本編《雨月》

第八章 雨間(あまあい)1



 待ち合わせは、銀座にある老舗デパートの時計台下。
 比較的邪魔になりにくい場所を見つけてそこに立ち、珠恵は色とりどりの傘を差した人々が行き交い、また立ち止まるのをボンヤリと見つめていた。
 雨に呼ばれ浮かぶ面影に、胸が苦しくなり目を閉じる。羽織ったジャケットの胸元を押さえて、少しずつ息を吐き出した。
「お待たせしました」
 不意に声が聞こえて目を開くと、俯いた視界に、雨をはじく綺麗に磨かれた革靴が映る。顔を上げると、見合い相手である門倉が悠然と目の前で珠恵を見下ろしていた。
「いえ、さっき着い」
「では行きましょうか」
 ――待ち合わせに遅れることや、直前になって行けなくなることもありますので、理解しておいて下さい
 初めにそう釘を差していたこの人にとって、珠恵がどれくらい待っていたのかは、たいして関心事でも無いのだろう。待たせたという言葉もただの社交辞令なのだとすぐにわかり、珠恵は口を噤むと、歩き始めた門倉の姿を見失なわないように、後ろをついて歩いた。

 連れて行かれたのは、珠恵でも名前をよく知っている、銀座では有名な老舗のフランス料理店だった。
「門倉様。お待ちしておりました」
 店の扉が開くと、恐らく支配人クラスと思われる店員が落ち着いた口調で二人を迎え入れる。
「いつものお席をご用意しております」
「珠恵さん、こちらはこの店の支配人の岸村さんです。岸村さん、こちら福原珠恵さんです」
 これからは、顔を合わせることも増えるだろうから。そう言って門倉が紹介した珠恵に向けて、穏やかな笑みを浮かべ頭を下げるその人の仕草がとても洗練されたもので、少し、見惚れてしまいそうになる。
「ようこそいらっしゃいました。どうぞこちらへ」
 珠恵が、ぎこちなく下げた頭を上げるのを待って、店内へと案内される。
 これから――。
 もうこの先が決まっているかのような門倉の口ぶりに、戸惑いを覚えていた。珠恵の腰を支えるように前に押し出しながら、静かな声が耳元に送られる。
「こういった場所では、女性が先です。覚えておきなさい」
 何も知らない子どもに物を教えるような口調に、顔が恥ずかしさで赤くなる。多分今のやり取りが聞こえていただろう岸村は、そんな素振りを見せることもなく、自然と歩く速度を少し落として、珠恵が追いつくのを待ってくれていた。
 よほど顔馴染みなのだろう、店内に入っても、スタッフが彼の名前を呼びながら頭を下げていく。門倉がそれに笑みで応えているのが、どこか意外な気がした。
 案内されたのは店の奥にある個室で、暫らくすると、支配人と入れ替わりに入ってきたメートルと呼ばれる給仕長が、挨拶を兼ねて料理の説明を始める。時折珠恵の好みを確かめつつ、スマートに進んでいく二人の遣り取りを見つめながら。
 珠恵は騒がしい居酒屋で繰り広げられる店員と馴染みの客との、冗談の応酬や親しげな遣り取りを、思い出していた。
 自分が今、ひどく場違いなところに迷い込んでいるようで落ち着かない。店員が去り、二人きりで取り残された部屋で、正面から珠恵を見つめる視線もそれに拍車を掛けていた。
 食事の支給が開始されて驚いたことに、門倉に供される食器類やナイフ、フォーク、そしてグラスに至るまで全てが、門倉専用のものだという。
「誰が使ったかわからないもので、食事を摂る気になりませんから」
 何でもないことのように答えた門倉は、こういった場所に慣れているとわかる洗練された仕草で、料理を口に運んでいる。
 申し分ないであろう料理も、少しだけ口をつけた年代物のワインも、あまり味がしない。本当に関心があって聞いているのか、ただの場繋ぎなのかもわからない門倉の問い掛けに答えながら、珠恵はずっと、自分の振る舞いを値踏みされているようで、緊張感がとれずにいた。
 慣れない場の雰囲気も相まって、指先が震え皿の上で何度も音を立ててしまう。それだけでなく、手を滑らせてフォークを取り落としてしまった。給仕係の店員が滑らかにそれを取り替えた後で、口元をナフキンで拭った門倉が口を開いた。
「珠恵さんには、結婚するまでに色々準備をして頂く必要があります」
 唐突な言葉に、戸惑いながら顔を上げる。
「まず、私の家族が懇意にしている先生が主催しているマナー教室に通って頂きたい」
 自分の不作法を咎められた気がして、顏に血が上る。
