本編《雨月》

第九章 雨乞い2



 言葉は理解できても、問われていることの意味がわからず、咄嗟に言葉が出てこない。
「どういう……それは……」
 落ち着け、と自分に言い聞かせながら、珠恵は静かに息を呑み込んで、森川の写る二枚の写真から顔を上げた。
「その人は……ただ、ちょっとした知り合いの方です」
 胸の内を見透かされないように、目を見て答える。嘘は言っていない。そう答える以上の関係ではない。自分の心の奥にある想い以外は。
「ちょっとした、ですか」
「話したいって……あの、それは、このことですか」
 門倉は、珠恵のことを調べたと言っていた。興信所のような所を使って、こんな風に交友関係や、行動を全て調べられていたのだろうか。問い返す言葉に、微かに非難めいたものが混じってしまう。
 珠恵を見つめていた感情の起伏が見えない瞳が、テーブルに置かれた写真へと視線を落とす。長い人差し指が、そこに映っている横顔の頬のあたりに触れ、その指が写真をテーブルの上でコツコツと叩く。
「森川風太、二十六歳。古澤大工店に勤務」
 抑揚のない声が、写真に写る人のことを語り始めると、目に入った門倉の表情の変化に、心臓がざわりと音を立てた。
 軽蔑と嫌悪――その瞳から伝わる感情に、背筋が冷たくなる。
「小学生のころからの補導歴は多数に上り、区立第十五河本中学在校中には、傷害事件を起こし、少年鑑別所に送致の上、保護観察処分を受けている。スナックで働いていた母親、森川小百合は、典型的なネグレクトで、酒と男に溺れ育児は二の次だった。実際のところ、森川の父親は誰なのかすらわかっていないらしい。森川の方も、中学生になる頃には殆どまともに家に帰ることもなくなっていた。中学を卒業するおよそ一年程前からは、関西系指定暴力団の系列団体である平野組幹部、安見浩二の元に身を寄せている。安見が暴力団同士の抗争で死亡する三年ほど前、当時中学を卒業していた森川は、現在も勤めている古澤栄剛の元、住み込みで働き始めた。しかしその後は失踪し、その間二年近くの行方は不明。安見の女の元に身を寄せていたとの情報もある」
 森川が珠恵に語らなかった安見が死んでからの話に、胸の奥が微かにざわめく。その間も、門倉の話は続いていた。
「森川が暴力団の構成員だったという情報は、最後までみつからなった。ですが……」
 一呼吸置くと、写真に添えていた指をそこからゆっくりと離して、その手が膝の前で緩く組み合わされる。
「ちょっとした程度の知り合いのあなたが、まさか知らないだろうとは思いますが」
 息をするのも苦しい程、鼓動が早くなっていた。
「……何を……ですか」
「彼は、上半身から臀部にかけて、随分立派な入れ墨を彫っているらしいと、そういった情報もあります」

