小さな足音が、時折、慌てたように駆け足になる。
ベンチに腰掛けていた喜世子は、廊下を近付いてくるその音の方へと顔を向けた。
いつもの珠恵ならば、絶対にこんな場所で足音を立てて走ることはしないだろう。当たり前だが、今は冷静ではないことがよくわかる。
そう思いながら立ち上がった喜世子の姿を認めて、歩調を緩めた珠恵が、肩を上下に揺らしながら目の前で立ち止まった。
「珠ちゃん」
「あっ……あの、ふっ……た、さん、は」
息をひとつ飲み込んでから口を開いた珠恵の顔はひどく強張っていて、けれど喜世子が心配していたようには、泣いた様子は見られなかった。
「手当てと検査も終わって、今は眠ってるよ」
「そう、ですか」
「うん」
不安を紛らわせようとしているのか、睨むような眼差しを向けてくる珠恵の肩を、喜世子はそっと撫でた。
「珠ちゃん、とにかく。まずはここ座ろうか」
先に座って長椅子の隣を示すと、開きかけた唇を結んだ珠恵が、浅くそこに腰を下ろした。肩から二の腕を撫で下ろした手で珠恵の手を取ると、重なったそこからは、冷たさと微かな震えとが伝わってくる。
喜世子が思っていたより少し早くやってきた珠恵は、おそらく、仕事を切り上げて帰ってきたのだろう。
残しておいた留守電に折り返しの連絡があったのは、3度目のメッセージを送った直後で、珠恵の声色は、当然ながら不安や動揺を隠せないものだった。
なるべく頻繁に状況を知らせるメッセージを送っていたからだろうか、今は電話で話した時よりやや落ち着いているようにも見える。けれど、本当に心配で堪らないだろう――と、喜世子は手をゆっくりと撫でながら、できるだけ穏やかに声を掛けた。
「仕事中に何度も連絡入れて、ごめんね」
「いえ」
「大丈夫だった?」
「はい、あの、事情をきいた早番の人が、シフトを変わってくれたので」
「そう、よかった。あのバカ、本当に心配させたね」
笑いながらそう言った喜世子へと、ぎこちない笑みが返ってくる。
「電話でも話したけど、入院してもしなくてもどっちでもいいって言われたんだけどね。まあ、怪我の場所が場所だけに、今日一日は大事をとって入院させて貰えたらって、お願いしたんだよ。それでよかった?」
「……はい」
「風太とは、ちゃんと話もできたから。まあちょっとね、怪我した時のことはあやふやで思い出せないみたいだったけど、頭だとそういうことはあるって」
「……はい」
「あとね、明日から一週間程は安静にして様子をみた方がいいって言われてるから、その間はうちで過ごすようにしなね。前みたいに二人で客間を使うように用意しておくから。その方が珠ちゃんも、安心して仕事に行けるだろ」
「……でも」
「珠ちゃん」
迷うように揺れる眼差しが、喜世子を見つめている。すぐには、何をどうするべきなのか判断がつかないのだろう。
「そこは遠慮するところじゃないからね。私だって風太が心配だし、雇い主としてもちゃんと看る責任だってあるから。第一、今更遠慮するような間柄じゃないだろ」
そう言って笑ってみせると、今度は「はい」という返事が返ってきた。
「ありがとう、ございます。よろしくお願いします」
「うん、それでいいよ。じゃあそういうことにして、私は手続きをして先に帰るから、珠ちゃんは、少しの間でも風太のそばにいてやりなね。顔だって早く見て安心したいだろ」
触れた手から、ほんの僅かに力が抜けるのがわかる。病室は個室のため、少し遅くまで付き添っていいと許可をもらっていることを伝えてから、喜世子は、珠恵を伴い風太の病室へと足を向けた。
ようやく少しだけ落ち着いたのか、珠恵は、歩きながら、何か必要なものや着替えなど持ってきた方がいいものがあるか、と尋ねてくる。入院のものはひと通りレンタルしたから何もいらないと答えた喜世子は、そういえば――と、思い出して口にした。
「明日の着替えがなかったね」
「あの、それなら私、今夜にでも」
「そうだね、でも、それは明日の朝荷物と併せて持ってきてくれればいいよ」
そうして、これも伝えておかなければならなかったと、言葉を続ける。喜世子も、珠恵の姿をみて、ようやく人心地がついたのかもしれなかった。
「それから、病院の手続きはね、今回の怪我は仕事がらみで相手もあることだし、お金のことを含めてこっちでできることはするから、心配しなくていいよ。また改めてちゃんと話はするけど」
「はい」
「だからね、今日のところはとりあえず、珠ちゃんは風太の方をお願い」
「……わかりました」
「あんたも必要な準備をして、明日からでもうちにくればいいからね」
少しだけ泣きそうな顔をして頷いた珠恵が、喜世子へと頭を下げる。その腕を軽く叩いてから、喜世子は、病室のドアをそっと開けた。
個室のため、入口からはベッドに横になっている風太の姿だけがみえる。
「まだ眠ってるね」
痛々しい怪我の痕が目に映る風太から視線を逸らし、喜世子はそっと後ろを振り返った。
「じゃあ、あとは頼んだからね。目を覚ました時に、私じゃなくって珠ちゃんの顔見る方が、あの子も嬉しいだろうし」
固く強張った珠恵の顔を見つめて、大丈夫だといい聞かせるように軽口をたたいて笑う。ぎこちなくも返ってきた笑みに頷いてから、喜世子は、後ろに下がった。
