本編《雨月》

第八章 雨間(あまあい)2



 食事を終えた後、これからまた仕事に戻ると言った門倉とは銀座の駅で別れた。次に会うのは、図書館の休館日に当たる月曜日を指定された。
「私は職務がありますので、今日と同じような時間になります。ご両親にも、少しだけ遅くなると言っておいて下さい。それからこの話を進めるということは、私からご両親と、仲に入って下さっている菱谷様とに連絡します。ですから、それまではあなたの口からは何も言って頂く必要はありません」
「あの、でも」
「私からお話しするのが、筋というものです。そんなこともわからないと思われるのは、本意ではありませんので」
 そういう、ものなのだろうか。僅かな疑問を感じながらも、小さく頷く。
「あの……では、今日と同じ場所で」
「いえ、待ち合わせの場所と時間は――そうですね」
 僅かな逡巡の後、時計を見遣った門倉が口を開いた。
「私からまた連絡をします」
「……はい」
 そのタイミングで、ちょうど、駅の改札口に辿り着く。
「では、月曜日に。都合が悪くなった時にもまた連絡を入れます」
 異なる路線に乗る門倉とは、そこで別れることになる。急いでいるらしいことがわかる仕草に、慌てて頭を下げた。
「あ、あの、今日は、ご馳走様でした」
「いえ。……ああ、そう」
 礼の言葉を流すように軽く頷いた門倉が、何かを思い出したように珠恵の顔を見た。
「……あの?」
「できるだけ早く仕事を辞める準備をしておいて下さい」
「……え?」
「では」
 驚いた珠恵が何も聞き返すこともできないうちに、それだけを言い置いて、背中を向けて去っていく姿が人ごみに紛れ見えなくなる。
 その後ろ姿を、バックの柄を強く握り締めたまま珠恵は呆然と見送っていた。

 自宅に帰りつくと、玄関先で珠恵を出迎えた母が、手にしたタオルを渡してくれる。
「ただいま」
「随分と、酷い雨だったわね。足元もそれで拭って上がりなさい」
「うん、ありがとう」
 静かに労うような笑みを浮かべてから、珠恵が玄関先においた鞄を手に持った母は、視線を手元に落としたまま「今日は、楽しかった?」そう尋ねた。
「……今日、凄く有名な、銀座のフランス料理のお店に、連れて行ってもらったの」
「そう……。美味しかった?」
「うん。テレビで見たことのあるシェフがね……門倉さんに、挨拶に来たりして。私も少し、声を掛けて貰って……何だか緊張した」
 微笑みながらそんな風に答えると、静かに頷いた母が、何か言いたげに珠恵を見つめた。
「……何?」
「あのね、お父さんが、戻ったら書斎に顔を出しなさいって」
「あ、うん……わかった」
 見つめていた母の後ろ姿が、リビングの中へと消える。その途端、唇に浮かべていた笑みが解けて、自分が酷く疲れていることに気が付いた。小さく溜息を吐き出してから、濡れて気持が悪い足元をタオルで拭う。
 書斎のドアが開く音がして顔を上げると、そこから出てきた父がリビングの前で立ち止まり、珠恵を見ていた。
「……ただ今、帰りました」
 頷いた父が、背を向けながら「少し話があるから、こちらへ来なさい」と、書斎へと戻って行くのに、またつい溜息を吐きそうになる。
 今日ハッキリと感じた門倉と父が纏う似通った空気。父の前では、昔から萎縮してしまい、言いたいことは何も口にできない。この家の中で、父の存在は絶対だった。唯一父に逆らった弟も、だからといって面と向かって父に自分の思いをぶつける訳ではない。ただ顔を合わせる煩わしさから逃れるように、父を避けるのが精一杯の反抗なのだ。
 珠恵が物心ついたころから、母が父に逆らったところを一度も見たことがない。母はいつも父に遠慮して、数歩後ろを黙って歩くような人だった。父の邪魔にならないように、余計なことを言わせないように、あらゆることを先回りして世話をする母に、父が感謝の言葉を述べるところを見たこともなかった。
 それは、父にとっては至極当然のことのようで、門倉が口にした彼が妻に望んでいるものも、父が母に要求するものと同じなのだろうと珠恵は感じていた。
 閉ざされた扉をノックすると、腰かけた父の向かいのソファを示され、そこに座る。
「門倉君と会っていたのか」
「はい」
「それで……話は進みそうなのか」
「まだ……具体的なことは」
 門倉から何も言うなと、そう釘を刺されていたことを思い出した。僅かに溜息が聞こえ、その顔を見つめる。
「くれぐれも粗相のないように気をつけなさい。こんなよい縁談は、恐らく二度と望めない。彼のような男に従っていれば、お前は一生の幸せを約束されたようなものだ。お前の足にあるそれのことも、あちらには話をして、承知して貰っている」
「え……」
 動揺して、一瞬言葉を失う。
「どう、して……」
「黙っていて、後で何か言われても困るだろう。そういうのを、気にする人だっている」
 痛くもないはずの左の腿に、熱を感じた気がして、珠恵はスカートをギュッと握った。
「で、次に会う約束はしたのか?」
「……はい、月曜日に」
「まあ、このままいけば、問題はないだろうとは思うが。向こうの家からも、それとなく話を進めたいというような打診があったとは菱谷さんから耳打ちされている。後は当人らの意思が固まるのを待つだけだと。だから、お前の勤め先にも、近々退職することになるかもしれないと伝えておいた」
 唖然として目を見開き、それが当然のように口にする父親の顔を見遣った。
「どうして……」
「何が」
「どうしてそんなこと、私……仕事を辞めたいなんて一度も」
 今日の別れ際に、珠恵の意思を確認することもなく、同じことを口にした門倉の言葉が脳裏に浮かぶ。
「続けられるわけがないだろう。あちらからも、それは初めから条件とされていることだ」
「条件……」
「当然のことだ。門倉君のような仕事をしている男を支える妻が、仕事の片手間に務まる訳があるまい。お前の仕事はいくらでも代わりがいる。けれど彼の仕事は、そんな生易しいものじゃない」
「私……は……」
 言い返そうとした口元が震える。誰かの前で自分の意思を口にしようとするだけで、涙が出そうになることが情けなくなる。それでも押し出そうとした珠恵の声は、深い溜息の前に消えてしまった。
「お前も後になればこれで正しかったとわかるだろう。私の言うとおりにして間違いはなかったと。とにかく、今はこの話が上手く纏まるように、お前もよく考えて行動しなさい」
 話は終わったとでもいうように立ち上がった父が、そのまま書斎の出口へと向かう。
「お父さん、でも、私は――」
 頭に浮かぶたくさんの疑問を口にしようとして、気が付いた。父が思う幸せと、自分が望む幸せの間には、きっと永遠に埋まることのない深い溝があるのだ。それに、何が自分の幸せなのかを明確な言葉で口にすることができない珠恵の気持は、きっと父の心に届くことはない。
 何より今日、門倉との話を進めることを承知したのは、他でもない珠恵自身なのだ。

