髪を撫でる大きな手が心地よくて、目を覚ましたくない。無意識に温もりに身体を寄せると、額に唇があてがわれる感触を覚えて、そっと瞼を開いた。
「おはよう」
功の瞳がすぐそばで芙美夏を見つめている。
「……おは、よう」
頭が覚醒してくると、夕べの我を忘れ乱れた自分を思い出して、恥ずかしくて堪らなくなる。功に翻弄されて、そうして自分からも功を誘った。
朝方愛し合った後、身体に力が入らない芙美夏を功がバスルームに運んでくれたことは覚えている。なのに、そこを出てベッドに戻った記憶がない。
どうやらルームウェアーは身に纏っているが、その中は素肌のようだ。目に入る功はといえば、上半身には何も纏ってさえいない。思わず顔を逸らして、背を向けた。後ろで様子を伺っているらしい功に問いかける。
「私……お風呂で眠ったの?」
フッと息を抜く様に、恐らくは笑ったのだろう気配がする。
「何も覚えてない?」
「入れて……貰ったのは、覚えてる」
「じゃあ、あそこで何をしたかは?」
意味深な問いに、顔に血が上る。耳まで赤くなった芙美夏の様子に、今度ははっきりと功が笑う声が聞こえた。
「それは覚えてるんだ」
否定も肯定も出来ずに、シーツに顔を埋めると、それきり功も何も言わなくなってしまった。
沈黙が続くと、それが気になって落ち着かなくなる。そっと顔を上げて後ろを振り返ると、片肘に頭を乗せて、意地悪な子どものような笑みを浮かべながら芙美夏をじっと見ている功と目が合って、慌てて顔を元に戻した。
「芙美夏……。顔、見せて」
どうしようもない恥ずかしさに、首を小さく横に振る。
「そう。なら何されてもいい?」
その言葉に思わずもう一度振り返ってしまう。
「何、その顔」
「あの、何、するつもり……」
何も答えない功が、意味深な笑みを浮かべている。答えがわかった気がして、怖気づいた芙美夏は、もう一度首を横に振った。もう、身体が持たない――と。
「だいたい何で顔を隠すかな」
「だって……」
今度は少し呆れたように笑った功が、顔を近付けてくる。真っ直ぐに見ていられなくて視線を逸らすと、「ふみか」と名前を呼ぶ功の声が、少しだけ不満を滲ませたものに変わった。
ほんの少しだけ目線を上げて功を見てから、辛うじて答えを口にした。
「だって……何か……は、恥ずかしくて」
「恥ずかしいって、何が」
これはどんな意地悪なのかと思うのに、チラッと顔を見てみれば、功は素なのか、ワザとなのかわからない表情をしている。
「何がって……私……あんな風に、功さんに」
視線を逸らしたまま、答える声は自然と消え入りそうなものになる。何も言わない功に、恐る恐る視線を向けた。その途端、何かを企むような笑みが浮かぶのがわかった。
「違うだろ」
「……え?……んっ、やだ」
功の唇が耳朶を食み、耳元で囁きかける。
「そうじゃない」
「もう功さん、やめて」
「夕べも何度も言っただろ?」
唇でくすぐるように耳をなぞりながら、いつの間にか手が、腰の辺りを彷徨い始める。すぐに熱を増していく頭の中で、功が言わんとすることを――バスルームの中での遣り取りを思い出した。
功と呼べと。行為の最中に何度か言われた。
淳也の事は淳ちゃんと親しげに呼ぶくせに、『功さん』なんて他人行儀な呼び方は気に入らない、といった愚痴を言われた気がする。
けれど全ての思考を功の熱に奪われていた芙美夏には、到底そんな器用なことが突然できるわけもなく、そう呼ぶまで、功の甘い責めが止むことはなかった。
結局それを口にしたのかどうだったのか、ドロドロに溶かされた意識は、その後の記憶を留めていない。
「思い出せた?」
確かめる功に、小さく頷いてから首を横に振った。
「でも、いきなりは、やっぱり無理」
「少しずつ、慣らしていくとか?」
「……うん」
「それは俺が無理。待ってられない。じゃあ仕方ないな」
功が口角を上げて、ニヤッとした笑みを浮かべる。芙美夏が身体を引くより先に、両手を取られシーツの上に組み敷かれて、唇と手による愛撫が始まった。
「や、功さんほんとに、ダメっ……ん……私、今日はっ……夜勤なの」
切れ切れに訴え掛けると、手を止めて顔を挟むように肘をついた功が楽しそうに笑う。
「止めて欲しいなら、どうする?」
「……意地悪」
怒ったように軽く睨んで見せても、なぜだか喜ばせるだけのようだった。啄ばむような軽いキスが降ってくる。
「ほら……呼んで」
笑ってそう言いながら、キスが徐々に深くなる。駄目だと言いながら、身体の奥にまた熱が灯るのを止めることが出来ない。けれど、このままでは本当に、今夜仕事をこなせるのか心配になる。それは、なにも芙美夏の事だけでなかった。
「……こ、う」
芙美夏を見下ろしたまま、動きを止めた功が、見惚れるほど嬉しそうな笑みを浮かべた。その表情に、鼓動が跳ね顔に血が上る。
「もう一回」
「……こう」
とうとう、降参した。たったこれだけの事で、あんな顔を見せられたのでは、もうどうしようもない。功の腕が、芙美夏の肩を引き寄せて強く抱き締める。
「もう一度」
「功……え、だめ、なんで」
