本編《雨月》

第七章 雨と混沌6



 互いに口を噤んだままの車内は、エンジン音だけがやけに大きく聞こえる。珠恵は、両手を膝の上で重ねたまま、窓の外へと視線を向けているようだった。
 幹線道路を交差点で折れてしばらく走るうちに、少しずつ辺りの景色が、ビル街から住宅地へと変わり始める。
「あの、もうこの辺りで」
 不意に聞こえた声に我に返ると、珠恵が最寄りだと言っていた駅を通り過ぎた所だった。
「家、どっち、近くまで行くから」
「あ、あの……じゃあ、次の交差点の、一つ次の信号を、左に曲がって、少し進んだ所で」
「わかった」
 珠恵の告げた場所で左折すると、比較的大きな住宅が立ち並ぶ通りに出た。
「どの辺?」
「あの、白いマンションが見える、少し手前で」
「ああ」
 風太の暮らす街とは違い、閑静な住宅街という言葉が似合いのこの辺りは、都内でも比較的裕福な人種が暮らしており、この界隈の地価はここ数年で大きく上昇していた。
 珠恵が示したマンションの手前で車を止める。妙に、軽トラックがそぐわない街並みだった。
 エンジンを止めると、車の中に静けさが満ちる。呼吸さえ自然にすることができないこの微妙な空気を作り出しているのは、自分だと風太もわかっていた。
 溜息が漏れそうになる寸前に、辛うじてそれを止めた。
「……あの、森」
「気分は。もう大丈夫か」
 口を開こうとした珠恵を遮り、そう問い掛けると、風太を見つめた目が僅かに伏せられる。
「……はい、もう」
 俯いて両手を握りしめた珠恵が、静かに頭を下げた。
「今日は……あの、すみません、でした」
「……いや」
「森川さん、学校」
「え?」
「あの、今日、学校……あったんですよね」
「え、あ、ああ……まあ。けど、学校なんて行ってる場合じゃなかったしな」
 忘れてたよ――と笑ってみせようとした風太の言葉よりも先に、「すみません」と言う声が耳に入り、微かな苛立ちを覚える。
 さっきからもうずっと、風太は自分の感情をどうにも上手くコントロールすることができずにいた。

「……何が」
「あ、いえ、あの、学校……お休みさせて」
「あんたが悪い訳じゃないだろ」
「あの……すみませ」
「だから、謝らなくていいって言ってんだろ」
 つい、語気がきつくなってしまう。口を噤んだ風太は、胸の内で自分に小さく舌打ちをした。
 当惑したように珠恵の瞳が揺れて、気まずそうに伏せられていく。
「違う……悪い」
「だって……」
 膝に置いた鞄の取っ手を握り締め、その手の辺りを見つめた珠恵が、声を震わせた。
「さっきから、何か……お、怒ってますよね」
「だから、それは……」
 頭の中では、何をやっているのだと、あんな目にあったばかりの彼女に、なぜもっと優しくできないのかと自分を罵る声が聞こえる。
「本当は、自分で何も出来ないくせに、面倒掛けて……鬱陶しいって、そう、思ってるんじゃないですか」
「そんなこと」
「なのに、どうして……さ、さっきみたいなこと……。私……そういうの……わからないから……森川さんには、きっと、何でもないことかもしれないけど、ああいうの、私、どうしたらいいかわからなくなって……だから」
 こんな風に、溜め込んだ感情を顕わにする珠恵を見るのは初めてだった。ただでさえ精神状態が普通ではないのだ。いつもよりもずっと気を配るべきだったのに、振り回して混乱させた。
「私だって、すぐに謝るのは、悪い癖だってわかってます。でも、でも仕方がないじゃないですか……森川さんが、黙ってしまったのは……私が、何かしたんじゃないかって……こんな空気に私がしたんだったら、私……謝る他にどうすればいいのかなんて、わからないから」
「違う、そうじゃ、ない。あんたは何もしてない」
「私、どうすれば……いいんですか」
「俺は――」
「どうして、こんな」
 ハンドルを握っていた指を外した風太は、手を伸ばして、俯く珠恵の頬に触れた。弾かれたように顔を上げて風太を見つめた瞳が、薄っすらと濡れている。
「――え」

