番外編《雨月》

雪解雨(ゆきげあめ)3



 翌朝、今日の風太の着替えと当面の荷物を持って、珠恵は古澤家を訪ねた。荷物を置いて、そのまま病院に向かう喜世子の車に途中まで同乗させてもらう。
 風太は、予定通り今日退院できそうだとのことだった。診察を受けてから、午前中のうちに喜世子が自宅へと連れ帰ることになっている。
 起きがけに風太からも電話を貰っていて、身体のあちこちに痛みはあるが、気分は悪くないと話す口調は、昨日よりもしっかりとしたものだった。

「珠ちゃん、あんた夕べほとんど寝てないだろ」
 運転席から掛けられた声に、反応を返すのが少し遅れてしまった珠恵は、慌てて喜世子へと顔を向けた。
「あっ、いえ。少し寝ました」
 そう答えはしたが、本当は眠れなかった。喜世子の視線が、チラッとだけ珠恵を見遣る。
「心配なのは当たり前だけど、あんまり、無理はしちゃダメだよ」
 前を見つめてそう言った喜世子の横顔も、やはり、いつもより疲れているように見える。喜世子もあまり眠れなかったんじゃないだろうか――。珠恵がそれを訊ねるより前に、口を開いたのは喜世子だった。
「で、ご飯は、夜と朝ちゃんと食べた?」
「――はい、食べました」
「それは、ほんと?」
 眉を上げてスッと助手席側に視線を投げた喜世子に、珠恵は少し小さくなりながら「本当です」と、頷いた。ハンドルを握る喜世子の頬が、少し緩むのがわかる。その横顔を見つめながら、珠恵は、昨日の風太のメッセージを思い出していた。
 あの言葉があったから、食欲がなくても食事はちゃんととらなければと、夕べは、味など殆ど感じないご飯を食べた。
「こっちが参るわけにはいかないからね。この仕事してると、どんだけ注意したって危険と隣り合わせなことに変わりないし、事故も完全には防げないことだってある。今までだって、何度かこういう連絡を受けたことはあるけど」
 ウインカーを出して車を左側の車線へと戻してから、小さく苦笑いした喜世子は、どこかひとりごつように、静かに言葉を続けた。
「やっぱり……こういう連絡には、慣れることはないね」
 珠恵からみれば落ち着いているように思えた喜世子も、胸の内に、きっと多くの不安を抱えているのだろう。関わりのある人や負う責任を思えば、それは多分、珠恵の比ではない筈だ。

 しっかりしなければ――と、そう思う。
 ただ狼狽えて心配してもらうばかりではなく、自分も、ちゃんと誰かを支えられるようになりたい。
 こうして、頼れる人たちがいるということだけでも、自分たちはきっととても、恵まれているのだ。そんな風に言い聞かせながら、珠恵は、少し眩しい外を見つめてから、喜世子の横顔に向けて声を掛けた。
「……喜世子さん」
「――ん?」
「風太さんは……きっと、大丈夫です」
 そうであって欲しい。もしも――と、容易く浮かびそうになるそんな不安にはできるだけ蓋をして。
「うん。そうだね。すぐにまたケロッとして仕事始められるようになるよ」
「はい」
「まあ、頭と顔がちょっとよくなるかもしれないしね」
 くくっと笑った喜世子に笑い返そうとしたはずの口もとから、ひとりでに言葉が零れる。
「……いいです」
「え?」
「今以上に、よくならなくって」
「…………あら」
「あ、いえっ、なんでも」
 口走った言葉を取り消そうとした声が、喜世子の気持ちのよい笑い声にかき消される。
「まったく……ほんと、あの子は幸せもんだね」
 フロントガラスの向こうは、晴れ渡った青空で、けれど珠恵は、半ば呆れたような喜世子のそんな声を聞きながら、赤くなってしまった顔をしばらくは上げられずにいた。

 * * *

 その日の夕刻、珠恵は、慌ただしく仕事を終えると、そのまま真っ直ぐしばらくの間世話になる古澤の家へと、帰路を急いだ。
 風太と珠恵は半年ほど前に古澤の家を出て、今は近場に部屋を借りて暮らしていた。切っ掛けは、翔平が恋人優茉との間に子どもを授かったことだった。話し合いの末に、若い二人にあの部屋を譲り、珠恵と風太は、別に部屋を借りることにしたのだ。
 本当の意味での二人だけの生活が始まってから、半年が過ぎた今も。まだ、この家に帰ってくることにほとんど違和感を覚えることはない。
 ここで過ごした時間の方がまだ長く、また、時折食事を共にしていることもあるからだろう。
 そんなことを思いながら、荷物を抱えた珠恵がインターフォンを押そうと手を伸ばすのとほとんど同時に、勢いよく玄関の引き戸が開いた。

