風太は、艶やかな着物姿の綺麗な女性二人と、立ち止まり言葉を交わしていた。身体の向きから言っても、呼び止めたのは恐らく、彼女らの方なのだろう。
手前の女性の袖ぐりから覗く細くて白い腕が、珠恵の目に眩しく映る。男なら誰もが勘違いしそうな笑みを浮かべながら、伸ばした手が親しげに風太の腕を柔らかく叩く。その手は、その後も腕に添えられたままで――。
気もそぞろになっていた珠恵は、田臥の言った言葉に半ば無意識で頷いてしまっていた。
「じゃスマホ。――って、福原?」
「え?」
我に却り、そこから目を逸らして田臥を見つめた。
「だから、連絡先、交換しようって」
「あ……う、ん」
せっかくだから連絡先を教えて、と言われていたのだとわかり、一瞬躊躇する。それを感じ取ったのか、田臥がもう一度先程と同じような笑みを浮かべた。
その笑みが、なぜか今目にした女の人の笑顔と重なる。
「同窓会とかもさ、しようかって話も出てるんだ。そういう連絡も入れたいし。それにさ、もしよかったら、それとは別にまた飯でも食いに行こうよ。二人で」
なぜだろうか、さっきから微妙に感じていた田臥の言動に対する違和感のようなものが大きくなる。彼は、もともと確かに社交的で、あまりクラスの人と話すことのなかった大人しい珠恵にすら、あの頃でも声を掛けてくれた人だった。例えその時、名前すらうろ覚えだったとしても。
だからあの頃と同じように、確かに懐かしさもあって気軽に声を掛けてくれたのだろう。けれど、今目の前で田臥の話す言葉は、気さくなだけではない、どこか――軽い、のだ。
その軽さが気安さの表れで、彼の言葉ひとつひとつに深い意味はないのかもしれない。本気で誘われた訳ではない。今のも社交辞令で、きっと誰と会ってもこんな風に気軽に気さくに声を掛けるのに違いない。
意識しすぎる方が、図々しくておかしい――。
気持ちが半ば風太の方に引き摺られていたこともあり、珠恵は深く考えることはやめて、手にしていた鞄の中から携帯を取り出した。
「んと、じゃあ――」
田臥の指が自分のスマホを滑らかに操作する。慌てて珠恵もパスコードを解除しようとした時、ザクッと砂利を抉るような足音と共に、不意に手の中の携帯が大きな手のひらに奪われた。
「あっ……」
「珠恵」
片手に携帯を握り名前を呼んだ人に、珠恵と田臥の視線が向かう。
「何してる」
「風太、さん」
不機嫌そうな顔が、珠恵から今度は田臥へと向けられた。
――え、知り合い?
そう言いたげな視線が、珠恵と風太の間を行き来する。
「あー、もしかして、福原のカレシ?」
福原、とそう田臥が名字を呼び捨てた時、風太の眉がピクッと動いたことに、珠恵は気がつかなかった。
「あ……うん」
「へえ……」
驚いたように風太の顔から足先へと視線を巡らせて、田臥が微かに苦笑するのがわかった。
「福原さ、彼氏待ってるって言わないから。あ、俺、ナンパとかじゃなくて、ただの福原の同級生です」
「……そうなのか?」
「あ、はい」
視線を携帯に落とした風太が、田臥にもう一度目を向けた。無言のまま、笑みひとつ浮かべることもなく。その視線の強さにたじろぐように、少し気まずげに目を逸らして、田臥は取り出していたスマホをポケットにしまった。
「あー、じゃあ、福原。同窓会の連絡とかもあるかもしれないし、取り敢えずこれ渡しとくわ」
背中に回していた鞄から、田臥が取り出して差し出したのは、会社名が入っていないやけに凝ったデザインの名刺だった。
「同窓会のこととかクラスの奴らのこととかさ。知りたいことあったら、そこに連絡して。それ仕事用じゃないか」
「あ、うん。あの、ありがとう」
「じゃ、またな。会えて嬉しかった」
爽やかな笑みを浮かべて、風太にも小さく頭を下げた田臥が、ようやく仲間の元へと戻って行く。迎え入れた彼らは、田臥を軽く小突いたりしながら、そこから立ち去って行った。
「――行くぞ」
声を掛けられて振り返ると、風太はもう背を向けて彼らとは逆の方向へと歩き始めている。珠恵は慌てて後を追いかけて、その隣に並んだ。
「……教えたのか?」
「え?」
尋ねられて、何の事かと横顔を見上げる。
「連絡先」
こちらを見る事もないまま、風太の手から携帯が手渡され、受け取ったそれと田臥の名刺とを鞄にしまった。
「……いえ、あの、連絡先の交換はしてないです。それに名刺を貰ったので」