 何のために、こんなことまで調べる必要があったのだろうか。何か答えなければならないと思うのに、唇が渇いて言葉がすぐには出てこない。目の前にいる人の顔を瞬きもせずに見つめ返し、辛うじて珠恵の口を吐いたのはそんな疑問だった。
「……いったい……何のためにこんな……」
「驚かないんですね。ご存じだったんですか」
「そ、れは」
 いつでも、色のついた長袖の服を着ていたその人の、上腕から恐らくは背中全体にかけて浮かぶ華やかな色。
 皮膚にあるはずのない色彩と、慈悲深い表情の天女達。それを肌に刻んだ理由を珠恵に聞かせてくれたときの、後悔と痛みと、そして愛情を滲ませた表情。
 目を逸らしてはならないと思うのに、視線が揺れ、顔を俯けてしまった。門倉が、深くて長い溜息を吐いた気配がした。
「見たんですか」
 頷くことも、否定することもできない。
「何のため。そうお聞きでしたね」
 さっきまでよりほんの僅かに低くなった声が、珠恵の鼓膜を震わせる。
「確かめるためです」
「……確か、める」
 視線を上げると、門倉は、テーブルに置かれた写真の一枚を手に取った。
「あなたが、どういった人間と関わりを持っているのかを」
「どう、して」
「本当のことを言えば、あなたがこの男に、家庭教師のようなことをしていたのはわかっています。調査でも、それ以上は何も出てはこなかった。ただそれだけの関係だとの結果が届いています」
 ――ただそれだけの
 手の指を握り締めながら、珠恵は門倉の言葉を聞いていた。
「本当にそれだけであれば、この男が合格した時点で、付き合いが終わってもいいはずです。そこまでであれば優しいあなたのことだ。馬鹿な男を憐れんで、親切心で面倒をみてやったのだろうと考えられます。けれど、あなたとこの男の付き合いは、その後もしばらく続いていますね」
 手にした写真を門倉は、僅かに眉根を寄せたまま少しだけ眺め、裏返しにして珠恵の目の前にかざした。ゆっくりと、まるで見せしめのように、それが目の前で切り裂かれていく。半分に割かれた写真の後ろから、冷めた瞳が珠恵を見下すように見つめていた。
「例えただの知り合い程度であれ、私の婚約者、しいては妻になる女性が、こういう男と関わりを持つことを、私は認めるつもりはありません。もう一度お聞きします。あなたと森川は、どういう関係ですか」
 状況にただ茫然として、門倉が口にしている言葉が上手く消化出来ず、口を開こうとしても喉の奥が熱くて声が震える。
「……ただ、の……友人……です」
「あなたは、本当に私と結婚するつもりでいるのですか」
 唐突な質問に、戸惑いながらも僅かに頷く。
「では、もう一度お聞きします。どういう、関係ですか」
 間違えた答えを正すように繰り返される質問に、冷たくなった指先を握り締めた。
「わかりませんか。私の妻になる女性が、こういったクズと顔見知りだなど、あってはならないんですよ」

 呆れたように笑う門倉のその眼は笑ってなどいなくて、どこか苛立ちを滲ませていた。
「……クズっ、て」
「これからは、こういった人種との関わりは一切認めません。どういう関係か、そう聞かれた時の答えは、知らない人。です」
「待って下さい」
「何を、です」
「クズって、そんな言い方」
「クズでご不満であれば、下衆でもゴミでも構いませんが」
「……ひどい」
 半分に千切った写真を、さらに繰り返し引き裂いた紙片が、カーペットの上に散っていく。もう一枚テーブルに置かれていた写真を掴んだ門倉の白い指が、それをグシャリと握り潰す。心の奥を、握り潰されたような気がした。
「何か間違ったことを言っていますか」
「……わ、私は……この人と……森川さんと会うことは、もう、ありません。でも、だからと言って……友人であることに変わりはないです。だ……だから、友人のことをそんな風に言われて……いい気持ちは、しません」
 手を強く握り締めて、吐きだす息と共に堪えきれずに口にしてしまった言葉に、門倉の顔が能面のように表情を失くすのがわかった。
「誰に向かって、物を言っているんです」
「――え」
 部屋の空気が冷たく動いた気がした。その変化を感じた肌が、粟立つ。
「まさかとは思いますが……こんな男と、肉体関係があるのではないでしょうね」
 問い掛けに呆然としたまま、珠恵は首を横に振った。この場所から逃げ出したいと思うのに、身体が竦んで動くことができない。
「彼は女性とも、誠実な付き合いをしているとはとても言えない。僅か一週間程度の間に数回、女性とホテルに出入りしている様子が報告されている。しかもいずれも違う女性とです。彼にお似合いの水商売風の女達のようですが。……そういう男からすれば、あなたなど、簡単に」
「関係なんてっ、ありません」
 耳にしたくない話に、僅かに口調が鋭くなってしまう。
「私は先ほど、嘘は嫌いだと言いましたね」
「嘘じゃありません。本当に……そんなの……」
 強張った顔を門倉に向けて、その問いを否定し続けた。
「口では何とでも言えます。ここに来るまではまさかと思っていましたが、今のあなたを見ていると、何が本当のことかわからなくなった。あんな輩と肉体関係がある女に手を出して、後で因縁をつけられるのもごめんですからね。本当は、ここまでする必要はないかとも思っていたんですが」
「何――」

