本編《雨月》

第九章 雨乞い1



 朝から休みのその日は、また夕方から夜にかけて雨が降る模様だった。洗濯や掃除などの家事を手伝ってから、読みかけていた本を開いて。けれど殆ど文字を追うこともできないまま、支度を始めなければならない時間を迎える。
 門倉との約束は夜の七時。都心にある東京でも五指に入る高級ホテルのロビーが、指定された待ち合わせ場所だった。
 場所柄を考え、迷った末に結局、見合いの席で着たベージュのワンピースを着ていくことにした珠恵は、着替えや化粧を済ませて、キッチンに立つ母に声を掛けた。
「お母さん、じゃあ行って来ます。今日は……少し遅くなるかもしれないから」
 エプロンで手を拭きながら、母が玄関まで見送りに出て来た。
 パンプスに足を通しているタイミングで、「珠恵」と、どこかいつもとは違う声色で呼ばれる。振り返ると、しばらく躊躇うように視線を彷徨わせてから、母が、珠恵をじっと見つめた。
「あなた……無理、してるんじゃない」
「……え」
「本当に、これでいいの」
「何……言ってるの、お母さん」
 口元が僅かに強張る。そっと伸ばされた水仕事でかさついた指が、珠恵の手に触れる。
「あなたには、ちゃんと、幸せになって欲しいって思ってるのよ」
「……何で……だから、門倉さんと私」
「門倉さんは……ちゃんとあなたを大切にしてくれそう?」
 どうして、母が今こんなことを口にしているのかわからなかった。ただ苦いものが込み上げて、カサカサの母の手を静かに振り解いた。
「これでいいって、決めたの」
「珠恵、でも」
「心配しないで。お母さん、私……無理なんてしてないから」
 笑いながらそう答える珠恵を、まだ、物言いたげな顔をした母が見つめている。その視線が苦しくて、咄嗟に目を逸らした。
「お母さんに……何が、言えるの」
「え……」
 不意に口に出してしまった自分の言葉に、自分で驚いて息を呑んだ。母の目が、酷く痛そうに見開かれる。
「珠恵」
「ごめん、なさい。何でもない。行ってきます」
 逃げるように扉を開けて、母が呼ぶ声を遮るように外から鍵を閉める。
 自分で決めたと言っておきながら、今のはただの八つ当たりだ。取り消すことの出来ない言葉が自分に返ってきて、小さな棘のように胸に刺さる。何をしているのだろう。自分を心配してくれている母に、みっともない振る舞いをした。
 足早に門を抜け、今にも雨が降りそうな曇った空を見上げて、まるで今の自分の心のようだと思う。無意識のうちに手に持って出ていた鮮やかな緑色の傘の柄を握りしめて、珠恵は駅へと向かい歩き始めた。

 指定されたホテルのロビーへ到着したのは、待ち合わせの十分前だった。にも拘らず、先に着いていた門倉がロビーのソファから立ち上がるのに気が付いて、慌ててそちらへ足を向けた。
「申し訳ありません。遅くなってしまって」
「いえ」
 約束の時間よりは早かったとはいえ、休みの自分が働いていた門倉よりも遅くなったことを申し訳なく思い、頭を下げる。相変わらず、皺一つないオーダーメイドであろう品の良いスーツを着こなした門倉は、白く長い指でシルバーの眼鏡のフレームを押し上げた。
「では行きましょうか」
 どこへ行くとも口にすることなく、奥にあるエレベータホールへと向かっていく。
 華美にはなりすぎず、けれど確かに上質な豪華さを感じさせる雰囲気のそのホテルは、そういう目で見るせいなのか、ロビーにいる人達も、外国人も含めてこの場に相応しく洗練されているように見える。
 乗り込んだエレベータには、他の客も乗り合わせていたため、どこに向かうのかと声を掛けることも憚られた。
 上階にある店で食事を取るのだろうか――
 そんな風に考えていた珠恵は、エレベータが止まり、門倉に降りるように促されて進めた足を、柔らかな絨毯の敷かれた廊下で止めた。戸惑いながら、門倉を見上げる。そこは、どう見ても客室用のフロアだった。
「あ、の」
「こちらです」
 部屋番号を確かめ足を踏み出した門倉を、珠恵は慌てて呼び止めた。
「か、門倉さん」
 立ち止まった門倉が、ゆっくりと振り返る。
「あの……ここは」
「ああ」
 珠恵の疑問や不安に気が付いたのか、頷いた門倉がほんの僅かだけ距離を詰めてきた。
「そういう心配は無用です」
「……あの、でも」
 何でもないことのようにそう口にする門倉に、自分の方が考え過ぎなのだろうかとも思うが、やはり戸惑いは拭いきれない。
「私は、結婚するまであなたを抱くつもりはありませんから」
「え……あ」
 そんなことを、臆面もなく口に出されたことにも、そして頭の中の想像を見透かされたことにも、恥ずかしさで顔に血が上る。
「い……え、あの」
「少し、お話したいことがあるだけです」
「……でも、ここは」
「レストランや、人がいるところでする話ではないと思い、部屋を取りました」
 それでも、やはり抵抗を感じて足を踏み出せない珠恵を、片方の眉を微かに上げて見つめた門倉の口元に、どこか呆れたような笑みが浮かぶ。
「私は、嘘は嫌いですので。先ほど言ったことは、ちゃんと守ります」
 躊躇う珠恵をその場に残して、歩を進めた門倉が少し先で再び振り返った。
「まだ他に何かご心配が?」
「い、え」
 刻まれる鼓動が、緊張のためか早くなっている。真っ直ぐに顔を上げていることもできず、珠恵は目を伏せたまま、音のしない絨毯の上を一歩ずつ足を進め門倉の後に続いた。

 通されたそこは、かなりの広さがある部屋だった。入ってすぐの場所からはベッドが見えず、ソファやテーブル、テレビなどが目に入る。それでも、中に入り示されたソファに腰を下ろすと、ちょうど左手の部屋に恐らくクイーンサイズはあるだろうダブルベッドが置かれていて、珠恵は居心地の悪さに視線をそこから外した。
 スーツのジャケットをハンガーにかけた門倉が、ソファに近付いてくる。テーブルに硬い物が触れる音がして視線を移すと、外したらしい時計が目の前に置かれていた。反射的に顔をあげた珠恵を、門倉は口元に指を当てたまま、何かを逡巡するような表情で見下ろしていた。
 見つめ合うことに息苦しさを感じて、視線を落とす。何もしないと言われたにしても、この人がゆくゆくは自分が結婚する相手なのだとしても、男の人と二人きりでこういう場所に入るのは初めてで、緊張のせいか指先が冷たくなっている。言葉を失くしソファに腰かけたまま固まっている珠恵の斜め向かいに、やがて門倉が腰を下ろした。

 重苦しい空気と早く刻まれる心臓の鼓動が苦しくなり、話の内容を確かめようと珠恵は顔を上げた。門倉は鞄から少し大きめの白い封筒を取り出し、その中に手を入れている。
 何かを見せようとしているのだろうか――そう思いながら手元を見つめるうちに、門倉の指が、白い紙をそこから取り出した。
 テーブルの上に二枚の紙を並べ置いた門倉の、珠恵の顔をじっと観察するような視線を感じていた。けれど、目の前に置かれたものに焦点が合った途端、酷く動揺して、珠恵は何も考えられなくなった。
「……どう……して」
「この男は、あなたとどういう関係ですか、珠恵さん」


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