答えが足りてないのか、風太からは反応がない。言葉を足すように、珠恵は事の成り行きを話し始めた。戸惑いはしたが、意外な場所で久し振りに知った顔に会ってびっくりしたのは本当のことだった。
「あの、さっきの人、田臥君と言って、高校の時同じクラスだった人で。たまたま、今日学校の友達とここに来てたみたいです」
風太からは、やはり気のない返事が返ってくる。
「でも、覚えてくれていて声を掛けて貰ったことに、一番びっくりしました。私のことなんて、覚えてないと思ってたから」
そう言った途端、風太の足が止まる。けれど、どこか物言いたげな視線はすぐに逸らされて、結局何も言われることはなかった。ただ、どことなくさっき感じた不機嫌さは、消えてはいないようだった。
「あの男……」
ポソッと何か言いかけて、やはり言葉を飲み込むようにそれは途中で止まる。
「風太さん?」
見上げた横顔はこちらに向けられることもないままで、顔を正面に戻すと、隣からため息のようなものが聞こえた。田臥が気になっているのかと思い彼の事を話してみても、たいして関心を示す様子もなく、けれど、言いかけたのは確かに彼のことのようで。
何を言おうとしたのか、聞いてみようかと顔を上げた時、ふと風に乗って甘い香りが珠恵の鼻腔をくすぐった。その途端、先ほど神社の境内で目にした光景を思い出し、あの女性が触れていた風太の二の腕あたりに視線が止まる。
さっきの人の――。
そう思った途端、胸の中がモヤモヤとして、珠恵はそれ以上言葉が続けられなくなった。口を開くと、嫌な事を聞いてしまいそうだった。
さっきの女の人たちは誰ですか。
二人共、とても綺麗な人でしたね。
風太さんと……どんな関係の人ですか。
なんで――。
なんであんなに容易く、風太さんに触れたりするんですか。
鞄を持った手に力を入れて、珠恵はギュッと唇を結んだ。胸の中に湧き上がるのは、そんな言葉ばかりだ。嫉妬めいた感情が浮かぶ度、いつも自信のなさが顔を出しそうになって、そんな自分が嫌になる。何かを話そうと思っても、うまく気持ちを切り替えることができない。
風太には風太の、これまでに築いた世界や付き合いがあるのだと、もちろんわかっている。彼女らのどちらかが、ミカのようにかつて風太と関係があったのだとしても、それが今も続いているのだと疑う気持ちは微塵もない。
それなのに、呑み込んだ言葉が胸につかえたみたいに、初詣に出掛ける前には浮かれていた気持ちがしぼんでしまう。
新しい年を初めて風太と迎え、神様にも祈った直後だというのに。こんな気持ちを抱えていてはダメだと思いながら、互いにあまり口を開くこともなく、ぎこちなくなった空気が消えないまま、どこにも寄ることなく部屋へと戻ってきた。
* * *
冬の日が暮れるのは早い。薄暗くなった部屋の扉を開くと同時に、珠恵は息を深く吸い込んだ。
「ただいま」
昨日とは何も変わらなくても、新しい年が始まる日をこんな空気のまま過ごすのは嫌だと、気持ちを切り替えるように声を出して。
「人、思ったよりたくさん来てましたね」
と、ドアの脇にあるスイッチを押して部屋の明かりを灯す。初詣に付き合ってくれた礼を言おうと振り返ると、「ああ……」と、風太が探るようにポケットに入れた手を取り出した。
「そういや、これ」
珠恵に向けて差し出されたのは、今参ってきたばかりの神社の名前が入った白い袋だった。
「え?」
「ほら」
手に取って中のものを取り出すと、女性向けに造られた小さな淡いピンク色をしたお守りが入っていた。
「これって……」
「持ってねえだろ」
「あ、はい……あの、もしかしてさっき?」
「ん? ああ」
一人戻ったのは、このためだったのだ。珠恵は風太のためにお守りを買うことなど考えつくこともなかった。
「あの、風太さん、自分のは?」
「俺のはお前から貰ったやつがあるだろ」
「でも、あれは、受験の時のお守りで」
「それだけじゃないって、言わなかったか?」
「……そう、だけどでも」
確かに風太は今も毎日、あのお守りを作業着のポケットに入れてくれている。
「いらねえのか?」
苦笑いと共にそう言われて、慌てて首を横に振った。
「いります」
「ま、気休めくらいにはなんだろ」
笑って部屋の奥に向かおうとする風太からは、もうさっきまでの機嫌の悪さは感じられなかった。
この人は――いつもこんな風に、言葉ではない態度で伝えてくれる。
