本編《雨月》

第九章 雨乞い3



 ふと、名前を呼ばれた気がして、顔を上げた。
 首を廻して外を見ると、いつの間にか降り出した雨が窓を濡らしている。雨がとうとう幻聴まで連れてきたのかと苦笑して、風太は、視線を教壇に立つ教師の方へと引き戻した。
 ――傘、持って来てねえな……
 折り畳みすら入れてこなかったことを思い出し、ノートを取りながら、帰るまで降り続いていたらどうしたものかとぼんやり考える。
 今日は、馴染みの職人連中が母家に集まり、会合という名の宴会が行われている。下っ端が必要だからと、翔平は学校を休んでそちらに顔を出していた。
 最後の時限だったその授業を終える頃になっても、やはりまだ、雨は降り続いていた。ノートと教科書をたたみながら、風太は先ほどポケットの中で震えていた携帯を取り出し着信を確かめた。
 喜世子から、学校まで翔平を迎えに寄こすから帰りに酒と食糧の買い出しをしてきてくれ、という内容の連絡が入っている。
 ――正直、助かった
 さすがにこの雨に濡れて帰るのはキツイと、学校で傘を借りて帰ろうかと考えていたところだった。
 酒豪が多い宴会は、たいてい深夜近くまで続く。いつものことではあるが、用意していた酒やツマミが全て底をつきそうなのだろう。知り合いや世話になっている職人連中が顔を出している会合なだけに、今日は風太も、途中からでも顔を出さなければならなかった。
 翔平に電話をかけると、もう学校に着いているという。先生に見つかるとややこしいから早く来てくれという声に、鞄に適当にノートを突っ込んで、すぐに教室を後にした。

* * *

 電車のドアに凭れかかりながら、珠恵は、雨にけぶる夜景が窓の外を流れていくのを、ボンヤリと見つめていた。吐く息で白く曇るガラスが、その景色を更に曖昧にしていく。
 思考は麻痺したままで、無意識に熱を持つ手首に触れながら、痛みさえ今は感じない。
 速度を緩め始めた車内に、到着駅を告げるアナウンスが流れる。次は、珠恵が自宅に帰るのに乗り換えが必要な駅だった。

 門倉が対応していた電話は職場からのものだったようで、しばらくの間少し苛立った様子で遣り取りをしていた彼は、通話を終えると珠恵の元に引き返し、手枷となっていた紐を解いた。
「職場に戻らなければならなくなりました」
 ベッドの横に立ち、ノロノロと痺れた腕を動かす珠恵を見下ろしたままそう告げた門倉の口調は、何も変わらず冷静なままだった。縛られていた手に感覚が戻ってくると、手首にヒリヒリとした痛みと熱さを感じる。
「歳だけを無駄に重ねた使えない部下の尻拭いです。食事に誘っておきながら送ることさえしない男だと誤解されるのは本意ではない。せめてタクシーを使いなさい」
 外していたネクタイを巻き直しているのだろう、シュッと布が滑る音を聞きながら、珠恵は、振り向くことも頷くこともできずにいた。
「安心しました」
 門倉が口にした言葉の意味を理解した身体がビクッと動く。
「誰とも肉体関係がないというのは嘘ではなさそうだ。聞いていた傷のことも、まあ、その程度の欠陥は目を瞑りましょう。だが、みっともいいものでもない。人目に触れない服装を心がけなさい」
 息を止めて目を強く閉じる。門倉が口にしたのは、珠恵の腰の付け根から膝の少し上に渡る大きな傷痕のことだった。

 中学生になったばかりの頃、母の不注意で足に大怪我を負った。皮膚を移植しても消えずに残った傷痕に、娘を欠陥品にしたと、この傷を負わせた母を詰る父を見てきた。何度も父に言われた言葉だったが、それでも、門倉の言葉に胸の奥の傷をさらに抉られるような痛みを感じる。
 母はその負い目もあるのだろう、それまで以上に一層、父にも珠恵にもどこか腫れ物に触るような気の使い方をするようになった。そんな母の態度と父の言葉が、傷をさらに深め、珠恵をより臆病にした。

 背中越しに、微かに空気を震わせて門倉が笑ったような気配を感じ、硬くなった唇から言葉が零れた。
「な……何を……されたか……わ、私が……話すと、思わない……ですか」
 問う声は、力なく殆ど掠れていた。
「構いませんよ」
 怯むでも焦るでもなく答える門倉の声は、まるでそれを楽しんでいるかのようにさえ聞こえる。
「話しても。私は、別に構いませんが」
 含みを持たせた沈黙に、僅かに顔を上げる。
「私がやったとどうやって証明するんです。むしろあの男がやったようだと言った方が信憑性がありそうだ」
「そんなっ」
 驚きの余り身体が震えた。
「まあ……きっとあなたは言えないでしょう。特に、お父様には何も。あなたは、今時珍しいくらい純粋で親に従順で、そして周りの為に自分を押し殺すも厭わない、そういう女性です。だからこそ、あなたは私の妻に相応しい」
 重い身体を振り向けて、ノロノロと門倉の方へと顔を向けた。珠恵を見下ろす口元に静かな笑みが浮かぶ。
「何なら、婚約まで待てずにホテルに行ったと言いましょうか。あなたに他の男性の影があることを知って、嫉妬に駆られ、早くあなたを自分のものにせずにはいられなかった。どうか責任を取らせて欲しい、と。きっとあなたのお父様は、気に入らないどころか、喜んで許して下さる。……違いますか?」
 この人は、いったい何を言っているのだろうか。門倉の言動も思考も、何一つ理解することができない。それなのに、門倉があまりに当然のようにそれを口にしているからなのだろうか。混乱し茫然とした頭では、何が普通で、何がそうでないのかもわからなくなる。
 珠恵に背を向けた門倉は、クローゼットから取り出したスーツのジャケットを羽織り、会った時と同じ乱れたところのない整った姿で、再びベッドサイドへと戻って来た。
 身体を起こして座りこんだまま、その姿をまともに見ることもできずに俯く。
「ああ……痕が少し残りましたね。珠恵さん、あなたが縛って欲しいとねだったんですよ」
「なん……で」
 信じられない言葉に息を呑んで顔を上げると、珠恵を見つめ、目を細めた門倉の身体がゆっくりと傾き、身を捩ろうとした両肩を掴んだ。
「いや……っ」
 喉元に落とされた冷たい唇が、鎖骨をなぞり小さな痛みを残して離れていく。手で襟元を掻き抱くようにして、震える身体を丸めた。
「婚約の日取りは、私からあなたのお父様に連絡しておきます。また、連絡します。もちろんですが、ここの支払いはご心配いりませんので」
 いつもと変わることのない冷淡な口調でそう告げた門倉の気配が遠ざかり、部屋の扉を開けて出て行く音を聞いてからも――。
 珠恵はしばらくは身動きさえできずに、そこに蹲っていた。

