本編《雨月》

第七章 雨と混沌5



 珠恵が横になっている間に、店とは弘栄が話をつけていた。
 女を連れ込んでいた学生に場所を提供し、中で行われていることには目を瞑る見返りに金を貰っていたのだという若いオーナーは、ここで商売を続けたいなら、今後二度とその手の行為に手を貸さないと約束する代わりに、店を潰されることは免れたらしい。
 ターニャと弘栄の名を、この界隈で夜の商売をしていて知らない者は殆どいない。彼らに逆らうことが決していい結果をもたらさないことを、その男もよく知っていたようだ。
 一度だけ部屋に戻って来た弘栄は、手短に風太にそれを報告すると、テーブルに水の入ったグラスをそっと置いて出て行った。
 目を覚ました珠恵は、眠る前よりは随分血色もよくなってきていた。まだ少しボンヤリとはしていたが、水分を取らせしばらく様子を見るうちに、意識もしっかりとしてきたようだった。
 もう大丈夫だと口にした珠恵の腕を支えながら、カラオケルームを後にする。きっと、あの部屋に長くいるのも苦痛だっただろうと、そのときになって気が付いた。

 もともと客の入りが少なかった店内は、騒ぎを聞きつけた客のほとんどが引き上げてしまったようで、やる気のなさそうな若い従業員が、カウンターの中で椅子に腰を下ろし、手持ち無沙汰にしている。
 風太と珠恵が部屋から出てくると、店の入口にある待合のソファに腰かけていた弘栄が、立ち上がり、微かに笑みを浮かべた。
 店に来る客が、見たいと躍起になって話しかけても、滅多に見ることができない彼の笑顔だった。
「顔色、随分良くなりましたね」
 借りていたジャケットを返すと、隣に並んだ珠恵が静かに頭を下げた。
「あの、ありがとうございました」
「いえ、ご気分は、大丈夫ですか?」
「はい」
 頷いた珠恵にもう一度微笑んでから、顔を上げた弘栄は、風太を見つめて静かに頷いた。
「珠ちゃん、ほんとに大丈夫?」
 ソファから同じく立ち上がった翔平が、珠恵のそばに回り込み、顔を覗き込んでいる。
「翔平くんも、ごめんね、ありがとう……もう、大丈夫だから」
 少し笑みを浮かべて頷く彼女の腕を支えたまま、弘栄に告げた。
「彼女、送ってきます」
「ああ、はい」
「森川さん、本当にもう」
「駄目だ」
 さっきから家まで送るという風太に、珠恵は大丈夫だとしきりに遠慮していたが、もちろん聞くつもりなどなかった。
「翔平」
「いいっすよ。車でしょ」
「あの、私……歩けます」
「珠ちゃん、いいから風太さんに送ってもらいなよ。俺、ちょっとこれから弘栄さんとこの店に寄るし」
 風太が全てをを口にする前に、言わんとすることを察した翔平は、そう珠恵に笑みを向けた。けれど、先程からずっと、風太からは微妙に顔を逸らしたままだ。
「弘栄さん、ターニャさんには、また店に顔を出すと言っといて下さい」
「わかりました」
「世話になりました」
「あの……本当に、ありがとう、ございました」
 最後にもう一度二人に頭を下げた珠恵を伴い、店の外に出て行こうとした風太に、翔平が車のキーを差し出した。
「俺、もう要らないっすよね」
「……悪いな」
「それって、どっちの意味すか」
 腕だけを伸ばし横顔を向けたままの翔平は、口元に浮かぶ不満を隠そうとはしなかった。
「両方だ」
 尋ねておきながら、風太の答えに驚いたように顔を上げた翔平にもう一度口にする。
「悪い」
 隣に立つ珠恵が、二人の遣り取りの意味が分からず戸惑っている様子が感じられる。きっと弘栄のほうは、たったそれだけの短い遣り取りで、二人の間の微妙な空気の意味合いを察していることだろう。
「どうせ……そんなことだと思ってたよ」
 ブスっとしたままそう呟いた翔平が、風太に顔を向けた。
「弘栄さんとこの店で、一番いいお酒でいいっすよ」
「かまわねえけど」
「いいんですか風太さん、結構しますよ」
「まあ。でもこいつ、まだ飲めませんから」
「ああ……そうですね。じゃあ、翔平さんが成人するまで、預かっておきますよ」
 舌打ちする翔平に、真顔だった弘栄が微かに笑みを漏らす。珠恵だけが、不思議そうな顔をしたまま、その遣り取りを聞いていた。