病室に足を踏み入れた珠恵が、僅かに、止めた息をひとつ吐き出すように背中を揺らすのがわかる。
ゆっくりとベッドへと近づくその後ろ姿を見つめてから、喜世子は扉を閉め、病室を後にした。
* * *
――風太が現場で怪我をした
そんな連絡が入っていたことに珠恵が気が付いたのは、午後の会議が終わったあと、ふと時間を確かめようとポケットの携帯を見た時のことだった。
乳幼児や就学中の子どもを抱えた職員も多い図書館では、利用者の居るエリアでの使用は認められていないが、仕事中に携帯を所持することは、利用方法を含めて個々の裁量に委ねられている。
珠恵が何気に手に取ったそこに入っていたのは、喜世子と、そして一寿の妻である美和からの着信と幾つかのメッセージの通知で、それを目にした途端、心臓が嫌な風に跳ねるのがわかった。
珠恵が仕事中だということを知ってる2人から、こんなにもたくさん連絡が入っているのは、よほど急を要する用件に違いないと、そう思いながら廊下の脇に寄り、メッセージを確かめてみた。
『落ち着いて聞いてね――』
という言葉が目に入った途端、寒気のようなものを覚える。ぎこちなく指で画面に触れて、続く文字を読みながら、珠恵は血の気が引いていくのがわかった。
「――珠ちゃん?」
後ろから声を掛けられて、のろのろと顔を上げる。「どうかした」と言い掛けた板野が、携帯を手にしたままの珠恵を見て、眉根を寄せるのがわかった。
「何か、あった?」
「あの……」
「ちょっと、大丈夫?」
すぐにわかるほど動揺が顔に出ていたのだろうが、この時の珠恵にはそれに気がつく余裕はなかった。
「あ……あの、ふ、森川さんが、怪我したって」
答える自分の声が、どこか遠いところから聞こえてくる。
「えっ」
「現場で、頭をう、打って、病院に……」
「待って、酷い怪我なの?」
板野の声色も変わるのがわかった。と同時に、慰撫するように背を撫で下ろしてくれる手の温もりを感じて、ほんの僅かに気を取り直す。板野には、馴れ初めから風太のことを時々話していたから、2人の関係を真那の次ぐらいには知ってくれていた。
「すみません」
辛うじて首を横に振ってから、もう一度小さく震える指を動かし、いくつか入っているメッセージのうち最新のものを開いてみた。
嫌な感じに鼓動を刻む心臓の音が耳に響いて、頭が上手く回らない。それでも、側にいる板野の存在に支えられるように、画面に浮かぶ文字を追った珠恵は、僅かに、安堵の息を零した。
「頭を、何針か縫ったけど、意識はあるし、大丈夫そう、だっ……」
内容を読み上げながら、唇が震えてしまう。まだ早いままの鼓動は静まることはなかったが、動揺を逃がすように細く息を吐いてから、珠恵は唇を噛み締めた。
「よかった」
ホッとしたような声とともに、添えられた手が背中を優しくさすってくれる。
「すみません、ありがとうございます」
「ううん、でも、大丈夫っていっても頭だし心配よね」
「はい……」
時計を見た珠恵は、躊躇いを捨てて板野に顔を向けた。
「あの、仕事中に、すみません。少し電話だけさせて貰っても」
「もちろん。私、それ持って先に戻っておくから」
心配そうな眼差しを向け頷いた板野が、珠恵が抱えていた会議用資料の書籍数冊を、引き取ってくれる。
頭を下げて、足早に近場の使用していない会議室へと入った珠恵は、もう一度自分を落ち着かせるように息を吐いてから、喜世子へと電話を入れてみた。
昨日から余所の現場にヘルプで入っていた風太は、そこで、まだ仕事に不慣れな若手の職人を庇い、怪我を負ったらしかった。
コンクリートブロックに打ち付けた傷が深く出血が多かったことや、手に負った擦傷が深かったこと、何よりほんの短い時間ではあったが意識を失っていたため、病院に運ばれたのだという。
駆け付けた喜世子とも普通に話は出来ていたし、本人の意識は比較的しっかりしている。吐き気などもないが、傷の縫合が必要だったことや脳震盪を起こしたことから、大事をとってひと晩入院させて貰うことになった――。
喜世子からのそんな説明を、緊張に身体を強張らせたまま聞きながら、珠恵は、焦るような気持ちと共に、時間が止まっているような現実味のなさをどこかで覚えていた。
「……喜世子、さん」
「――ん?」
「あ……いえ、何でも」
大丈夫ですよね――と確かめようとして、その言葉を飲み込んだ。目に見えていない分、悪い方の想像に気持ちが引っ張られそうになる。どんな答えが返ってきてもきっと、本当の意味で安心などできそうにない。
「大丈夫だよ、珠ちゃん。あの子、こんな怪我ははじめてじゃないし、なんせ頑丈さはお墨付きだからね。しばらくは珠ちゃんの代わりに私がついてるから、帰りに、病院に顔出してやって」
口にできなかった問いが聞こえたかのような喜世子の言葉に、目蓋が震える。口元を抑えて息を吐いてから、珠恵は返事をした。
「……はい。なるべく、早く行きます」
「うん」
「あの、喜世子さん」
「うん?」
「風太さんのこと。どうか宜しくお願い、します」
少しの間を置いて、「任せときな」という答えが返ってくる。いつもと変わらない頼もしく明るい声に、ほんの少し気持ちが救われた気がして。
見えない向こう側に頭を下げながら、珠恵は、無意識のうちにシャツの胸元を強く握り締めていた。