夜食の準備のために台所に立ちながら、そろそろ二人が帰って来るころだろうかと考えていると、玄関の戸が開く音に続いて
「ただいまぁ」という翔平の声が聞こえた。
喜世子はなぜだか扉が開く前に気配を感じ取ることが出来るようだが、珠恵はまだそこまでには至っていない。
外に神経を向けていたはずなのに、やっぱり今日もわからなかった。
コンロの火を止めて、慌てて二人を出迎えるために廊下に出ようとしたところで、急に目の前に人影が現れた。
「うわっと」
「ご、めんなさい」
急いだつもりだったが、もう居間の手前まで来ていた翔平にぶつかりそうになり慌てて足を止める。
「びっくりした、大丈夫? 珠ちゃん」
避けた拍子によろけそうになった珠恵の腕を、翔平が咄嗟に掴んで支えてくれていた。
「あ、大丈夫……」
体勢を立て直し、礼を口にしようと翔平を見上げた時、また玄関の扉が開く音がしてそちらへと顔を向けた。
後ろ手に戸を閉めた風太が、玄関先に佇んでこちらへと視線を向けている。
「お帰り、なさい」
「……ああ」
ボソッと答えた風太の声が、少しくぐもって耳に届く。
「……あっ!」
急に何を思い出したのか、声を上げた翔平が珠恵を支えてくれていた手を腕から離した。もう一度礼を言おうと顔を振り向けると、翔平は玄関の方を見ながらどこか引き攣ったような笑みを浮かべている。
「翔平君?」
「おれ、て、洗ってくる」
呼び掛けた珠恵を殆ど見ることもなく、翔平はそそくさと洗面所へ向かって行ってしまった。
「何だ、あいつ」
翔平の後ろ姿が廊下を折れると同時に、すぐそばから声が聞こえて、振り返ると風太が後ろに立っていた。廊下の先へ向けられていた視線が戻ってきて、じっと珠恵の顔を見つめる。
「何してた」
「え? あ。あの、ご飯を作ってました」
「……いや」
「え?」
何か他に言いかけた気がして、伺うように風太を見上げた。けれど、小さく息を吐き出しただけで、それ以上何も言わずに居間へと入って行ってしまう。
ほんの少し機嫌がよくないように思えて、疲れている上にお腹も空いているに違いないと、珠恵も急ぎ風太の後に続く。
そのまま台所へ足を向けようとした時、手を洗った翔平も居間へと戻って来た。
「たまちゃん、さっきはころばなくてよかったね」
不自然な程に明瞭な口調で、そう後ろから声を掛けてきた翔平は、何かを訴えかけるような瞳で珠恵を見ている。翔平が何を言おうとしているのかよくわからないまま、そういえば礼がまだだったと思い出して、笑みを向けた。
「あの、さっきはありがとう」
「いや、よかった、ころばなくて」
荷物を部屋の隅に置いた風太は、そんな遣り取りをしている二人の横を関心もなさそうに通り過ぎて、部屋から出て行く。
きっと洗面かトイレだろうと思っていると、隣で翔平が、身体中を脱力させるように大きな息を吐き出した。
「どうしたの、翔平君?」
「え……どうって、風太さん超怖かっただろ」
「え?」
確かに、帰ってきた時少し不機嫌そうにみえたが、怖いとまでは感じなかった。
「あの、何かあったの?」
「え? いや、そうじゃなくて、ほら、さっき帰ってきたとき。……え?」
「え?」
「あの、さ。珠ちゃんなんも感じなかった?」
「え……ちょっと、疲れてるのかな、って」
「……」
「違うの?」
「あー、いや……うん。そうかな……多分、そうだと思うよ」
何度か瞬きを繰り返し、遠くを見つめるみたいな目をして曖昧な笑みを浮かべた翔平は、そのまま珠恵のそばを離れると、居間の奥へ足を進めて定位置に腰を下ろした。