遠ざかりそうになる風太の腕に手を伸ばし引き寄せて。珠恵は、さっきあの人が触れていた場所を上からなぞるように、ぎゅっとその腕に抱きついた。
「……珠恵?」
ごめんなさいとありがとうのどちらの言葉を口にしようかと迷いながら顔を上げると、腕が抜かれて、その手に背中を引き寄せられた。近付いてくる視線を受け止めて、目を閉じた時には唇が重なっていた。
いつもよりも、少し強引に割り込んでくる舌を受け止めて、長く深いキスを交わす。強く求められていることが伝わる唇に、不安とか迷いだとか不満だとか、下らない嫉妬も全部が消えていくような気がした。
ようやく風太の腕の力が抜けて唇を分かつと、ここが居場所なのだと確かめるように、珠恵は肩口に火照った顔を落とした。もう目を閉じていても、その下にある桜の花びらに触れることができるくらいには馴染んだその場所に。
「……なあ、珠恵」
頭上から聞こえた声に顔を上げようとすると、そのままそこに居ろというように、強く抱き締められる。
「お前……」
「……はい」
「あんまり簡単に、男に連絡先とか教えるな」
腕の中で目を開いて、さっきの田臥のことを言っているのだとわかると、風太の不機嫌の理由も見えた気がした。
「――ごめん、なさい」
肩口に顔を伏せたまま頷いて、色んな意味を込めてその言葉を口にした。
「あいつ……」
多分、田臥のことをなにか口にしようとしたのだろうけれど、やはり小さなため息だけがその後に続いた。
「田臥君は、ただの、同級生です」
「わかってる」
今度こそ顔を上げると、やっぱり少しだけ不機嫌そうな顔をした風太が珠恵を見下ろした。
ヤキモチ、なのだろうか。ここにターニャや真那やそしてミカがいたら、きっとそうに決まってると笑うだろう。けれど、本当に珠恵にはよくわからないのだ。風太がそんな風に思うほど、他の男の人は自分に関心などありはしないのに――と。
けれどほんの少しだけ、もしもそうであるならば、自分だけじゃないのだとくすぐったく嬉しい気持ちも感じる。
確かに、珠恵はかつて田臥に、憧れのような気持ちを抱いていたことがあった。それは、本当に淡いままに消えてしまったままごとのような恋だった。風太に対する気持ちとは、全然違う。今日、田臥と話していて、より深くそのことを実感した。
「風太さん」
僅かに眉間を寄せた鋭い眼差しを見上げて、踵を上げて、唇を合わせる。そのまま顔を合わせるのは気恥しくて、もういちど肩口に額を寄せた。
「お守り……大切にします」
しばらく経っても何も反応がなくて、おずおずと顔を上げてみると、僅かに緩んだ目元に優しげな笑みが浮かんだ。田臥が見せたものとは違う、珠恵の好きな片側の頬が窪む風太の笑顔だった。
目が合って瞬きをする間に、その笑みの形が少し意地悪そうなものへと変わる。そして、不意に両足が床から離れ身体が浮き上がった。
「ふ……風太、さん、あの」
「何だ」
部屋をひとつ通り抜ける時には、もうその意図は明白になっていた。
「親方さんたちが、戻ってくる頃じゃ」
「だから何だ」
「だから、あの、母家に戻った方が」
「いつも戻ってくんのは結構遅い時間だ」
「……本当、ですか?」
「さあな」
「さあなって、やっぱりあの、風太さん、待って」
「……珠恵」
「……はい」
「もう黙っとけ」
さとすように落とされるキスに、さっきまでの拗ねたような気持ちも、今日感じたモヤモヤも、全部が少しずつ溶かされて。目の前に居る人の事だけでいっぱいになっていく。
「――あっ」
「……何だ」
「あのっ、待って」
「……は?」
「ちょっと、待って、ください」
「待て待てって、お前が誘ったんだろ」
「さっ……誘ってません」
「どっちでもいいから、ほら腕上げろ」
「待って、あの風太さん」
「……だから、なんだ」
「あの、お守りが」
「……その辺、置いとけ」
「そんなの、だめです」
「……別に構わねえだろう」
「ちゃんと、鞄にしまわないと」
「……後で渡すんだったな」
「……え」
「いや、ったく……ほら貸してみろ」
「――あ」
「これで、いいか」
「……はい」
広い背中に腕を回し、目を閉じてそこにある温もりを互いに感じて。
風太だけで自分の中が満ちる前に、もう一度、今日、手を合わせて胸の中で口にした願いを強く念じる。
――どうか
どうか風太さんが、怪我することなく、無事に一年を過ごせますように。
どうか……ずっとずっといつまでも
この人と共にいられますように。
(fin)