番外編《雨月》

雪解雨(ゆきげあめ)4



 古澤の家に久々に世話になり、一週間を無事に過ごした風太は、その後仕事に復帰し、もうひと月が経とうとしていた。
 軽作業から始めた仕事も、今は完全に元に戻っている。
 右手に負った深い擦過傷を手当てしていた包帯は、退院後一週間ほどで。頭の傷の抜糸も当初の予定とおり十日程で済んでいた。まだ時折傷は痛むが、風太自身にもとても馴染みがあるそれは、恐らく傷そのもののもたらす痛みだろう。
 それでも、怪我を負った時の現場の監督会社の意向で、念のため来週もう一度、病院で検査を受けることになっている。
 初めは断るつもりでいた風太が、それを受けることにしたのは、大事を取って古澤の家で過ごしていた間に、喜世子と交わした会話が、ずっと頭にこびりついていたからだった。

 * * *

 さすがに酒を飲むこともなく、古澤の家でえらく健康的な暮らしを一週間近く送っている間に、怪我の痛みを強く感じることも、徐々に少なくなってきていた。
 珠恵と共に、賑やかな食卓を以前のように皆で囲み、昼は家でできる仕事を少しずつ手伝い始めて。
 そうして、翌日には家に戻る予定でいた日の午後。それは、風太が喜世子と二人で、伝票整理をしていた時のことだった。

 視線を感じて顔を上げると、正面に座った喜世子が、風太をみていた。
「おかみさん?」
 どうかしたのか、と尋ねようとした声に重なるように、「風太」と喜世子に名前を呼ばれた。
「先に言っとくけど、嘘はつくんじゃないよ」
「……なんのことですか」
「頭――。おかしなことはない?」
 喜世子のその質問の仕方がおかしくて、思わず笑ってしまう。
「まあ、多分バカなこと以外は」
「大丈夫そうだね」
 ふっと鼻で笑った喜世子が笑みを引いて、目の前に指を二本かざした。
「これ、何本?」
「2本にちゃんと見えてますよ」
「あんたの名前は?」
「森川風太」
「じゃあ。あんたの大事な人の名前は?」
「……なんすかそれ」
「あんたの頭が大丈夫か、確かめてるんじゃないか。ほら答えは?」
「――福原、たまえ」
「珠ちゃんと出会ってから、どれくらいになる?」
 改めて問われて、ふと考えてみる。初めて図書館で言葉を交わしてから、もう3年が過ぎていた。
「……3年」
 揶揄っているのか大真面目なのかわからない質問をいくつか投げかけた喜世子は、小さく溜息を吐き出した。
「別に、ふざけてるわけじゃないからね」
「まあ……」
 手にしていた伝票を横に置いて、喜世子はお茶を一口すすった。仕事を進めるべきかどうか迷いながら、風太も湯呑に口をつける。
「こういう仕事だしね、今回ほどじゃなくても怪我はつきもんだけど。電話があったときは、流石にちょっと血の気が引いたよ」
「……気を付けます」
「まあ、昔みたいに喧嘩したわけでもないし、流石にあんたを責める気にはならないけど。お父ちゃんや皆も本当に心配してた」
 緩やかに彷徨った喜世子の視線が、無意識にだろうか、さっきから触れていた自分の薬指の付け根に落とされる。
「でも……一番心配でたまんなかったのは、珠ちゃんだよ。……わかってるだろ?」
 喜世子の言葉に、病院で顔を合わせた時の、泣きそうに笑った珠恵の顔が――。そして、この家で皆で食事をとる間も、賑やかさに紛れて、時折何かを考え込むような顔をする珠恵の表情が頭に浮かんで、風太の胸に小さな痛みを生んだ。
「――ねえ、風太」
 変わった声色に、顔を上げる。喜世子が、今度は真っ直ぐに風太を見ていた。
「あんた、珠ちゃんとどうするつもり?」