「あー疲れた腹減ったー。珠ちゃん、今日何?」
リモコンを手にチャンネルを替えながら、半分だけ顔を振り向けた翔平が聞いてくる。
「え、あ、ハヤシライス。すぐ出来るから、ちょっと待ってね」
さっきまでの遣り取りにやや引っかかりを覚えたものの、夜食の支度をしなければと思い出して、慌てて台所に戻った。
喜世子は、今日は町内会の会合があり、その後は親しい人達とカラオケに行くのが定番のようで、珠恵は夜のご飯の支度を引き受けていた。
食事の仕上げに取り掛かりはじめると、居間からは、翔平が少しボリュームを上げたらしいテレビの音が聞こえてくる。風太も、戻ってきたようだ。
ハヤシライスソースの鍋を弱火にかけておき、冷蔵庫から取り出したサラダに、作り置きしていたオニオンドレッシングをかけてお盆に並べる。もう一つの鍋で作っていたカブとベーコン、シメジを入れたコンソメスープも、仕上げにと取り置いていたカブの葉を散らして煮立たせる。
ちょうど火を止めたタイミングで、台所へ飲み物を取りに来た翔平に、ビールの缶と麦茶を入れたグラスを手渡した。
「翔平君も座ってて。ドラマも始まるし」
二人とも仕事をして学校にも行っているのだ。それに翔平は、確か今日放送のドラマを毎週欠かさず見ていたはずだ。
「ん、じゃ、これだけ持ってくよ」
頷いた翔平は、お盆に乗せていたサラダやスプーンなどを一緒に運んでくれた。
「いっただっきまーす」
さっそく聞こえて来た声に答えを返して、ぼやぼやしてたらサラダなどあっという間に無くなってしまうと、レンジで温めたお皿を取り出しご飯をよそうため杓文字を手にした。
「あっ、これ」
そのタイミングで突然、翔平が声を上げるのが耳に入った。
「このCM、この子ちょっと珠ちゃんに似てないっすか」
――え
つい、手が止まる。いったい誰のことを言っているのだろうか。けれどそれを確かめるために居間を覗くこともできない。
珠恵の位置からは、辛うじて風太の後ろ姿だけが見えている。翔平の発言だけでなく、話を振られた風太のリアクションも気になってくる。
ご飯の用意を――と思っているのに、珠恵は息をひそめるようについ様子を伺ってしまっていた。
けれど風太は、あまり関心がなさそうな様子でチラッと一瞬顔を上げただけのようだった。
「反応遅いっすよ、まあ、またやると思うけど」
翔平の返答からして、多分間に合わなかったのだろう。こっそり聞き耳を立ててしまった珠恵の耳にも、商品名をメロディに乗せた音声が聞こえてきたので、それが有名な炭酸飲料のCMだということはわかった。
どんなCMだっただろうか、とぼんやり考えながら、炊飯器の蓋を開けた。
「うーん、なんだったっけな」
唸るような翔平の声が聞こえてくる。
「あっ、そうそう、あれに出てた、ほらあれっすよ、こないだ見てた――ってドラマで妹役やってた」
――翔平……くん
制服を着た女子高生の姿が、珠恵の脳裏に浮かんだ。その途端、なおも話を続けようとする翔平の口を塞いでしまいたくなる。
そもそもが自分で言い出した訳でもないのに、居た堪れなさが込み上げる。
「……さあ」
「さあって」
どうやら風太のノリは今ひとつのようで、 答える声が面倒臭そうだ。
「なんかあれっすね、風太さんてアイドルとかそういうのに喰いついてこないっすよね」
「……そうか」
「あれっすか? 興味ないとか」
「ねえな」
「それってやっぱあれっすか? もっと大人のオンナがイイとか? ん? いや、でもあれっすよね、珠ちゃん……え、なっ、なんっすか」
「お前、あれっすか、しか言えねえのか」
