本編《Feb》

第五章 下弦の月1


 ドイツからの帰国を待って会いに行くつもりにしていたが、結局、功の仕事の予定がかなりタイトなこともあり、芙美夏が東京に行くのは、契約が一段落してからということになった。
 一度そう決めてしまうと、永の元へ見舞いにも行きたくなるし、和美にも早く会いたくなってしまう。芙美夏が上京の予定と併せその事を伝えると、香川は、皆が喜ぶと嬉しそうに答えてくれた。
 淳也や藍にも会いたいと功に告げると、ただでさえ短い滞在時間で二人で居られる時間が減ってしまうと、そんな不満を少し漏らしながらも、「いい加減淳也に叱られるからいいよ」と最後は笑って頷いてくれた。
 功は、出張先のドイツからも時間を見つけては連絡をくれる。時間が合わない事もあったが、何度かは直接声を聞いて話ができた。
 穏やかで、けれど時には熱っぽく甘い功の言葉や声が耳に残り、幸せなのに切ない短いやりとりに、芙美夏の中に、早く会いたいという気持ちばかりが大きく募っていく。

 雪が降らない日はもう少なくなり、目に映る景色が、白い色に覆われるようになり始めていた。
 数日前に帰国した功から昨日の夜に入った連絡で、今日が業務提携の契約の日であること、そして共同記者会見が開かれるのだと聞いていた。明後日から、芙美夏はもともとの休日に一日有給を足して、二泊で東京に向かう予定にしている。
 大竹には、既に園を辞める事は伝えていた。けれどまともに顔を合せて話をする機会は、結局ないままとなっていた。子どもの手前もあり、どうやら周囲がしばらく二人のシフトをずらしてくれているようであまり顔を合わすこともなかった。そんな風に周りに気を使わせていることも心苦しい。
 ひと通り朝の仕事を終えた芙美夏は、暫くの間だが担当することになった、数日前に入園してきた修一の事について浅井と相談をしていた。
 アルコール中毒の父親は、修一を殆ど学校にも通わせず家政婦代わりに家事などをさせていたらしく、園に来て間もない修一は、まだ誰にも心を閉ざしたまま口を開こうとしない。
 こんな大事な時に休みを取るのはやはり申し訳ないと言う芙美夏に、浅井は、他に先生もいるしこれまでも休暇を取っていなのだからと、その背を押してくれた。
 話をしている最中に、ノックの音が聞こえドアが開く。二人して顔を上げると、大竹がそこに立っていた。
「芙美先生、ちょっといいかな」
 戸惑いを隠しきれず、浅井と顔を見合わせる。園の中で大竹が芙美夏に声を掛けてくることなど、最近では業務以外ではなかった。
「あの」
「ちょっと話したい事があるから」
 一瞬躊躇したが、こんな風に話を出来る機会は、もうそうは残されていないかもしれない。
「いいですか」
 芙美夏はそう浅井に確認してから、心配そうに眉を顰めた彼女に頷いて席を立った。
 廊下の隅の、人気のない場所まで大竹の後ろについて行く。立ち止まった大竹が振り向くと、最近全く見せていなかった笑顔を芙美夏に向けた。その様子に、違和感を覚える。
「週末に、母親がこっちに来るんだ」
 突然の話に、訳がわからず大竹を見上げた。
「芙美ちゃんの話をしたら、是非会いたいって言ってさ」
「……え?」
「まだ早いって言うのにもう、聞いてないんだ。昔からそういうところがあるんだよ。うちのお袋」
「待って下さい。私の話って……いったい何を」
 話をするつもりが、成り行きに動揺しすぎて言葉が続かない。まるでこれまでの事が何もなかったかのような、以前と変わらぬ笑顔の大竹を呆然と見ていた。
「わかってるよ、芙美ちゃん。今、君には他に好きな男がいるって。でも、無理だろ」
「……大竹、さん?」
「僕にだってわかるよ。あんな由緒ある家柄のしかも跡継ぎと、君が上手く行くはずないじゃないか。どうせ、ああいう家は家柄とかそういうこと、色々煩いんだろ。周りも君を受け入れてくれないよ」
 現実を突きつけて揺さぶる言葉に、それを乗り越えようと決めたはずの心が微かに軋む。
「……そんな事、誰より……わかってる」
「わかってないよ。君は目を逸らしてるだけだ。君が傷つくのを見たくない。君が自分の事を何も話さないのは、話せない過去があるからじゃないのか? うちなら、そんなこと何も気にすることない。君の生い立ちを、何か言ったりする人もいない」
 芙美夏は、顔を横に振った。何度も、何度も、大竹の言葉を振り払うように。
「傷なんて、そんなもの。もう……どれがそうなのかもわからないくらいある」
 見つめた大竹の顔から、笑みが削がれてゆく。
「それでも私は……もう功さんの手を離さないって、決めたんです」
「君は。今はただ浮かれて夢中になってるから、そんな事が言えるんだ。大丈夫。何年掛かっても、僕が忘れさせてあげるから」
 伸ばされた大竹の手を、芙美夏は思わず振り払った。その手が、宙に浮いている。
「触らないで」
 今はもう笑みを浮かべていない大竹の顔が青ざめた気がした。けれど、もうそのことを気遣う余裕は芙美夏にも残っていなかった。
「お袋に……君と一緒になろうと思ってるって、言ってあるんだ。そしたら、凄く喜んですぐにでも会いたいって。芙美ちゃん、お袋の喜びに水をさすようなことして、僕に恥を掻かせないで。週末、空けといて」
「待って、大竹さん、私会えません」
 もう途中から視線さえ合わなくなった大竹は、殆ど意地のようにそう告げて、まるで芙美夏の声など聞こえないかのように、踵を返しその場から去って行った。
 呆然としながら部屋に戻った芙美夏の顔色を見て、扉から顔を覗かせて様子を伺っていた浅井の表情が曇る。
「大竹君、何を言ってきたの? 芙美ちゃん……ねえちょっと、大丈夫?」
 覗き込む浅井に、何とか大丈夫だと頷いてみせたが、彼女は全く納得してないようだった。もうひとりで胸に留めておくことが出来ず、結局大竹に言われたことを浅井に告げた。
「それは……もう、芙美ちゃんだけでは、どうにも出来ないわ。園長にも相談しましょう」
 目を瞠って話を聞いていた浅井は、そう言って背を撫でてくれた。自分の蒔いた種を自分で始末できないことは酷く情けなかった。けれど、もう為す術がなくその言葉に頷くしか出来ない。
「少し落ち着くまで、ここに居なさい」
 動揺している芙美夏にそう言い含めて、浅井が部屋を出て行ってからも、しばらくの間椅子に腰を下ろし、纏まらない頭でどうすればいいのかを考えていた。
 だが、いつまでもこうしてはいられない。壁に掛けられた時計の針が、午前10時30分を示すのを見て、芙美夏は仕事に戻らなければと慌てて立ち上がった。