 立ち上がった門倉が、突然珠恵の手首を強く掴んで、部屋の奥へと連れていかれる。
「待って……かど、くらさっ」
 一瞬何が起こっているのかもわからないまま、身体が反転してベッドの上に引き倒されていた。
「いやっ」
 両手を取り、頭上で押さえつけた手は、思ったよりも力強く、殆ど身動きがとれない。
「やっ……嫌です、か……かど、くらさん……離し、て」
「心配しなくてもいいですよ。抱かないと言った言葉に、責任は持ちます。ただ、ちょっと調べさせてもらうだけです」
 欲望や熱を感じさせない、冷ややかな視線に見下ろされ、呆然と目を見開いた。
「しら、べ……るっ……て」
「あなたが本当に、あの男と。いや、誰とも寝たことがない女なのかを。ですよ」
 まるで、それが当然のことだとでも言うかのような、平然とした口調だった。
 何をされるのかはわからなくても、目の前にいる門倉には、恐ろしさしか感じられない。身体が強張り、全身が粟立つ。
「……そん、な……いや……嫌っ」
「あんな低俗なゴミのお下がりを、掴まされるのは御免なんです。私の汚点になる。そんな汚れた女」
 胸の奥から熱い塊がせり上がり、視界がぼやけていく。珠恵はただ必死で、強張った喉から息のような声を絞り出し、藻掻き、首を横に振っていた。
「……おね、ぃ……離し、て……こんな……酷……」
「私の妻に、なるのではないのですか」
「……だ、だからって……こんなこと、……ふ、普通じゃ、あり、ませっ」
 門倉がフッと息を吐き出して笑う。それを、信じられない思いで見上げた。どうして、今この状況で笑えるのか理解できない。
「普通とはいったい何です? 私が普通ではなくてあなたが普通だという根拠はどこにあるんですか。そもそも、あなたがあんな男を庇い反抗的な態度を見せたのが原因ですよ。それに、あなたは私の妻になるんですよね。ならば、あなたが綺麗な身体でさえあれば、そう遠くはないいずれ、私に純潔を捧げる――つまりは私とセックスするということです。違いますか」
 小さな子どもに言い聞かせるように、門倉の語り口がゆっくりとしたものになる。涙で滲んだ視界で男の輪郭を捉えたまま、珠恵は懇願するようにただ何度も首を横に振った。
「私は、誰かと妻の身体を共有する趣味はありません。私以外の誰かが触れたことのある身体には触れる気などしませんからね。もし結婚するまでに肉体関係を持ってしまえば、その後、誰と何をされてもわからない。ですから何度も言うように、約束はちゃんと守ります。ただ、あなたが本当に、私の隣で純白のドレスを着るのにふさわしい女性か、いうなれば検品をするだけです。心配はいりません。私は医師の資格を持っています。検診を受けているとでも思えばいい」
「……けん……ぴん……」
 初めて聞く門倉の、人を諭すように穏やかで柔らかな口調。けれど口にしていることの意味やその思考は、珠恵には全く理解することができなかった。
 訳が分からない怖さに身体も心も竦んでいく。それでも震える身体を必死で動かして、抵抗しようとした。
「それから、妻が夫と対等だなどという思い上がった考えは早晩改めて頂きたい。私が命じることへの返事は、必ず、はい。です。否定の言葉はいりません。あなたなら、わかるはずですよ」
「……おね、がぃ……やめ……ほ、んとで……私、誰とも……ほん、……い、や……」
 わからない人だ、とでも言うように小さく溜息を吐いた門倉は、先ほどと同じように冷めた目で珠恵を見下ろしながら、襟元に指を掛け細目のネクタイを外すと、それで、珠恵の手首を縛りつけた。
「暴れると面倒ですから、少し、縛らせて貰います。そもそもそんなに嫌がるのは、やはり疾しいところがあるからではないのですか」
「ちが……」
「大人しくしていれば、すぐに済みますよ。これ以上、縛られたくはないでしょう」
 言い含めるような門倉の言葉に、恐怖に息が上がり強張っていた身体から、どこか感覚が麻痺したように少しずつ抵抗する力が抜けていく。痛みを感じるはずの心は、靄がかかったように、何も感じられなくなっていた。
「……ぃ……や」
 珠恵の動きがノロノロとしたものになると、立ち上がった門倉はバスルームへと向かい白い紐状のものを手に戻って来た。起き上がろうとしてみても、腕が自由にならない状態で、思った以上に力を失っていた身体は、虚しいほどほんの少し位置を変えるだけで精一杯だった。