「へ?」
「つかほら、いいのか、始まってんぞ」
「あっ」
CMが終わり、ドラマが始まったのだろう。二人の会話が途切れた。
我に返って、湯気を上げた炊飯器の蓋を開けたままだったことに気が付いた珠恵は慌ててお皿にご飯を装った。居間からは、もうテレビの音声しか聞こえてこない。
翔平が言っていたのは、恐らく最近、清楚な雰囲気や透明感が評判となり、ドラマなどに起用されることが増えている若い女優さんのことだろう。そういった情報にあまり詳しくない珠恵が彼女を覚えているのは、去年の夏、毎年いくつかの出版社が行う夏の文庫本のキャンペーンポスターのひとつに彼女が起用されていたからで、それ以外の情報源は真那だ。
普段あまりテレビを見ない風太は、恐らくよく知らないのだろう。正直なところ、珠恵は風太がCMに間に合わなかったことにも、関心がなさそうだったことにも、ホッとしていた。
* * *
「お風呂、お先でした」
夜食を終えると、翔平はドラマを最後まで見たいと言い、風太は部屋で道具の手入れを始めたので、珠恵は先に風呂を使わせて貰った。
部屋に戻ると、もう作業を終えたらしい風太は、テーブルの上でノートパソコンを開いている。
珠恵が仕事の調べものなどのために購入していたものを、実家から弟に持って来て貰ったそれを、最近は時折風太も使っている。
「あの、翔平君が先に入ってくださいって」
「ん、ああ」
画面から少しだけ目を離して珠恵の顔を見た風太は、すぐに視線をパソコンへと戻した。カチカチと何度か忙しなく指がマウスを押す。恐らく、開いていた画面を閉じているのだろう。
「あ、私も使うので、電源は切らないで下さい」
「ん……」
上の空で頷いた風太は、操作を終えると立ち上がり、珠恵と入れ替わるように部屋を出て行った。後ろ姿を見送ってから、先に寝支度を整えあとは眠るだけの状態にしてから、珠恵はパソコンの前に座った。
風太が、普段これを使って何を調べ、何を見ているのか、珠恵は知らない。
パソコンをほんの少ししか使った事がないと言っていた風太に、最初に簡単な説明をしただけで、すぐにある程度使いこなせるようになっていた。
――えー気になるー。あ、履歴見たらエッチなサイトとかあり得るよね。あんまりコソッと見てるのとか想像つかないけど、森川さんだって男の人だもんねー。
珠恵の脳裏にチラッと、真那が口にしていたそんな声が過る。
――ああダメダメ珠ちゃん。知らない方が幸せなこともいーっぱいあるんだから、彼氏の携帯とかパソコンの履歴とか財布とか、見てもいいことなんもないよ。
会話に混じってきた板野の妙に実感のこもったそんな言葉も続けて思い出し、無意識のうちにじっと見つめてしまっていたパソコンの画面から少し目を逸らした。
風太も、そういう動画やサイトを見ているのだろうか。男の人なのだから、そういうものを見たいと思うだろうことは理解できる。
――彼女や奥さんがいたところで、男はね、それはそれ、あれはあれなのよ。
と言っていたのは、ターニャだっただろうか。
珠恵自身、まさか自分だけで風太が満足していると思うほど、自信があるわけでもない。だからそれくらいのことでショックを受けることはない――つもりだ。でも、そうだろうと思っていることと、いざ本当に知ってしまうことは違う。きっと、落ち込んでしまうのだろう。
やっぱり、知らない方がいいのかもしれない。そんなことを考えながら、気を取り直しパソコンの画面へと視線を移して、タスクバーから検索サイトの画面を立ち上げる。
――……え?