「それから、料理教室にも通って頂くことになります。私の仕事は身体が資本ですから、体調を万全に整えておくためには、普段からバランスのとれた、そしてカロリーや塩分が計算された食事が欠かせない。今私は毎朝、母の作った新鮮な有機野菜と果物数種類をブレンドしたドリンクを摂っています。料理教室に通うだけではなく、それも含め、私の好む味を母からも教わって下さい。よその家の味に慣れるような余計なストレスを抱えるつもりはありません」
「あの、ま、待って下さい」
 目の前で繰り広げらる話の展開に、頭が付いていかない。いや、門倉が話す内容は理解できるのだが、何か大切なことが抜け落ちている気がする。珠恵の意思を置き去りにして進められる話の腰を折ると、ほんの僅かではあるが、門倉の眉が苛立つように寄せられる。
「あの、それは……このお話を進める、という意味なのでしょうか」
「何か、問題でも」
「いえ、でも……あの、まだ数回お会いしただけで……お互いのことを殆ど何も知らないまま」
「知っていますよ」
 当然だと言いたげな口調に、思わず口を噤んでしまう。ワイングラスに手を伸ばし、ほんの少しだけ含んでから、門倉が読み上げるように澱みなく口にしたのは、珠恵の幼いころから今に至るまでの経歴だった。
「――そうして、短大を卒業してすぐ、現在の図書館に勤め始めた。近頃は、司書の資格を持っていても、正規での採用は非常に狭き門だと聞きますが、あなたは、今の職場に採用された。高校でも短大でも非常にまじめで勤勉な学生だったと聞いています。図書館でも同様の評判のようですね。そして何より、私の聞いた限りでは、今まで男性と付き合った経験は、無い。何か、間違っていることはありますか?」
 驚くほど正確に彼の口から語られた自分の経歴に、どこか薄ら寒ささえ覚える。そして、最後に問われた言葉に、また頬がカッと熱くなるような恥ずかしさを感じた。
「どう、して……そんな」
「仮にも、妻になるかもしれない相手のことです。ある程度調べさせて貰うのは当然のことでしょう。ですから、私の方は初めからこの話を進めるつもりで見合いに臨みました。あなたは、今まで私に持ちかけられた縁談の相手の中で、私が望む条件を満たすに最も近い女性だ。清純ぶってみせても、中身は空っぽの遊びなれた低俗な女や、いかにも玉の輿狙いの媚びた女。そういう下らない女が多くてうんざりしていたんです。純粋で勤勉、健康面も良好で決して頭も悪くはなく、家柄にも問題はない。あなたは、恐らくはきっと、私の望む、私に相応しい妻の条件をクリアしている」
 甘い言葉を期待していた訳ではない。見合いなのだ。互いにある程度は条件を付きあわせて、そこで合う合わないを判断するのは仕方がないことなのだろう。それでも、まるで審査に通ったから結婚するのだとそんな風に言われているようで、胸の中をザラザラと砂で撫でれれたような気持ち悪さを感じる。
「でも、私は……」
「私に、何か不満がありますか」
「いえ、あ、あのそういう、訳では……」
「なら」
 再びワインを口に含んだ門倉が、グラスをテーブルに置いて、もう一度口を開いた。
「何か、他に問題でも?」
 ――もう、ここへは、来るな
 瞬時に脳裏に浮かんだのは、笑み一つない冷たい表情で告げられた言葉だった。
 あの時、珠恵が口にしようとした何かは、言葉になる前に断ち切られ行き場を失くした。きっと、気付かれていたのだ。あれは、確かに拒絶だった。はっきりと――フラれたのだ。
 気付かれているとも知らず、会えることにただ浮かれて。あの人の優しさや言葉を、いつの間にかどこかで勘違いしそうになっていたことも、きっと見透かされていたに違いない。
 珠恵にとっては、頭が真っ白になり、心臓が止まりそうだったあのキスも。あの人にとっては、何も意味など無かったのだ。もしかしたら、可哀想だからそれくらいしてやろうかと、そんな風にでも思ったのだろうか。
 もしもそうだったのなら。堪らなく惨めで、恥ずかしかった。
「何か、あるんですか?」
 顔を上げると、感情の掴めないフレーム越しの目がじっとこちらを見ていた。自分の中の動揺を断ち切るように、今はもう、目の前にいる人のことをちゃんと考えなければならないと、そう、珠恵は自分に言い聞かせ口を開いた。
「……いえ」
「では。この話を進めることに、異存はありませんね」
 まるで商談のようだと、頭の隅で、冷めた自分がそんなことを考えている。それでも、これがきっと皆が望む形なのだ。
 ――あんたに相応しい相手がいる
 痛みを誤魔化すように、膝の上に置いた手を握り締める。目の前の人を見つめ返しながら、小さく息を吸ってから静かに頷いた。
「――はい」

