本編《Feb》

第五章 下弦の月2



 午後からの調印式や記者会見に向けて、その日は朝から慌ただしかった。正午前には、提携先のシュナイゼルノイン社の担当者と副社長が、ドイツからここ二条ホールディングスの本社に到着することになっている。
 その後打ち合せとランチを経て、正式に契約を結び、午後三時から共同記者会見、夕刻からはパーティーが予定されていた。
 担当者だけでなく、秘書や他の部署から駆り出された社員も、準備の為に走り回っている。二条側の責任者でもある功は、早朝から準備に取り掛かっていたため、11時になる頃には、執務室で何度も見直した資料の最終確認をもう一度だけ行っていた。
 室内に内線の呼び出し音が響き、ボタンを押すと秘書の声が聞こえた。
『CSR福祉担当の吉村室長から内線が入っていますが、如何致しますか?』
 時計を見ると、先方の来社まではまだ少し時間がありそうだった。他の業務も出来るだけ滞らせたくない功は、電話を繋ぐように指示をした。「畏まりました」の声と共に通話が切り替わる。
 CSR事業福祉担当部は、二条ホールディングスの社会福祉活動を担う、功がチームの一員として、それまでよりも組織を充実させ独立した担当部に編成しなおした部署だった。
 企業収益の一部をチャリティー活動や寄付に充てるだけでなく、社内、社外で集めた募金や物品、などを全国の子ども向けの施設に寄付したり、人材を派遣する活動にも主に力を入れていた。
『お忙しいところ、申し訳ありません』
「いえ、どうしました」
『お耳に入れるか迷ったのですが、実は、先日専務が、次期寄贈先の候補にと上げられた北海道の柊丘学園の事で』
 芙美夏の働く園の名前が出て、功の口調が少し鋭くなった。
「何か問題がありそうですか」
『いえ……と言いますか、明日現地を訪問する予定でスタッフが昨日から北海道に向かい準備をしていたのですが、つい先ほど連絡がありまして』
「ええ」
『実は今朝方、園内で何か事故があったようでして』
 心臓が、微かな痛みを伴いトクッと跳ねた。
「――事故」
『はい、現地の方が情報が早いようですが、恐らくそろそろネットの速報等で確認出来る頃かと思います。まだ詳細はわからないのですが、園内で職員が車に跳ねられたようです』
 思考が鈍り、背筋が冷たくなっていく。
『ですので少し訪問を伸ばそうかと思うのですが、専務からのお話でしたので、先にご連絡をと』
「被害者の、名前はわかりますか?」
 吉村の話を遮り問い返す。
『いえ、まだそこまでは。もしかして……どなたか専務のお知り合いがいらっしゃるのですか』
「吉村さん、直ぐにスタッフに連絡して被害者の名前を調べて下さい。私に繋がらなければ、秘書に伝言を、お願いします」
 動揺した様子の吉村の返事を待たずに受話器を置く。すぐに携帯で芙美夏の番号を鳴らしてみたが、電源が入っていないとのアナウンスが聞こえてきた。
 仕事中は、殆ど電源を落としていると言っていた。これでは、判断がつかない。
 椅子の向きを変えて急ぎネットニュースを表示させると、『北海道の施設で飲酒運転、職員一名が重体』という文字が目に入る。
 芙美夏とは限らない。冷静になれと言い聞かせながら、さっきから煩いぐらいに功の頭の中に脈動が響いていた。
 携帯を操作して、すぐに表示される番号に電話を掛ける。呼び出し音がほとんど聞こえないうちに繋がったそれに、功はすぐに言葉を継げずにいた。
『……功様』
 擦れた声が聞こえた。その声色に、身体が強張っていく。
『芙美夏の、ことですね』
 いつも落ち着いているはずの香川の声が、揺れている。
「……芙美夏なのか」
『功、様』
「事故の被害者は……芙美夏か?」
 否定する言葉を望みながら、電話に応じた香川の声を聞いた瞬間から、その答えはわかっていた。
『落ち着いて聞いて下さい……』
「芙美夏なんだな」
『……そうです』
 頭の中が、凍ったように白くなる。
 執務室のドアがノックされ、秘書が頭を下げ入ってくる。功のデスクの上にメモを差し出すと、神妙な視線を功に向けてから、頭を下げて退室する。
