番外編《雨月》

雪解雨(ゆきげあめ)2



 扉が閉まる音を背後に聞きながら、珠恵は、静かな病室の中へと足を踏み入れた。個室を使わせてもらっているため、部屋にいるのは風太ひとりだ。
 額に貼られた白く大きな絆創膏、右の手首辺りから手の甲にかけて巻かれた包帯。眠っている風太の顔や腕には、頭の傷以外にもいくつか擦傷や打ち身の痕が見られる。
 ベッドの側に立ち止まったまま、珠恵は、恐々と伸ばした手で、そっと傷のない左の手に触れてみた。いつも風太の左側を歩くことが多いから、珠恵の右手に触れるのはこの左手だった。馴染んだ温もりが伝わってくるそのことに、目の奥が熱くなる。

 泣いてる場合じゃない――そう思いながら、唇を噛み締めた珠恵は、風太の手のひらを緩い力で握ってみた。
「――ふうた……さん」
 音にならない声で、呼び掛けてみる。起こしてしまわないようにという思いもあったが、何より名前を呼んでも、応える声が何もなかったら、という怖さがあった。
 寝顔を見つめ寝息を聞きながら、これは本当に正常な息なのだろうか、とそんな不安が頭を過った時、風太が、僅かに身じろぐのがわかった。顔を顰めながら、薄っすらと目が開く。すがめた目が宙を彷徨うように動き、ゆっくりと珠恵を見上げた。
 固唾を飲んだ珠恵の目の前で、まだ半分は覚醒していないかのように、片目を閉じた風太の唇が動く。
「あれ?……ふく、はら…さん?」
 ドクリと、強く鼓動が跳ねる。耳の奥から聞こえるその音を遠くに聞きながら、珠恵は、一瞬思考が止まってしまうほど動揺していた。煩いくらいに胸を打つ鼓動が、締め付けるような痛みを生み出す。けれど、それを表情や声に出すことは辛うじて堪えた。
「あ……あの、ここがどこか、わかりますか」
 穏やかな口調で、そう声を掛けてみる。少し記憶が乱れることもある――と、医師からはそんな説明があったと喜世子から聞いていたのを思い出し、珠恵は静かに笑みを浮かべてみせた。
「んー……あれ、俺……なんで……」
 寝ぼけたような心許なげな声で呟くように口にしながら、眩しそうに目を細めた風太は、痛みを感じたのか少し顔を歪めた。そうして「……えっと」と小さく呟きながら、重い瞼が落ちるように、また目を閉じてしまった。

 寝ぼけていただけなのだろうか、もう一度声を掛けて起こした方がいいのだろうか、それとも、看護師を呼んだ方がいいだろうか。戸惑いながら、珠恵は、けれど風太に呼び掛けてみることができなかった。
 福原さん――と、呼んだ風太の声が、頭の中にこびりついている。震える手で口元を抑えながら、身体を動かそうとして、足元に力が入らないことに気が付いた。
 大丈夫、きっと少し混乱してるだけ――そう自分に言い聞かせて、感覚の鈍くなった手を強く握り締める。やはり看護師を呼びに行こうと、振り返ろうとしたところで、ノックの音と共に病室の扉が開いた。
「どうですか、そろそろ食事の時間ですが、目、覚まされました?」
 尋ねながら、看護師が部屋の中に入ってくる。
「あ……あの、さっき、少しだけ。でもすぐまた眠ってしまって。ただ……あの」
「何か、気になることがありましたか?」
「あ……さっき……ちょっとあの、前の呼び方で、名前を呼ばれて……」
「そう、ですか」
 不安げな珠恵の表情から何かを感じたのか、「頭の怪我だと、記憶が混乱することもありますから――」そう言って頷きながら、看護師が風太に近付いて声を掛けた。
「森川さん、どうですか? 森川さん、起きられますか?」
「――ん……ああ。……はい」
 顔を微かに歪めて、風太がもう一度目を覚ます。その様子を、珠恵は少し後ろから無意識に息を止めて見ていた。
「あ……れ? ……そっか、病院か……」
 そう口にした風太の口調は、さっきよりはしっかりしているように思えた。様子を尋ねる看護師の質問への受け答えは、目を覚ますにつれ明瞭になり、名前や生年月日、今日の日にち、仕事や生活に関する最近の記憶などに、大きな混乱は見受けられないようだった。
 苦笑するように問いに答えながら、風太の視線が、佇む珠恵へと向けられる。
 目が合ったその瞬間、口元に力を入れて、笑って頷いてみせた。珠恵へ向けられた風太の表情が、戸惑っているようにも見える。
 今、風太の目に映る自分は、「珠恵」なのか「福原さん」なのか、答えを知ることはとても怖かった。
 二人のやりとりを聞いている限り、事故に合った直後の記憶はあいまといなところがあるものの、現場で怪我をして病院に運ばれたことは、覚えている様子だった。珠恵へと視線を向けた看護師は、小さく頷いてみせてくれたが、珠恵は不安を拭いきれずにいた。