「あの男とは、会ってなどいないだろうな」
 振り向いた父は、言葉を継げない珠恵を見つめて、静かだが厳しい口調で問い掛けた。
「……会って、いません」
 答えながら、せり上がるものに声が喉の奥に詰まり、苦しくなる。
「ならいい。おかしな評判が立ってあちらの耳に入るようなことがあれば、とんだ恥さらしになるからな」
 そう言い捨てた父の声と、扉が閉まる音を聞きながら、詰めていた息を吐き出す。それでも、珠恵の中に燻ったまま残った緊張は、解けることはなかった。

 翌日、珠恵は勤務に入る前に館長に呼び止められた。
「実は、君のお父様から、君が近々退職する予定があると聞かされました」
「あの、それは」
 穏やかで人当たりのよい館長は、珠恵が働き始めた時から、何くれとなく面倒を見てくれていた人だ。
 ようやく、手を借りずに仕事ができるようになってきたところだというのに、ほとんど役に立たない間にこんな話になってしまったことに、申し訳なさが募る。
「私は、君を結構買ってるんです。ですから、これが君自身の意思なのか、そうでないのか、それを確かめておきたいと思いましてね。福原さん、君はこの仕事、好きでしょう」
 人柄と同じような真っ直ぐな言葉が、胸の奥に届く。その目を見つめ返して頷いた。
「はい……好きです、とても。やっと、教えて頂いたことを少しずつこなせるようになって、これから、やりたいと思うことも、ちょっとずつ考えられるようになってきたところです……ですが」
「お父さんの仰ったことは、本当なのですね」
「まだ……ちゃんと決まった訳では……。でも話が纏まれば、仕事を続けることは……難しいかもしれません」
「そう……残念だね」
「申し訳、ありません」
「いや。では、決まるまではこの話は保留にしておきましょう。ただ、決まった場合はすぐに教えて下さい」
 頷きながら、それでもそんな風に珠恵の意思を優先してくれた館長に、感謝の気持ちを込めて頭を下げてから、執務用の部屋を後にした。
 ここは、初めて珠恵に役割を与えてくれた場所だった。人から感謝されたり、自分のミスで誰かに叱られて落ち込んだり、理不尽に怒鳴られたり、頼りにされたり。そうやって自分を成長させてくれた大切な場所だった。
 父や門倉にとっては意味をなさないような仕事でも。確かにここは珠恵にとって、かけがえのない、自然と息が出来る確かな居場所だったのだ。
 そして何より、ここで。この図書館で、初めてあの人と出会った。
 足を止めて、ガラス窓から外を見遣ると、サワサワと風に揺れる木々の間から、日の光が差し込む。昨日の雨に洗われたような鮮やかな緑の眩しさに、珠恵は目を細めた。

 朝から雲一つない晴天の今日、あの人は、早くに目を覚まし、きっといつものように寝坊している翔平を叩き起こして、腹ごしらえにと喜世子の作った大量の朝食を掻き込んで、もうこの時間には、太陽の下で汗を流し働いているだろう。
 ――この一杯目が最高だからな
 グラスに入ったそれを飲み干し、気持ちよさそうに息を吐く横顔も。ビールを飲み干す時に上下する喉仏がどこか男を感じさせて、思わず目を奪われた自分が酷く女であると意識したことも。
 その時の光景も感情も全部、不思議なほどはっきりと覚えている。
 どんなに下らない遣り取りも、些細な出来事も。あの人と交わした言葉は、なぜだか初めから殆ど全てが、珠恵の記憶に刻まれていた。
 もう二度と会えなくても。
 他の人とこの先の人生を送るのだとしても。
 そうやってあの人が毎日を変わりなく生きていることを思えば、痛む胸の内のどこかで、仄かな温もりを確かに感じることができる。
 胸が痛くて堪らなくて、それならいっそ忘れてしまった方が楽だと思うのに。同じ程の強さで、決して忘れたくはないと思う。
 板野が口にしていたことを、思い出していた。
 あの人自身に拒絶されても。
 誰にも触れることのできない場所にあるこの気持ちだけは――。
 この想いだけは、大切な自分だけの宝物だった。


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