「ありがとうございます、先生」
「まあ、大したことにはならないだろうが、何かあったら」
「ええ、連絡させてもらいます――あ、珠ちゃん」
 喜世子の呼び掛けに、玄関を塞ぐように立っている人が、振り返る。吉永と顔を合わせるのは、久しぶりのことだった。
「ああ、今帰りか」
「あ、はい。あの、こんばんは。あっ、ただいま帰りました」
「おかえり」
「そうか、しばらくまたこっちか」
「はい、お世話になります」
 玄関先まで吉永を見送りに出て来た喜世子は、遠慮する珠恵の手からさっと荷物を引き取り、先に中へと戻っていく。
「じゃあ、先生」
「ああ、親方にもよろしく言っといてくれ」
「先生も飲み過ぎないでくださいよ」
 何も答えず苦笑した吉永が、もう一度、珠恵の方へと視線を向けた。
「そういや、お前らここ出たんだったな。もうどれくらいになる」
「半年ほど、です」
「まだそんなもんか。で、あれか。飽きもせずにらぶらぶ、ってやつか」
 強面の表情と言葉とのギャップに目を丸くしながら、意味が追いついてきた途端に顔が熱くなる。
「いぇっ、そんなことは……」
「おっ、相変わらずいい反応するな」
 面白いものを見るような目をした吉永の口角が、ゆっくりと下がる。
「にしても、今回は災難だったな」
「あ、いえ……あの、先生は風太さんのところに?」
「まあちょっと気になってたんで様子を見にな。なに、ピンピンして、退屈でしょうがねえから早く働かせろって言ってたぞ」
「そう、ですか」
 頷いて、小さく笑う。今日何度か風太から珠恵に向けて入っていたメッセージも、似たような内容だった。
「とはいえ、流石に無理は禁物だからな。あんたも、あいつが無理しようとしたら、頭はまずいから、ケツでもひっぱたいてやれ」
「――はい」
「そう心配することはないだろうが、今回は頭だからな。聞いてるだろうが、何日も経ってから急に異変が見られることもある。2、3か月は、少し気を付けておいてやれ」
「はい、そうします」
「まあ、あいつも頭打って、ちょっとは賢くなったんじゃないか」
 ニヤっと笑った吉永が、喜世子と同じことを言っているのがおかしくて、珠恵もつい笑ってしまった。
「それでいい。気を付けろとは言ったが、何かあればその時に対処することだからな。お嬢ちゃん、あんたもあんまり心配しすぎんようにな」
「はい……ありがとうございます」
「気になることがあれば、何でも構わんからいつでも知らせてこい」
「はい」
 うん、というように頷いた吉永が、珠恵を見てもう一度ニヤリと笑った。
「あんまり長くあんたとしゃべってたら、あいつ、拗ねるからな」
「え?」
 最後にそう言い置いて、手を上げた吉永が診療所へと帰って行く。その背に頭を下げてから、珠恵は、少し軽くなった気分で母家の玄関を潜った。

 * * *

 退院した日の、翌日の朝。
 ボンヤリと開いた風太の目に入ってきたのは、どこか少し懐かしささえ覚える天井にぶら下がった電灯だった。
 視線を動かして部屋の景色を捉えてから、ここは古澤の母家だったと思い出す。
 この部屋で目を覚ますことに、時間が巻き戻ったような奇妙な感覚を、風太は覚えていた。夕べ眠る時に隣にあった存在が今はいないことが、夢と現実の境界を曖昧にしているようにも思えて、見回した室内に確かに珠恵のいた形跡を見つけ、ほんの少し安堵する。
 怪我の前後の記憶は残っていたが、事故が起きた時の記憶はどこか曖昧なままだった。そのせいで、こんなふうに、どこか心許ないような気持ちを覚えるのかもしれない。
 時計を見ると朝の8時を過ぎていて、外は晴天のようだった。珠恵はもう、仕事に向かったのだろう。
 いつもより重い頭はずきずきとした痛みを生み出し、気分の悪さはなかったが、身体のそこここに筋肉痛のような痛みを感じる。右の手が妙に熱っぽいそのことにも、嫌でも自分の状態を自覚させられた。
 もう少し眠っていたくもあったが、目を閉じてしまうことを不安に思う気持ちも、認めたくはないが確かにある。内心で苦笑しつついつものように起き上がろうとして、身体に力を入れた途端「いて…」と思わず声が出る。今度こそひとり苦笑いしながら、風太は頭をあまり動かさないように、そっと布団の上に身体を起こした。

 昼過ぎには、事故現場の監督と若手職人が菓子折りを持って訪ねてきて、喜世子を交え、今後の補償や手続きのことなどを話して帰っていった。
 あの日助っ人に入った工務店は、元々古澤と長い付き合いがあり、風太も親方の元で働き始めた頃から世話になってきた、よく見知った間柄でもあった。それこそ、目の前にいる若手職人よりも若い頃など、面倒を掛けたことも一度や二度ではなかった。
 向こうの立場もあり申し出を無下にすることはできないが、風太としては、なるべく大ごとにしたくないというのが本当のところで、そのことは、予め喜世子にも頼んであった。

 同行していた若手の職人は、風太に怪我を負わせる原因となった当事者だった。頭を下げる姿も不格好な、まだあどけなさを残した十代のその少年は、詫びる言葉以外にはひと言も口をきくことはなく、酷く落ち込んでいる様子に見えた。
 なり手の少ない若い職人は、貴重だ。きつい仕事に耐え切れず、すぐにやめてしまうものも多い。
 話を終えた二人が帰る間際、風太は、目を伏せたまま顔を上げようとしないその少年を自然と呼び止めていた。

「なあ――」
 足を止めた少年が、隣に立つ監督に肩を叩かれて顔を上げる。風太を一瞬見つめたその目が、居場所を失うかのように揺れ動き、またすぐに伏せられる。
「大丈夫だから、辞めたりすんなよ」
 幼さの残る少年に声を掛ける自分の言葉を聞きながら。風太は、そんなことを偉そうに言っている自分が、どこかおかしかった。


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