「伸びると困りますから」
 まるで本当に検診を行う医師のように、冷静な口調でそう口にすると、外されたネクタイの代わりに、恐らくバスローブのベルトだろうものが珠恵の手首に巻きつけられる。腕はもうしびれていて、僅かな時間では動かすことが出来なくなっていた。それでも最後の抵抗をしようとした身体は簡単に押さえつけられ、紐の端が頭上のどこかに繋ぎとめられる。
「無駄ですよ。私は、人間の身体のどこを押さえれば、大した力も入れずに動きを封じられるのか、把握していますから」
 珠恵にとって絶望的な言葉を口にする目の前にいる人が、まるで人間ではないみたいで、怖くて身体が震える。
「……ぃゃ」
 強張った喉からは、もう掠れた音のような声しか出ない。
「口も、塞がれたいのですか」
 縛られた腕が痛い。身体が竦んで歯の根が合わずにカチカチとなる。
「もう一度だけ、聞いてあげましょう。あの男とはどういう関係ですか」
 薄っすらと開いた視界は涙で滲んでいて、珠恵を覗き込む人の顔は霞んで見える。珠恵に踏絵を踏めと告げているその男の目を、見つめ返した。
「……ゆ……じ……です」
「学習能力が無い人だ。嘘は嫌いですが、愚鈍さは罪ですらある」
 どこかわざとらしく聞こえる溜息を零しながらシャツの袖を捲りあげた門倉は、いつの間に手にしていたのか、医療ドラマで見るような薄いゴム手袋を両手にはめている。体中が総毛立ち、苦しくて息すらもうまく出来ない。涙でぐしゃぐしゃになった珠恵の頬を、ゴム越しにも冷たい指がゆっくりとなぞった。
「大人しくなりましたね。それでいい」
 離れていったその手が、思うように力が入らない足元から、ワンピースの裾を割り素肌に触れた。

 静かな部屋の中で、衣擦れの音と自分の浅い呼吸だけが聞こえてくる。それ以外何も口にすることなく、文字通り珠恵の身体を検品している門倉からは、息一つ乱す気配も感じられなかった。
 こんなことで傷付けることができるのだとは、門倉には知られたくない。肌に触れられる嫌悪感からも、この状況からも身体が逃げられないのであれば、せめて心だけは、どこかに逃がしてしまいたかった。
 ボンヤリと思考が麻痺した頭の中で強く目を閉じながら、珠恵は、図書館のガラス窓越し、雨が降る景色を見ていた。曇り空から降り注ぐ雨を見上げて、あの人に会えるかも――と、少しだけ鼓動が早くなり心が浮足立つ。
 けれどその景色も、すぐに霞んで見えなくなった。
 ――あんたにはあんたに相応しい相手がいる。それは、俺みたいな男じゃない
 どこか遠くで、微かに空気を震わせるような音が繰り返し何度も聞こえる。肌を辿っていた愛撫などではない指の動きが止まると、ベッドが微かに軋んだ。舌打ちをした人の気配が遠くなり、ゴム手袋を外すパチッとした音が耳に届く。
 誰かと電話で話す門倉の声を聞きながら、震える息を何度か吐き出したあとで、微かに唇から零れたのは笑みだった。

 私に相応しい相手は、私を物のように扱うこの人なのだろうか――。
 緩々と彷徨った視線が、テレビの傍に立てかけられている緑色の傘を見つけた。その途端、僅かな自尊心さえ粉々に砕かれた胸の内から、涙と共に不意にせり上がってきた想いが零れそうになる。
 それを口に出してしまわないように、強く、唇を噛み締めなければならなかった。

 ――森川さん
 今日は、雨が降っています
 雨が降ると、あなたに会える気がします
 だから、あなたに会いたい
 会いたくて
 会いたくてたまらない


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