 店を出ると、まだ足元が覚束ない珠恵を、彼女の制止を聞かず背中におぶって、日が暮れてからの方が賑やかな通りを車を止めた場所へと戻って行く。抵抗と緊張とで妙な力が入っていた珠恵の身体から、やがて諦めたのか少しずつ強張りが抜けていくのを感じた。
 しがみつくことを躊躇う腕を前に引いて、しっかりと掴まらせる。恥ずかしいと言って風太の首元に伏せた珠恵の顔は、耳元まで赤く染まっていた。背中に重みと温もりを感じながら、さっきあの部屋で見た、血の気の引いた青白い顏を思い出す。首筋に触れる彼女の息が温かいのに安堵しながら、風太は、別の意味でどこか落ち着かなさを感じていた。
 車に辿り着くと、背から下ろした珠恵を助手席に乗せる。
「あ、あの……重たかった、ですよね……すみません」
 消え入りそうな声で口にして、顔を俯けた珠恵の耳がまだ微かに赤い。笑って珠恵の言葉を否定してから、自宅の場所を尋ね、車のエンジンをかけた。
 車を出す前に携帯を確認すると、喜世子からの着信が何件も入っている。折り返すと、待ち構えていたのだろうほとんどワンコールも待たずに、声が耳に飛び込んできた。
「風太っ、珠ちゃんは」
 珠恵の無事と、今から彼女を送って行くことを告げると、ようやく安堵したのか喜世子の口調が少しだけ落ち着いたものに変わった。翔平からも連絡は入っていたようだが、やはり直接話をするまでは、気が気でなかったのだろう。
「――ああ、ですね。ちょっと待って下さい」
 二人の会話を気にするように見ていた珠恵に、携帯を差し出す。
「おかみさん、話したいって」
 頷いた珠恵が、手に取ったそれを耳に当てるのを待って、風太は車を発進させた。
「あ、あの――」
「珠ちゃんあんたっ、ほんとに大丈夫だったの」
 興奮した喜世子の声が大きいため、会話が全て漏れ聞こえてくる。
「はい、あの、森川さんと、翔平君が来てくれて」
「ほんとに、ほんとに、何か……変なこととか、されてないんだね?」
「……はい」
「嘘じゃないだろうね」
「はい。本当に、あの……大丈夫でしたから。ご心配お掛けして、すみま」
「何言ってんの、あんた、うちの娘のために」
「いえ、それは」
「あの子のためにあんたに何かあったら、私、もうあんたの親御さんに顔向けが出来ないよ」
 なぜだろうか、携帯を持たない方の手を、珠恵がギュッと握り締めたのがわかった。
「でも……愛華ちゃんじゃなくて、よかったです」
「珠ちゃん」
「あの、恰好つけて、私、却って皆さんにご迷惑を」
「馬鹿なこと言うんじゃないよ。迷惑なんて、感謝こそすれ……本当に、ありがとうね」
「いえ……あの」
「うちの子も、今回のことはかなり堪えてるみたいだから」
「そう、ですか」
「今度ちゃんと挨拶させるからね」
「いえ、そんなのは――」
 短い遣り取りが続いた後、通話を終えた珠恵が、静かに息を吐いた。
「……あ、携帯、ありがとう、ございました」
「ああ」
 渡していた携帯を受け取ろうと差し出した風太の手のひらに、柔らかな指先が僅かに触れる。それを感じた途端、その手を握り締めていた。
 二人の手の間から滑り落ちた携帯が、車の床に転がり落ちる。咄嗟に腕を引こうとした珠恵の動きを、風太は、強く手を握り締めることで制した。

「……もり……かわ、さん?」
 視線は前を見つめたままで、少し力の抜けた珠恵の手をもう一度握りなおした。カラオケボックスで触れた時とは違い、その手は温かかった。
「……あ、あの」
 隣を見なくても、珠恵の戸惑いや、きっと頬を染めているだろうことも想像がつく。けれど、風太自身も自分の行動に戸惑っていた。
 黙ったまま運転を続ける風太に、問い掛けるのを諦めたのだろう、口を噤んでしまった珠恵の指先に、おずおずと力が込められていくのを感じる。
「あいつら」
 少しだけ力の抜けた風太の手の中で、珠恵の指が小さく動く。
「あのまま帰してよかったか?」
「……はい」
「身元は全部押さえてある。だから福原さんが何かしたいっていうなら」
「いえ……あの、本当に何もなかったですし、だからもうそれは」
「何もじゃねえだろ」
 何もなかったのは結果にしか過ぎない。もしも風太達が間に合わなければ、恐らく薬を飲ませるかして、奴らは面白半分に彼女を姦していただろう。下手をすれば、映像だって撮られ兼ねなかったのだ。
 燻っていた怒りが再燃し、柔らかな手を握る指に思わず力が入ってしまう。ビクッとした珠恵がこちらを向くのがわかり、力を抜くように深く息を吐きだした。
「あんたに、何かあったら……」
 ポツリと漏らした自分の声が、思ったよりも頼りなく聞こえる。交差点で信号が赤に変わり車を停車させると、風太はゆっくりと助手席へ視線を向けた。
「俺は、あいつらを、多分殺してた」
「森、川さん?」
 驚いた顔をした珠恵の指先に、僅かに力が入る。想像したとおり耳元を赤く染めた珠恵の瞳に、車のライトが当たりゆらゆらと煌めく。
 握っていた彼女の手をゆっくりと離した風太は、腕をハンドルに戻した。
 置き去りにされた珠恵の手が、所在無げに動いて、ゆっくりと握り締められる。
「嘘じゃねえ」
 戸惑いを含んだ目で風太を真っ直ぐに見つめた珠恵と、視線が絡み合った。その時、後ろから急かすようにクラクションが鳴らされた。
 顔を正面に戻すと、もう信号が青に変わっている。前を見つめたまま、アクセルを踏み込んだ。
「俺は……そういう人間だ」
 その言葉を、珠恵がどんな表情で聞いていたのか、風太は確かめることができなかった。


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