 部屋を出て行く看護師に頭を下げて、顔を上げる。病床に身を起こした風太の唇が、珠恵と目があった途端に、動くのがわかる。
「――珠恵」
 僅かの迷いもなく名前を呼ばれた瞬間、身体中の強張りが抜け落ちそうになった。
「……風太、さん?」
「心配、させたな」
 否定しているのか肯定しているのか、訳も分からず首を振りながら、そばへと近付く。ベッドの脇に立つと、怪我のない左手が珠恵の手を取った。
「仕事、早退したのか?」
「少しだけ。板野さんが変わるって言ってくれたから」
「そうか。……礼、言っといてくれ」
「はい」
 板野から話を聞いたらしい早番の職員が、交代を申し出てくれたおかげで、珠恵は本来の予定より早い時間に退勤させて貰うことができた。
――いつも珠ちゃん、率先して皆の交代を引き受けてくれてるんだから、こんな時くらい頼って
 と、そんな風に言ってもらえたことが、ありがたかった。

「お前、顔色あんまりよくねえな。って……まあ、俺のせいか」
 ボンヤリとしてしまっていたのか、そう言った風太の手が、呼び戻すように今度は頬に触れた。その温かさに少し泣きそうになりながら、珠恵はその手に頬を寄せ笑みを浮かべた。
「私は大丈夫だから。風太さんこそ、気分、どうですか」
「んー……まだちょっとぼーっとしてんな」
「痛みは?」
「少し変な感じはあるけど、まあ、よく知ってる類の痛みだ」
 そう言って笑った風太の顔が、痛みにだろうか、少し歪む。その様子に、珠恵は、出会ったころの風太と、初めて吉永医院を尋ねた時の遣り取りを思い出した。
 まだ互いに「森川さん」「福原さん」と呼び合うだけの、何も特別ではない、ただの知り合い程度の間柄だったあの頃のことを。
 離れていきそうになる手のひらを追うように、今度は珠恵からその手を握った。
「……風太さん」
「ん?」
「私の、こと」
 気が付けば、そう口走ってしまっていた。問い返すような眼差しに、一度は飲み込もうとした言葉が、こぼれ落ちていた。
「もう一回……呼んで」
「……珠恵?」
 風太の唇がもう一度その名前を口にした途端、強張りが解け、胸に熱いものが込み上げる。珠恵を見つめた風太の表情が、明らかに戸惑ったようなものに変わるのがわかった
「どうした?」
「……った」
 吐き出す息と共に、よかった――と、心の声が微かに口を吐いてでる。まだ不安が払拭された訳ではない。心配であることに変わりはないが、少なくとも、風太の中で珠恵と過ごした時間が、全て消えてしまった訳ではなかったのだと。
「風太さんと、話すことができて、よかったって思って」
 風太の顔を見つめながら、そう言って静かに笑った珠恵の腕が、強く引かれた。腰に手が回されて、ベッドに腰かけた風太に、緩く抱き寄せられる。
「風太、さん?」
「……なんだ」
 無理な姿勢で、痛みはないだろうかと、そんなことが気にかかる。
「傷、痛むんじゃ」
「これくらい、大丈夫だ」
 答えながら、風太が胸元で深く息を吐き出すのが沈みこむ肩から伝わってくる。珠恵も、その存在を確かめるように、風太の肩越しに緩く手を回した。
「珠恵」
「……はい」
「悪かったな」
「風太さんのせいじゃ」
「こんな怪我すること自体、俺がまぬけだってことだ」
「そんなこと」
 首を横に振ると、ゆっくりと珠恵の身体を離した風太が、「そういや――」と、遠いところを見るような目をした。
「俺以外に怪我した奴はいなかったか」
「え?」
「あんま慣れない若い奴、いたから」
 恐らく、風太が庇った若い職人のことをいっているのだろう。大丈夫だと喜世子から聞いた話を伝えると、安堵するように表情が緩むのがわかる。
 風太が怪我をしたと聞いた時、珠恵は、他に怪我人がいなかったのかまで思い至らなかった。そのことを思い返して、そんな自分が恥ずかしくなった。

 食事の配膳と入れ違いに、ひとり、病院を後にする。
 風太が掛ける言葉は、最後まで珠恵を案ずるものばかりで、そんな風に逆に心配をさせてしまっていることにも、苦しさを覚えた。
 微かな振動を感じて足をとめた珠恵は、鞄から携帯を取り出した。入っていたのは、今しがた別れたばかりの、風太からのメッセージだった。
『珠恵』
『お前もメシ、ちゃんと食えよ』
 ぼんやりと画面が霞んで、浮かんだ短い文字の上にぽたぽたと雫が落ちる。張り詰めた糸が切れたみたいに溢れてくる涙を拭ってから、珠恵は、顔を上げて風太へと返事を送った。


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