 速度を緩め、やがて停車した電車の扉が開くと、降りる人の波に押されるようにホームに降り立つ。踏み出そうとした足は、けれどその場で止まってしまった。
 舌打ちをしたスーツ姿の男性に押しやられた身体が、よろめいてまた別の人にぶつかる。足を動かさなければならないと思うのに、上手く身体が動いてくれなかった。
『ドアが閉まります。ご注意下さい』
 ホームに流れる発車の合図の音を聞きながら、フラリと動いた珠恵の足は、もう一度今降りたばかりのその車内に向かっていた。

 殆ど無意識のうちに降り立ったのは、森川が暮らしている場所へ向かうために、珠恵が何度か利用した駅だった。
 改札を抜け歩道へと足を踏み出そうとして、ハッとする。
 ――傘
 緑色の傘を、電車に置き忘れてしまっていた。あれは、借りた傘を壊してしまったお詫びにと、森川が珠恵に買ってくれた傘だった。大事にしていたのに。そんな大切な物をどうして置いてきてしまったのだろう。
 水たまりを揺らす雨の雫を見ながら、しばらくの間止めていた足を歩道へと踏み出した。さっきより小降りになったとはいえ、すぐに雨が身体を濡らしていく。けれど、雨の冷たさも、濡れる不快さも、今は何も感じなかった。
 人通りの少ない住宅街を抜け、国道に突き当たると左へ折れて。何も考えることができないまま、ただひたすらに歩き続けた。すれ違う人が時折足を止めるのにも気付かぬまま歩くその道は、もう考えなくても珠恵の足が覚えている、森川が住む古澤家へと続く道だった。
 何度も苛立たしげに鳴らされていた車のクラクションがすぐそばで聞こえて、ようやく、驚きに足を止めた。大きな交差点に差し掛かり、横断しようとしていた目の前の信号が赤に変わっていた。クラクションを鳴らした車が、道路の水を弾きながら珠恵の目の前を通り過ぎていく。
 ふと、空を見上げて――いつのまにか雨が止んでいたことに気が付いてしまった。その途端、まるで夢から覚めたように、足が竦んでもうそれ以上一歩も前に進めなくなる。
 来るな――と。ここへは来るなと言われたのに、いったい、何をしているのだろう。森川に会って、どうするというのか。
 もしもまた森川にあんな風に突き放されたら、きっともう、立ち上がることができない。
 か細い息を吐き出しながら、珠恵は顔を俯け指を握り締めた。
 会えなくなるのなら。どうせあんな風にフラれてしまうのなら、自分の気持ちを伝えておけばよかったのだ。そうすれば、この気持ちにきっとちゃんと区切りをつけられたのかもしれない。どこにも行けなかった自分の気持ちだけが、行き場を失くし、胸の中で膨らんで、もう抱えているのが苦しい。
 結局、父に逆らうこともできず、自分で決めたのだと言い聞かせながら、流されるまま見合いをしたのは、そうして現実に目を向けていれば、森川への想いを少しでも断ち切ることができるとどこかで思っていたからだ。どこかに、投げ遣りな気持ちがあったからだ。
 ならばこれが、そうやって自分の気持ちを誤魔化したことへの酬いなのだろうか。

 さっきまではもう何も感じなくなっていた熱を持った手首に、また脈を打つたびに微かな痛みを感じ始める。それが、先程の出来事を蘇らせ、身体が微かに震え始めた。
 心が冷たく凍るような恐怖と、きっと永遠に分かり合えない虚しさを抱えたまま、あの人とこの先の人生を送ることなどできるのだろうか。けれど今の珠恵には、父や門倉に正面から対峙することを考えるだけの気力は残っていなかった。身も心も疲れきっていて、どうすればいいのか、どうすればよかったのか、何も考えることができない。
 ただ一つだけわかっているのは。今向かおうとしていた場所は、もう珠恵が行くべき場所ではないということだった。
 目の前の信号が青に変わるのをぼんやりと見つめながら、そのまま、数歩後ろに下がって、踵を返した。

 止んだと思った雨が、また、ポツポツと降り始め、珠恵の身体を濡らしていく。
 歩み去る珠恵と入れ違うように、交差点を反対方向へと曲がった車が、少し先でブレーキ音を響かせ止まった。
 タイヤを滑らせながら車が止まる軋むようなその音も、叩きつけるように車のドアが閉められた音も――。
 珠恵の耳には、届いていなかった。


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