 メモの文字が、功の止まった思考を動かし始めた。
《吉村室長よりTEL 柊丘学園 事件被害者 香川芙美夏様 女性 23歳 搬入先 平田総合病院》
「……なにが……」
『アルコール中毒の園児の父親が、大量のアルコールを摂取したまま、園に車で乗り込んで来たようです。止めようとした男性職員を庇い……芙美夏が』
「……何故すぐに連絡しなかった」
『こちらにもつい先ほど連絡が来たところです。功様への連絡は……迷っておりました』
「迷う?」
『……はい』
 怒鳴り付けたい程の怒りを、何とか飲み込んだ。迷っていた理由は明白だ。そろそろ来客を迎える時間が近づいていた。
「……容態は?」
『全身を強く打っていて……意識がないと』
 電話越しに香川の声が震えた。自分の指先が冷たくなっていくのを感じたとき、再度部屋がノックされて、秘書が躊躇うような顔をしながらメモを差し出した。
《シュナイゼルノイン社の方が、あと十分程でお見えになります》
 携帯を手にしたまま、平静を装った声で待機する秘書に応じた。
「すぐに行く。迎えに私が間に合わなければ、予定通り第一応接室にお通しするように藤原に伝えてくれ。それから、秘書課の香川は」
「香川は記者会見とパーティの準備で、会場のホテルに詰めています」
「代わりの者を行かせてすぐに戻るように言ってくれ。すぐに、俺に連絡するように伝えるんだ」
「ですがあの、香川は責任者で、今、現場を離れては」
 当惑するような口調で答えた秘書に、思わず苛立ちが込み上げる。
「いいからやれっ」
 声を荒げてしまったあと、額に手を当てて息を吐いた。
「すまない……淳也が会場の責任者だとはわかってる。だが、サブについている者も事情は全て把握しているはずだ。とにかく、香川はすぐに呼び戻してくれ」
 目を瞠った秘書に、息を整えながらそう告げる。
「畏まりました」
 すぐにいつもの表情に戻った彼女が部屋を退室するのを待たず、功は手にしていた受話器を持ち上げた。
「香川。……俺が今から、行けないことはわかってる。だがせめて代わりに……淳也を行かせる。それでいいか」
『はい。手配は全てこちらでいたします。淳也から連絡があれば、私に電話をするように伝えて下さい。功様……』
「……」
『芙美夏は……きっと、大丈夫です。あなたを置いて……逝ったりしません』
 指先が震える。何を置いても今すぐ、芙美夏の元に駆けつけたい。息をするのも苦しかった。
「……後は頼む」
 通話を負えると、目を閉じて息を整える。指先の震えが何とか止まるのを待った。痛みを振り払うように首を振り、執務室のドアを開けた。デスクに戻り電話に応対していた秘書が立ち上がる。
「香川からです」
 差し出された受話器を機械的に受け取った。
「淳也」
『はい、何かありましたか? 戻るようにとの指示が来ていますが何か問題が』
「今、ニュースが見られるか」
『はい。少し待ってください』
 ほんの数秒で答えが戻ってくる。
『それで、何を……これって……』
 息を呑み、呟くような声がした。
「被害者は芙美夏だ」
『――え?』
「今すぐにこちらに戻って、現地に向かってくれ」
『功さん……待ってください、本当に……みいなんですか?』
 功を専務と呼ばない事が、淳也の動揺を表していた。
「淳也、詳しいことは香川に連絡して聞いてくれ。俺には……時間がない」
『そんな……だって、いいんですか、功さん……』
「お前がそれを聞くな。俺が、行けないことはわかっているはずだ」
『でも……』
「ようやくここまで辿りついたんだ。こちらの責任者は俺だ。俺一人のために、皆の努力を無にする事も、信用を失う事も、取引を潰す事も出来ない。もしもそんな事になれば、芙美夏も……また余計な負い目を負う」
『わかりました。すぐに向かいます』
「……頼む」
 受話器を秘書に返して、それを受け取った彼女に顔を向ける。
「さっきはすまなかった」
「いえ……」
 侘びる功に、神妙な面持ちで秘書が首を横に振った。
「行ってくる」
「はい」
 深く頭を下げた彼女のそばを通り過ぎて、功は、来客の出迎えのために、ロビーに向かった。

タイトルとURLをコピーしました