開いた画面の上でマウスを動かそうとして、タブがひとつ余分に開いていることに気が付いた。そこに書かれた文字を目にした途端、珠恵の心臓が小さく跳ねる。
風太が閉じ忘れたのだろうタブに入っているのは、さっき翔平が言っていたCMの商品名だった。
たまたま――そう考えるのは流石に不自然だろう。不可抗力とはいえ後ろめたさを覚えながらも、珠恵は、息を詰めてそっとそのタブを開いてみた。
目の前に現れたのはやはり炭酸飲料の宣伝のページで、CM動画や出演している女優の情報、インタビューも掲載されている。
顔が、だんだんと熱くなる。
これを見て風太はいったい何を思っていたのだろう。さっきはあんまり関心なさそうだったのに、わざわざ調べたんだろうか。
――もう、なんで……? でも、あれは翔平君が……
悶々とそんなことを考えている間に、自分が調べようと思っていたこともすっかり頭の中から抜け落ち、つい誘惑に負けてマウスのボタンを押してしまった。
少しの間を置いて、動画が始まる。珠恵も初めて目にするそれは、テレビCMのロングバージョンのようだった。
動いて話している彼女の映像を目にした途端、その姿に目が引きつけられてしまう。
学校の図書室で、好きな人が読んでいた本を手に取り、愛しそうに胸に抱える高校生の女の子。廊下ですれ違いざま、彼女が持っている本に向けられる男の子の視線。クラブ活動の情景や、通学路で交わす挨拶。青春を感じさせる爽やかな曲に合わせ場面が切り替わる。最後は、放課後の教室で、彼女が彼を見上げて、はにかみながら告白するシーンで締められ、キャッチフレーズと共に商品が紹介される。
少女マンガのような作りのそのCMを見ながら、珠恵は、彼女との共通点なんて、無理矢理見つけてせいぜい髪が黒いことくらいだ、と思った。
きっと翔平は、図書室が出てきたから、珠恵と結びつけた程度のことだったのだろう。
それにしても、さっきパソコンから顔を上げた風太が、この子と珠恵とを見比べていたのだとしたら落ち込みたくなる。
その時、ガタっと扉の開く音がして、風太が風呂から戻って来た。慌てて開いていたタブを全部閉じながら、心臓がバクバクいっている。
「お、お帰りなさい」
いつも風呂から戻った風太に、何と声を掛けていただろうか。咄嗟にお帰りなさいと口にしながら、顔が真っ直ぐに見れない。
「どうした」
部屋に入って来た風太の声が、心なしか怪訝そうに聞こえる。
「え」
「顔、赤いぞ」
「え……あ、あの、お風呂上りで」
「風呂って、だいぶ前に出ただろ」
「……」
「どっか具合でも悪いのか」
「いえ、あの、何でも」
しゃがみ込んだ風太が、額に手を当てる。具合なんてどこも悪くないのに、すぐ目の前に顔を近付けられて、余計に顔が赤くなってしまう。
「あの、本当に、なんでもないです」
「ほんとか?」
「はい」
手を離したものの、風太は、何かいいたげに、じっと珠恵の顔を見ている。さっきの映像を思い出して、何とも居た堪れない気持ちになり、珠恵はつい目を逸らしてしまった。
「まだしばらく、それしてるか?」
立ち上がった風太に聞かれて、肝心の自分の調べものは、まだ何もしていなかった事を思い出す。
「え? あ、はい……あと少しだけ」
「なら、先に寝るわ」
「はい、あの私も、すぐに終わります」
風太の姿が先に隣の部屋へと消えると、気持ちを落ち着かせるようにそっと息を吐いた。もうさっきの映像も翔平の発言も忘れてしまおうと、自分に言い聞かせる。
けれど、結局なんだか集中できないまま、答えが必要だった疑問を急ぎでひとつ調べただけで、珠恵はパソコンを閉じてしまった。
手前に敷かれた布団の中に身体を潜り込ませ、隣の布団に横になった風太におやすみなさいの声を掛けて、仰向けになり目を閉じる。
