手渡されていた。
 お弟子さん達皆が集まるのは2日らしく、初めて風太といっしょに古澤家で過ごす元旦の朝は、賑やかとはいえ比較的穏やかに過ぎていった。
 そうして、お屠蘇やお雑煮を頂いてしばらくゆっくりしてから、親方夫婦は初詣を兼ねて挨拶回りに行くと出掛けてしまった。その直前、喜世子が風太にそんな言葉を言い置いていたのだ。
「はあ――」
「珠ちゃん、ちゃんと連れてって貰いなね」
 気がなさそうに返事をする風太から珠恵に視線を移して、喜世子は念を押すようにそう頷き掛けた。
 愛華はさっさと友だちと遊びに行き、翔平も少し前に出て行って、二人が出かけたあとの午後の遅い時間、母家に残ったのは風太と珠恵だけだった。
「……行きてえか?」
「え?」
「初詣」
 聞かれて、一瞬答えにまごつく。正直に言えば行きたいとは思っていた。風太と過ごす初めての正月なのだ。それに初詣には毎年行っていたから、何となく行かないと落ち着かない。
 喜世子に言われる前からどうするのかと気になってはいた。
「あの……風太さんは、いつもどうしてるんですか」
「どう、って?」
「お正月」
「ああ……だいたい寝てるか、飲みにいくかだな」
「初詣は?」
 尋ねながら、答えはわかった気がした。喜世子も、今年はちゃんと、と言っていた。きっと行く習慣はないのだろう。
「まあ、別に拝むこともねえし」
 案の定の答えに、やはり風太はあまり関心がないのだろうことがわかる。
「あの……じゃあ」
「行くか?」
 やめておきますか、という前にそう切り出されて、珠恵はすぐに頷いていた。
「はい、あ、でも……風太さんは、いいんですか?」
「構わねえよ、つうか、今年は特に行かないと後が煩そうだしな」
「じゃあ……すぐに、出掛ける準備してきます」
 苦笑した風太に笑みを向けてから、慌てて部屋へと戻り簡単に支度を済ませて。母屋から歩いて行ける神社へと、二人で向かうことにしたのだった。

  * * *

 大学生だろうか、社会人だろうか。珠恵とそうは変わらない年代の男女のグループが、人混みを抜けたところで立ち止まり輪になって話している。いずれもお洒落で人の目をひく集団だ。
 はしゃぎながら歩いてくる学生らしき女の子達や、受験の合格祈願を兼ねているのか、真剣な表情で通り過ぎて行く高校生らしき男の子、孫を連れた老夫婦、様々な年代の人達が参拝に訪れている。 
 小さな子どもを間に手をつないだ若い父親と母親が、長い参拝の列に並ぶ光景を目で追いながら、珠恵は、ここへ来る道すがら、風太と交わした会話を思い出した。
「ほとんど、行ったことねえな。まあ、弟子入りしたばかりの頃は、連れてかれたこともあったけど」
 珠恵の問い掛けに、風太はやはり、これまで初詣には殆ど行ったことがないとそう答えた。重ねて訊ねはしなかったが、きっと子どものころからそうだったのだろう。
 そうして、ふと思い出したように、こんな言葉を続けたのだった。
「――ああ、そういや。一回だけおっさんにも無理矢理連れてかれたな。半分は仕事だったみてえだけど」

 本当に時々だけれど、風太の口を突いて出てくる「おっさん」という呼び方には、どこか特別な響きがある。いつもその人のことを話す時、風太の瞳はどこか遠いところを見ている。
 風太と共に短い時を過ごし、そして風太の身体に消えることのない大きな痕跡と、生きていくための道を与えた人。
 きっと、珠恵が全く知らない種類の怖さを纏った人だろう。それでも、風太の心の奥深く、まるで彼の一部に溶け込んだように存在する安見というその人に、時々、会ってみたいと思うことがある。
 でもそれは、もう二度と叶うことはない願いだ。
 その人の目に、私は、どんな風に映るんだろう――。
 そんな事を考える。風太のそばにいるには、物足りない女だとそう思われるだろうか。それとも、受け入れて認めて貰えるのだろうか。
 ぼんやりと物思いに耽っていると、ほんのすぐ目の前で、人が立ち止まる気配があった。