 驚いたように目を見開いた珠恵に顔を近付けて、そのまま、彼女の唇を塞いだ。見開かれたままの瞳をすぐそばで見つめながら唇を離して、風太は、何が起きているのかわからずに呆然としている珠恵の腕を引き、強く抱き締めていた。
 身体を硬くして腕に抱かれている珠恵は、息を止めていたのか、しばらくすると、吐息と共に肩から少し力が抜ける。
「……もり、か……」
 戸惑いを滲ませた声が、呟くように風太の名前を口にするのを聞きながら、頭の中とは矛盾した自分の行動に、いったい何をしてるのだと自問自答していた。
 珠恵を抱き締めていた腕の力を抜いて、ゆっくりと身体を引き離す。けれどその腕は掴んだままで、間近に視線が絡むと、風太の目に映る瞳が、惑うように揺れ動いた。
「ど……して」
 何をどう答えようとしていたのか。自分でもわからないまま風太が口を開こうとしたその時、珠恵の身体が、突然強張るのがわかった。

「――どう」
 どうした、と確かめようとして、彼女の視線が、風太を通り越しフロントガラスの外に向けられていることに気が付いた。
「……おとう、さん」
 呟く声に、珠恵から手を離して窓の外へと視線を移そうとしたとき、助手席側のサイドガラスが激しく叩かれ、キーの下りていない扉が外から開けられた。
「お父さん」
「降りなさい」
「待って……私」
 珠恵の父親が、身動きできずにいる彼女の腕を外へと引くのを見て、風太も我に返った。
「待って下さい」
「聞こえないのか、降りなさいと言ってる」
「……痛いっ、お父さん」
「ちょっと、待ってください」
 珠恵の指先が、シートベルトのボタンを押し外すと同時に、その身体が車の外へと引き摺り出された。
「お前は、こんなところでいったい何をしてる」
 車外に連れ出された珠恵は、父親の前に項垂れるように立ちつくしている。仕事の帰りなのか、隙無くスーツを着こなした、見るからにエリート然とした珠恵の父親は、風太の周囲ではあまり見かけることのない人種の男だった。
「待って下さい」
 運転席から慌てて飛び出すと、青ざめた顔で風太を見た珠恵が、微かに首を横に振った。
「違う、今のは」
「娘に聞いている。君は口を出さないで貰いたい」
「今のは俺が、無理矢理」
 父親の視線が、初めて風太の方へとまともに向けられた。その表情の冷たさに、思わず口を噤んでしまう。風太から珠恵へと視線を戻した父親が、娘を見下ろしながら口を開いた。
「この男に、無理矢理襲われたのか」
 珠恵が小さく首を横に振った。
「違い、ます」
「この間の話を、忘れた訳じゃないだろうな」
 珠恵に話しかける父親の態度に、僅かな違和感を覚える。消して声を荒げるわけではない。どちらかといえば口調は冷静なままなのに、高圧的に感じるその言葉や表情は、年頃の娘を心配しての父親の怒りとはどこか種類が違うような気がした。
「お父さん……私」
「お前、酒を飲んでいるのか」
「あ、の……それ、は」
「酒を飲んで、ふらふらと遊び歩いていたのか」
「違う、それは」
 口を挟もうとして、風太はどこまで告げていいものかと躊躇した。珠恵が学生に無理矢理酒を飲まされ、襲われそうになったと、そうこの父親に説明すべきなのか迷い、確かめるように珠恵へと視線を移す。ほんの一瞬、彼女の瞳が言わないでくれというように、微かに動いた。
「それは、俺が、無理に飲ませて」
 珠恵が、驚いたように目を開く。
「だから、申し訳ありませ」
「違いますっ……違う、私が」
「もういい」
 珠恵が上げた声を冷たい一言で遮った父親が、彼女の名前を、静かだが威圧的な声で呼んだ。
「珠恵」
「……はい」
「お前は、家へ戻っていなさい」
 顔を上げた珠恵の唇が震えている。
「お父さん……」
「私は、この男と少し話がある」
「違う、待って、下さい。この人は、わ、私を助けてくれただけで」
「――助けた?」
 珠恵の父親が、僅かに苛立ったように片側の眉を上げた。
「駅前で、私が、お、男の人に……絡まれている所を、この人が」
「どこの、駅前だ」
「え……あの……」
「どこにいたと聞いてる。答えられないのか」
「い、え……」
「心配するの、そこじゃねえだろ」
 つい、言葉が口から零れ出てしまい、しまったと思った時にはもう、また先程と同じ色をした瞳が風太を見据えていた。
「お前の話は後だ。家に戻りなさい」
「おとうさ」
「戻りなさいと言っている」
 父親が何かに気が付いたように、恐らく自宅だと思われる方角へと視線を向けた。
「美佐子、珠恵を連れていきなさい」
 顔を向けると、珠恵の母親らしきエプロン姿の女性が、おずおずと進み出る。
「お母、さん」
「珠恵、いったい何が」
「美佐子、聞こえないのか」
 珠恵も、そして彼女の母親も。この状況がそうさせるのだろうが、父親と話す時、とても緊張しているように見えた。「聞こえないのか」と言われた母親は、ビクッと身体を震わせると、珠恵の手を取り引っ張るように家へと引き返しながら、目を合わさず微かに頭だけを下げて、風太の横を通り過ぎて行った。
「……もりか……さ」
 泣き出しそうな瞳が風太を見つめて、そのまま家の中へとその姿が消えていく。
 拳を握り締めたまま、そっと息を吐き出した風太が顔を上げると、こちらを見ている男の冷たい瞳と視線が合わさった。