けれど、ずっと目を瞑っていても、一向に眠くならない。しばらくは寝返りをうつのも我慢していたが、寝なければと思えば思う程、目が冴えてくる。つい溜息に似た息を吐き出して、ソロソロと身体の向きを変え、何気なく隣へと顔を向けると、こちらを見ている風太と目が合った。
「……起きて、たんですか?」
「ああ」
瞬きを繰り返すうち、少しずつ暗闇に慣れた目に、風太の顔がはっきりと見えてくる。
「眠れないですか」
「……お前は?」
「何か、目が冴えてきて」
暗い部屋の中で、自然と小さな声で話しながら、明るい場所にいる時よりもじっと風太の目を見つめてしまう。
布団の中で身動きをした風太が、掛布団の端を持ち上げた。
「こっち……来るか」
鼓動が、微かに速くなる。少しだけ視線を逸らしてから小さく頷いて、自分の布団から隣へと移動した。
すぐに、慣れた腕に引き寄せられて、温かな体温に包まれる。それだけで、安心してしまったのか頭がぼうっとしてくる。
「……なあ」
頭上からの声に顔を上げて、さっきよりもずっと近い距離にある風太の目を見つめた。
「お前……したことあるか?」
「した、こと?」
何のことかよくわからず、そのまま問い返すと、後頭部に回された風太の手に顔を肩口へと寄せられてしまい、表情が見えなくなる。
「つうか……いたか」
「あの、風太、さん?」
――したこと、いたか、
やっぱり、言われている事がわからなくて答えあぐねていると、髪に触れていた風太の手の動きが止まった。
「普通の高校生とかなら、あんだろ、学校とかで、何つうか……告白する、みてえなの」
――好きです
さっき見たばかりの場面を思い出して、心臓がトクッっと跳ねた。顔が、熱くなる。
「え……あ、あの」
動揺が声に出てしまい、それで珠恵が質問の意味を理解したと風太にも伝わったのか、触れ合っている身体が、微かに身じろぐ。
「なんで、ですか?」
「や……まあ、何となく。……つか、あんのか」
くぐもって届いた声に、どこか少しだけ不機嫌そうな響きが混じっているように聞こえる。
「い、いえ」
「……」
「あの、ありません。……したこと、ない、です」
自分が高校生だった頃、あんな風に好きな男の子に告白をするとか、そんな事は考えられなかった。
少しだけ、意識した相手なら確かにいた。恋になる前に消えてしまったあの頃の想いは、けれどきっと恋になったとしても、今、風太に抱くような想いとは違っていた気がする。
胸元から、もう一度顔を上げて。なぜかやっぱり、少し機嫌が悪そうに見える風太を見つめた瞳を伏せて、小さく息を吸い込む。
「あの……」
「……ん」
「風太さん、だけです」
「……」
風太の身体が、少し揺れる。
「そういうの……私全然で……だから、あの、風太さんにしか、言ったこと……」
口にしながら、風太に初めて好きだと告げた時の事を思い出して、まるで、今初めて告白しているみたいに、胸が痛くてドキドキした。
全然違うのに、自分が、まるであのCMの中の女の子になったような気持ちがした。
伏せていた視線を呼び戻すように、首筋に触れた風太の手が珠恵の顔を上向かせる。
「俺だけ、か?」
目を見て、小さく頷く。近付いてくる風太の頬に、僅かに小さな窪みができる。
「何がだ?」
わかっていながら、わざとわかってないフリをする顔からは、さっきまでの不機嫌さが消えている。
「……きって……言ったの」
何度も口にしている言葉なのに、恥ずかしさに声が擦れて、やっぱり瞳を伏せてしまう。
それでも、ほとんど唇が触れるくらいの距離まで近付いた風太の目元に、少し意地悪そうな笑みが浮かんでいるだろうことは、何故か見なくてもわかる気がした。
「聞こえねえな」
吐息がかかるほどすぐそばで、くすぐったくなるくらい微かにだけ触れる唇が、そんな嘘をつく。
……好きって
答えようとして、風太の目をそっと見つめる。言ってみろと乞うようなその瞳を見ながら、小さく息を吸った。
きっと、その言葉は最後まで口に出来ずに、飲み込まれてしまう気がしたから。
(fin)