ちゃんと呼んでみせたはずなのに、何故か功の手のひらが、ルームウェアの裾から、足を辿るように這い上がり始めていた。
「焦らした君が悪い。それに……俺に感じて乱れる芙美夏を、何度でも見たい」
「待って」
「また、しばらくは離れるんだ。だからもっと見せて」
しばらく離れる、その言葉に、胸に絞られるような小さな痛みが走る。途端に、抵抗も忘れ寂しいと言ってしまいそうな唇を閉じて、功を見上げた。
優しげな顔で芙美夏を見つめた功は、唇を寄せると、そっと慰めるように啄むだけのキスを何度か繰り返した。やがて芙美夏の手が功の肩に回される頃には、もう欲情を隠さないその瞳が、熱の中に芙美夏を再び引き込んでしまった。
結局、ベッドを離れる頃には、もう十分昼食と言う時間帯になっていた。
少し前にシャワーを浴びた功は、今は隣のリビングルームにいる。時折誰かと電話で話す声が聞こえてくる様子から、恐らくは仕事をしているのだろう。
起き上がりどこか心許ない足を動かして、リビングのスペースを覗いてみた。携帯を手にあまり馴染みのない――恐らくはドイツ語らしい言葉で誰かと話しながら、開いたパソコンを操作している功は、芙美夏に気がつくと、笑みを浮かべてこちらを見つめたまま、話を終えた。
「もう、起きられそう?」
「あ、ごめんなさい、私」
また眠ってしまっていた事を詫びると、功の口元に嬉しそうな笑みが浮かぶ。
「無理させたし」
それは否定できないだけに、つい口籠ってしまう。
「ルームサービスで昼食を頼んだから。さすがにお腹もすいたし」
「ありがとう」
「もう届く頃だから、そろそろ起こそうかと思ってたところだった」
「あ……うん」
「適当に頼んだけど、何でもよかった?」
頷いたタイミングで携帯が鳴り、ちょっと待ってというように手を挙げてそれに応じた功は、もう着替えも済ませてしまっている。自分だけがルームウェア姿だということにも、ルームサービスを持ってくる従業員にこの状況を見られるのも恥ずかしくて、芙美夏は慌ててバスルームへと向かった。
食事のことを言われるまではそうでもなかったのに、気が付いた途端、酷く空腹を感じる。何度も功と交わった身体の、あちこちに残る鈍い痛みについ溜息を吐きながら、芙美夏は、バスルームの鏡に映った自分の姿を見つめた。功に刻まれた赤い痕が、素肌にいくつも残っている。
その一つに、指をそっと当ててみた。あの時と同じような、けれどもっと温かい気持ちが胸に満ちていく。
功に抱かれて――。
執拗な程に何度も言葉で、視線で、指先で、芙美夏でなければならないと、強く求められて。
自分という存在が、ここにいてもいいと。居なければならないと、認められた気がした。小さくても確かに、自分の中に芯が通った気がした。
少し強く、なれた気がした。
急ぎ軽くシャワーを浴びて、薄く化粧を施す。身支度を整えていると、ノックの音に続けて、食事が揃ったと告げる功の声が聞こえた。
「しばらくの間、こっちに来るのは難しくなる。再来週、ちょっと大きな契約の調印式や会見があるんだ。その準備で現地にも行かないといけなくて」
届いたルームサービスをリビングのテーブルで食べながら、功がそう口にした。
「現地って?」
「今回はドイツ」
口にスプーンを運ぼうとしていた手を止めて、功を見つめる。やはりさっきのはドイツ語だったのだ。今ここにいる功は、ただの二条功という人だ。けれど一歩外へ出れば、彼は二条という大きな組織と一族を背負い、上に立つ立場の人間なのだと、そのことを否応なしに思い出す。
「長くドイツに行ってるの?」
「いや、向こうにいるのは一週間程度かな。あとはこっちでの準備とか、それ以外にもいくつか立て込んでる案件があって」
「あの……」
「ん?」
「私が、行ってもいい?」
遠慮気味に尋ねると、今度は功が、パンを手にしたまま動きを止めてこちらを見つめた。
「あの、少しだけでも会えたら、って。……でも迷惑だったら」
「そんな訳ないだろ。本当に、来てくれる?」
頷いてみせると、功の顔に本当に嬉しそうな笑みが浮かぶ。それにホッとしながらも、功だって疲れているのではないかと少し心配になった。
「功さ……功は、大丈夫?」
「何が?」
「身体とか、時間とか」
昨日から今日この時間まで芙美夏とずっと一緒にいて、これから戻る功は、きっとどこかでその分を取り戻すために働くのだろう。それを考えると、功があまりゆっくり睡眠を取れていないことが気掛かりだった。
けれど功は、芙美夏の心配を余所に、その問いの内容よりも、功と呼ばれたことに喜んでいるようだった。
「多分俺より、今日は芙美夏の方が辛いだろ。身体……多分あちこち痛むだろうし」
どこか楽しげにさえ聞こえる声でそんなことまで言われて、顔が赤くなる。誰のせいで――という言葉は、どうにか飲み込んだ。昨夜は、芙美夏からも求めていたことを思い出したからだ。
「俺は今、満たされてるから。全く問題ないよ。だから……」
伸ばされた手に顔を引き寄せられ、触れるだけのキスが落とされる。
「これが切れる前に、必ず会いに来て」
額を合わせた功の瞳を見上げて、芙美夏も、笑みを浮かべて頷いた。