 廊下に出てみると、表の方が騒がしい気配がする。何かあったのだろうかと玄関へと向かおうとした芙美夏の後ろから足音が聞こえて、数人の職員が慌てたように走り抜けていく。そのひとりを呼び止め、どうかしたのかと尋ねた。
「誰か保護者が来て騒いでるみたいなの」
 驚いて、芙美夏も足を速め、皆を追いかけて外に出た。騒がしい声は駐車場の方から聞こえている。
 そちらへ近付くと、身なりの決していいとは言えない男が、修一の身体を抱えて大声で何かをわめいていた。それは、修一の父親だった。
 園長と大竹ら男性職員が声を掛けているが、子どもを盾にされているので、迂闊に近寄る事が出来ないようだった。
「修一、君……」
 芙美夏が周りにいる職員の列に並ぶと、園長がこちらへと振り返る。
「子どもたちを中に戻して」
 今日は学校が創立記念日で休みのため、もともと外で遊んでいた子ども達以外にも、騒ぎを聞きつけ表に出てくる子がいた。職員がすぐに皆を部屋に戻すように動き始める。
「警察に電話してきます」
 芙美夏のすぐ隣にいた和田が、小声でそう告げて中へと急ぎ戻って行った。
 どうにか子どもを引き渡すように説得を試みる園長らを罵倒し、引き摺るように修一を乗ってきた車に乗せた父親は、離れて見ていてもわかるほど赤らんだ顔をしていた。周囲にも、アルコールの臭いが満ちている。あの泥酔状態で、このまま父親が車を運転をすれば、修一の身が危険なことは明らかだ。
「酒飲んでるんでしょ」
 怒りをはらんだ声で大竹が車の前に詰め寄る。芙美夏は、どうにか車の死角になる位置に回れないかと顔を巡らせた。
「湯浅さん、修一君を離して下さい」
「そんな状態で運転なんて、無理です」
 園長と大竹が叫んでいるが、父親はぶつぶつと何かを呟きながら、向かってくる大竹を振り払うように、突然車を蛇行させながら大きくバックさせた。車が、いったん駐車場の奥にある菜園を踏み散らして止まる。
 園外に出るためには、再び駐車場を通る必要があるため、大竹はその前方を塞ぐように立っていた。
 芙美夏の位置から、助手席に乗せられた修一が泣きながら何かを叫び、父親の手に掴みかかるのが見えた。車のタイヤが空転し、そして突然スピードを上げ前進した。
「やめろっ」
 叫びながら大竹が車の前に立ち塞がる。
「駄目っ」
 芙美夏は、夢中で声をあげた。その声が、まるで自分の物ではないみたいに、どこか遠くで聞こえたような気がした。
 あたりに悲鳴と怒号、そして耳を劈くような、軋むタイヤの音が鳴り響いた。


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