 それからは。断られることなどまるで想定していなかったのだろう、門倉の口から語られる結婚式までの今後のスケジュールを聞いていた。
 門倉の一族では結婚式を挙げるホテルはここに決まっている、と伝えられたのは、誰もが知る都心の老舗一流ホテルの名前だった。
 招待客には、議員や官僚が大勢来るから、バランスを考える必要がある。そちらの招待客リストを早々に作り渡して貰いたい。国会の会期を考えれば、式の予定が立つ時期が非常に限られる。
「私の仕事は、もうおわかりでしょうが非常に多忙で国政に左右されるものです。ですから、実際の挙式の準備はあなたにして頂くことになる。姉の夫も内閣府勤務の役人です。参考になるでしょうから、母や姉の話を聞いて、ご両親とも相談しながら進めて貰えばいい。些末なことは私に相談せずに決めて貰って構いません。むしろ、そうして頂きたい。ドレスや装飾がどうこう、などという話に付き合う程暇ではありません。わかりますね」
 大臣を務めたこともある政治家を叔父に持つ門倉は、東大卒のキャリア官僚だ。総務省に勤める彼は、三十になる前に課長補佐という役職に就いている。それは、キャリア官僚の中でも異例のスピード出世なのだと、父が、なぜか自慢気に語っていた。いずれは叔父の地盤を継いで、彼が国政に打って出ることになる可能性も大いにあるのだとも。
 気持ちは不安定で、すぐに揺れる。議員の妻――そんな大役が、自分に務まるのだろうか。珠恵にはそんな風には、とても思えなかった。
「あの……本当に、私で、いいんでしょうか」
 力ない声の問い掛けに、ナフキンをテーブルの上に置いた門倉が、珠恵をじっと見つめて口を開いた。
「あなたには、お母様といういいお手本がいらっしゃる。何も難しく考える必要はありません。あなたは、私の言葉に従っていればいい。妻が夫に付き従う。それが理想的な夫婦の関係です。最近はそういったことができる女性は少なくなりました」
 ずっと感じていた。門倉と父の思考は、とても似ていると。それがきっと、父が門倉を気に入っている理由の大半なのだろう。話す門倉の口元を見つめる珠恵の胸に、鈍い重さが広がっていく。
「私には、自己主張が強いだけの、我が儘な馬鹿は必要ありません。あなたなら、きっと間違いがない。少し自信がないくらいの方が、努力を惜しまない。そう思いませんか」
 珠恵を見つめる目の前の人の薄い唇が、ゆっくりと弧を描いた。


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