「あの――」
 声を掛けられたのだと気が付き、珠恵は顔を上げた。視線を少し持ち上げたその先にいる男の人の顔を見た途端、ある面影がそこに重なる。
「あ……」
 目を見開いた珠恵に向けて、その人が少し安堵したように笑った。
「俺のこと、わかる?」
「……はい、あの、田臥、くん?」
「そう。ああ、よかった、そうじゃないかと思ったけど。やっぱり福原さん、だよな」
「あ……うん」
「覚えててくれてよかった。内心ちょっと、わからないって言われたらどうしようかと思ってたんだ」
 そういって笑う顔をみながら、ほんの微かに胸に苦いものが込み上げる。知らない訳がない。田臥は、クラスの中にいても皆の目を引く、そんな存在感のある人だった。逆に、田臥が珠恵の名前を覚えていたことや、声を掛けてくれたことの方が驚きだ。
 ――そんな奴いたっけ?
 そうクラスメイトと話していたのは、彼の方だった。
「そんなこと」
 高校を卒業してから何年も会っていない同級生は、やはりそれなりに大人びていて、集団の中に属さない一人の人として対面すると、受ける印象もどこか違っていた。
「こんなところで会うなんて、びっくりだよな。福原んちって、この辺じゃないだろ。ひとり? もしかしてこの辺で働いてるとか?」
 急に口調が親しげなものに変わり、少し戸惑う。学校で福原と呼ばれたことがあっただろうかと考えてみたが、少なくとも呼び捨てではなかったような気がした。
「あの、私、人を待ってて」
 風太ではない男の人――ましてや同級生とはいえ、数えるほどしか会話を交わしたことがない人など、知らない人も同然で、今でも男の人に慣れている訳でない珠恵は、自分の頬が緊張でひとりでに赤くなるのを感じた。
 田臥にもそれは伝わってしまっているだろう、そのことが余計に恥ずかしくなる。
「友達? え、もしかして彼氏?」
「あ、あの」
 尋ねながら、ハナから彼氏だとは思ってないのか、答えを聞くこともなく続けて問いが繰り出される。
「友達とはぐれたとか?」
「ううん、そうじゃないけど」
「ふうん……。そういや、今福原って何やってんの? 働いてるんだよな?」
「うん、あの……図書館の司書を」
「へえ、まじで? 何かまんまって感じ。似合ってる」
 まっすぐに目を見てそんな風に言われて、ありがとうと言っていいのだろうかと、モゴモゴと口籠る。
「あの、田臥君は?」
「え? ああ、俺は――」
 田臥が口にしたのは、通信系の大手企業の名前だった。そういえば、彼にしてもなぜこんなところに初詣に来ているのだろうか。珠恵の実家がこの辺りでなければ、田臥もそうだ。ここは、それほど有名なでもなく、参拝しているのも恐らく地元に縁がある人が多い比較的小さな神社だった。
「この辺りに職場が?」
「いや、全然」
「じゃあ……どうして今日は」
「あ、俺は大学の時の仲間と来てて。ほら、あいつら。あの中のひとりがここが地元で」
 田臥が顔を振り向けた先、男の子二人と女の子二人が、こちらを見てなぜかニヤニヤと笑っている。さっき目に止まったグループだと気が付いた。
「で、何か見たことのある子がいるなあって気になってさ。同級生かもしんないから、声掛けてみるって言ってんのに、あいつら、正月早々女に声掛けたいだけだろ、とか言ってくるし。そうだ、本当に同級生だって、あいつらに福原から言ってやってよ」
「えっ……あの、でも私、そんなこと」
 しどろもどろになると、田臥が小さく吹き出すのがわかった。
「そんな真剣に取らなくても、本気で言ってないから。そういうとこも変わんないな。すぐ赤くなるとことか、真面目そうなとことか」
「ごめん、なさい」
 ばつの悪さについ謝りの言葉を口にする。こっちこそごめんと言いながら、田臥の目元に柔和な笑みが浮かんだ。それは、見覚えがあるようでいて、全く知らないような気もする笑みだった。
「にしても、変わんないって言っても見た感じはちょっと変わったよな。福原なんてさ、学校でもホントのすっぴんだったし、私服で会った覚えもなかったから、印象が違ってびっくりした。めっちゃ可愛くなってるし、最初見た時ちがう子かなって」
「……そんな、こと」
「ほんとだって」
 お世辞だとわかっていても、面と向かって言われるそれにどんな風に言葉を返すのが正解なのかわからなくて、本気でないと知っていながらも、また顔が熱くなる。
 あの頃よりも大人っぽく、お洒落で物腰もより柔らかになった印象のある田臥は、きっと今も、他者の目を惹きつける人なのだろう。そう思いながら、珠恵の方は、それを上手く言葉にして返すことはできなかった。
「せっかくだしさ――」
 それにしても、友達を待たせたままでいつまでもこうしていていいのだろうかと、そんなことが気に掛かり始める。
 珠恵にとって田臥という人は、懐かしさもあるけれど苦い思い出にも繋がる人で、思い出話が弾むほどに、何かを共有した人でもない。
 チラチラとこちらを見ている彼の連れの女性の視線に気が付いた珠恵が、その事を尋ねようとした時、ふと視界に入ったその光景に気持ちが逸れてしまった。
 ――あ
 人混みの中、珠恵の目が捉えていたのは風太の姿だった。


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