 胸の内に、苦いものが広がる。その問いに答える言葉が、すぐには出てこなかった。
「踏み切れずにいるのは、あんたの問題だから。余計な口出しするつもりはなかったんだけどね。今回のことで、私も思うところがあって」
 喜世子には、とうに見透かされていたのだろう。風太の中にある狡さや臆病さを。自分が家族を持つ――そのことに、ぬぐえない躊躇いや葛藤があることを。
 だからといって、手放すことなど、できもしないくせに。
「今、あんたにもしものことがあったら――。あんたの残したものは、全部、あんたの身内の……母親のもんになるんだよ。珠ちゃんじゃない。自分たちの気持ちがどうあろうが、世間からすればあんたと珠ちゃんは他人なの。そりゃあね、何か手はあるのかもしれないけど、紙切れ1枚あるかないかの関係でも、世間に認められる関係とそうでない関係には、どうしたって、今の世の中じゃ差があるんだよ」
 痛いところを衝かれて、風太は、苦くなる表情を誤魔化すように視線を落とした。
「珠ちゃんに残るのは、あんたと過ごしたっていう思い出とかそういうものだけ」
 感情的になるでもなくただ現実を突きつけて、最後に確かめるように続けられた喜世子の言葉が、確かに風太の気持ちを乱した。

「ねえ風太、あんたは、本当にそれでいいの――?」


 あの日以来、風太は、ずっと考えていた。
 もう、ひとりではないのだ。昔のように、いつ死んでもいい、自分などどうなってもいい、と思いながら生きていた時とは、違う。
 今回怪我を負ったことで、万が一のことを想像した時、自分の中に、死というものに怖さを覚える気持ちがあることに、風太は初めて気が付いた。目を覚ました時、そばに眠る珠恵の存在に、確かに安堵する気持ちがあった。目を閉じる怖さから逃れるように、その手を握りその温もりに触れて、ようやく眠れた夜もあった。
――俺は、言わせませんよ
 偉そうに言ってのけた過去の自分を、詰りたくなる。本当に、どうしようもない腰抜けだ。
 珠恵の父親に許しを得てから。学校を卒業してから。現実的にあの母親との問題だってある。けれど、珠恵のためにという理由付けは、所詮自分への言い訳で、きっと逃げていたに過ぎないのだ。
――珠ちゃんは、もうとっくに、覚悟決めてるよ
 喜世子がポツリと口にしていた言葉が、脳裏を過る。
 溜息を飲みこんだ風太は、傷の疼くような痛みに、今にも雨が降り出しそうな空を、じっと長いあいだ見上げていた。

 * * *

 検査の日の朝は、夜のうちに降っていた雨も上がり、気持ちのいい青空が広がっていた。
 その日、有休を取った珠恵は、風太の検査と診察のために、病院に付き添うことにしていた。
 恐らく大丈夫だろうと思ってはいたが、それでも、大きな影響はなさそうだ――との診断を受けて、ようやく少し安堵することができた。
 病院を後にしながら「よかった、ですね」とそんな言葉を交わして。珠恵は、ここ数日少し険しかった風太の顔つきが穏やかなものに変わっていることにも、ほっとした。やはり風太も、結果がでるまでは、不安だったのだろう。