「森川、風太君だね」
 名前を呼ばれ、珠恵の父親がそれを知っていることに驚き、咄嗟に言葉が出なかった。
「珠恵さんから、ですか」
「いや。娘は嘘つきでね。君のところへ行くことを、私には中学生の女の子の家庭教師を引き受けたのだとそう説明していた」
「……じゃあ」
 目は笑っていないのに、微かに馬鹿にするような笑みを浮かべた男が、口を開く。
「珠恵は職場の人に中学生の家庭教師を頼まれたと言っていたが、聞いてみればあれの職場でそんなことを頼んだ人はいないことがわかった。職場の人間が誰も知らない花見に職場の人と出かけると言ってみたり、最近どうもおかしな行動が目に付くようになってね。ちょっと調べさせた」
「調べ……って、自分の、娘を?」
「そうだが、何か問題でも?」
「……自分の子ども、調べさせるなんて異常だろ」
 珠恵の父親が、フッと息を吐いて苦笑いする。とても、嫌な感じのする笑みだった。
「君のような男に、異常だと言われるのはおかしなものだな」
「……どういう、意味ですか」
「君のような、とてもまともな育ちとは言えない男に、とでも言い直そうか」
 胸の内に、苦いものが込み上げてくる。珠恵の父親が風太に向ける視線。こういう、侮蔑と嘲りを含んだ目を人に向けられるのは初めてではない。むしろ、よく知っているとすらいえる類のものだった。
「ああ……そういう、ことか」
 娘の行動だけでなく、娘に近付く相手の素性をも調べたということなのだろう。
「娘に中学レベルの勉強を見てもらうくらいだ、よほど馬鹿なのかと思ったが、案外、察しはいいみたいだな」
「それは、褒めてるんですか」
 口元に浮かべた笑みが消え、再び虫けらを見るような視線がこちらを見つめた。
「娘は今、東大出身のエリート官僚との見合いを控えていてね」
 驚きに目を開く。珠恵の年齢で見合いというのも、随分と早い話だ。
「見合いって……」
「そういう大切な時期だ。おかしな輩が娘に近付くことは、こちらとしては避けなければならない。あちらは、娘の真面目さと純粋さを気に入って下さってる。そんな時に、君のような男と関わりがあると思われるのは、こちらとしては至極迷惑なんだ」
「俺の、ような」
「これまで、娘が平気で嘘をついたり、酒を飲んで遅くまで出歩くようなことは一度もなかった。どうやら、君と知り合ったことが、悪影響を及ぼしているようでね」
「彼女は……見合いをすること」
「もちろん、断る理由などある筈がないだろう。お相手はあの子には勿体ない程の、申し分のない優秀な男だ。珠恵のような大人しい娘は、早く結婚して家庭に入らせる方が合っている」
 何がどうなっているのか、頭の中が真っ白で、何一つまともに考えることができない。
「察しのいい君のことだ、もうわかっただろう。所詮君は、父親が誰かもわからないような、ロクでもない母親の息子だ。君のようなヤクザまがいの男と一緒にいるだけで、うちの娘までもが、世間から白い目で見られる。さっきのような汚らわしい真似をして、君のような男に傷物にされたなどと噂にでもなったら、あちら様にも顔向けができなくなる」
「……心配してんのは、あいつのことか? それとも、世間の評判か」
 滲むように湧き上がる怒りに、握り締めた風太の手が、力を入れすぎて震える。
「どちらも同じことだ」
「俺には、あんたが彼女を心配しているようには、とても思えねえ」
「……君のような、下品な人間が、私は嫌いでね」
 蔑みを含んだ目で、珠恵の父親が、汚いものを見るように風太を見つめ返した。
「君は、分不相応、という言葉を知っているか?」
 何も答えないまま睨むように見つめ返すと、冷めた目がスッと細められた。
「君のような男が、うちの娘のようなタイプに本気で関心があるとは思えないが。遊びにしても選ぶ相手が違う。君には君に相応しい女がたくさんいるだろう。いずれにせよ、もう金輪際、うちの娘には近づかないで頂きたい」


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