「なあ、少し、付き合ってくれるか」
 昼食を終えて店を出たところで、そんな風に言った風太が珠恵を連れてきたのは、毎年の花見で訪れるあの公園だった。
 桜の木々は、これから本格的になる冬に備えるように、すっかり葉を落としてしまっている。
 ここに何かあるのだろうか、と思いながら見渡した公園内は、花見の時期の賑やかさはどこにもなく、目に映る色合いも異なっている。
 平日の今日は、小さな子どもが遊ぶ姿や、のんびりとベビーカーを押す若い女性、散歩を楽しんでいるらしい高齢者などの姿が、ちらほらとみられた。
 当たり前のように、右の手と左の手を繋いで緩やかな坂を上り、喧噪とは無縁の公園を二人でゆっくりと歩いていく。さっきから黙ったままの風太は、最初からそこを目指していたのだろう、初めて珠恵に昔の話を聞かせてくれた、あの桜の木の下まで歩いてきたところで、足を止めた。
 手を離した風太は、顔を上げると、しばらくの間、まるでそこに咲く花を探すかのように、桜木の枝をじっと見上げていた。
 風太には今、何が見えているのだろう――。
 そんなことを考えていると、隣で、視線をゆっくりと落とし振り返った風太が、珠恵を見つめた。
 何故だろうか、その目を見ていると、珠恵は泣きたいような気持になる。
「いろいろ……心配掛けて、悪かったな」
 首を横に振った珠恵は、風太の隣に並ぶと、さっきの風太と同じように、花のない枝越しに空を見上げた。
「でも、やっぱり、結果を聞いてちょっと、ほっとしました」
 そんな本音を口にしてから、視線を落として笑みを向ける。その間ずっと珠恵を見ていたのだろうか、真っ直ぐな眼差しを向けてくる風太と、視線が絡んだ。
「なあ、珠恵」
 そう名前を呼んだまま、風太の唇が閉ざされる。
 逸らされることのない視線にとらわれて、胸が、トクトクと鼓動を刻むのがわかる。いつまで経っても、こんな風に風太に見つめられることに、慣れることはなかった。
「風太さん……何?」
 問い掛けてみると、風太の手が、珠恵の頬にそっと触れた。ほんの僅かに伏せられた目が、もう一度戻ってきて、珠恵を見つめる。
「――いっしょに、なるか」

 静かなその声が、耳を通って心を揺らす。告げられた言葉の意味は分かっているはずなのに、頭が真っ白になって、珠恵は、返すべき言葉がすぐには浮かばなかった。
「……え」
「俺と、家族に。……なってくれるか」
 風太の眉根が、微かに寄せられる。その言葉を口にしながら、どこか不安を宿しているようにも見えるその目を見つめ返して、珠恵は、結んだ唇を解いた。
「……はぃ」
 珠恵の答えに、風太の表情から僅かに力が抜けるのがわかる。その途端、腕を引かれ背中に回された手に引き寄せられて、風太に強く抱き締められていた。伝わってくる温もりに、珠恵は、ここが居場所なのだと、もう一度そう言われたような気がした。
「――わ……私はっ……」
 風太の服を強く握り締めながら、迫り上がった涙が溢れ出し、どうしようもなく声が震える。
「もう、ずっと……そのつもりだった」
「……ああ」
「ずっと……ずっと……風太さんと、いる、って……」
「そうだな」
 風太と共にあることはもう自然で、離れることは考えられなかった。だから、どんな形でも構わないと、そう思っていた。
 けれど今回の風太の怪我で、珠恵は、自分の立場がとてもあやふやであることを思い知らされた。

 家族であったなら当然のように許されることも、今のままでは遠回りしなければそこに辿り着けないことがあるのだと、実感した。
 家族であれば、すぐにでも病院に駆け付けることができたのかもしれない。風太に関わる大事な話を、家族として当たり前のように聞くことができたのかもしれない。
 気持ちだけではどうにもならないことがあって、目に見える確かな形が欲しいと、こんなにも強く思ったことはなかった。
 何があっても、どんな時も。風太の一番近くにいられる存在になりたい。
 同じような思いを、もうしたくはない。そして風太にも、こんな思いをさせたくなかった。

「――珠恵」
 優しい声に名前を呼ばれて、手のひらで涙を拭い、顔を上げた。ずっと、何よりも風太の想いを伝え続けてくれる双眸が、珠恵を見つめている。
「待たせて、悪かった」
 風太の手が、珠恵の左の手を引き寄せて、薬指の付け根にそっと唇が落とされた。その指が心臓に一番近いのだと、言い伝えのような話が本当なのだと教えるみたいに、鼓動が跳ねて、胸が熱くなる。
 大きく首を横に振って、泣きながら笑った珠恵は、かかとを上げて風太に顔を寄せた。そうして、誓いを返すようにそっと唇を重ねた。
 唇に笑みを浮かべた風太が、すぐに、主導権を奪い返してくる。

 ひとつになろうとするかのように、強く珠恵を引き寄せた腕に抱かれながら――。
 珠恵は、頭上から薄いピンクの花びらが一枚舞い落ちるのを、確かに見たような気がした。


(完)

「雪解雨」…雪を溶かし、木々や草花の芽吹きを促す、春の到来を告げる雨。



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