本編《雨月》

第七章 雨と混沌4



 触るなと言われた男の怯えた表情に、自分が今どんな形相をしているのか、想像がつく。
「……や、……な、なんも、してねえって」
 慌てて肩から手を離した男を押しやると、しゃがみ込んで、目を閉じた珠恵の頬にそっと触れた。浅くだが呼吸を繰り返す珠恵の顔色は白く、投げ出された手に触れると指先が冷たい。
「……おい」
 肩に手を伸ばして軽く揺すると、重そうな瞼がもう一度微かに開いた。珠恵からは僅かにアルコールの匂いがした。
「……り……か…さ……」
「わかるか?」
 ホッとしたように息を吐き小さく頷く珠恵の様子に、僅かに安堵を覚えた風太は、振り向きざま、逃げ出そうとしていた男に手を延ばし引き摺り倒した。
「何した?」
 整った顔を引きつらせながら、虚勢を張るように虚しく笑みを浮かべる男の身体が、ガタガタと震えている。
「だ、から、何もしてねえって……ほらっ、みんなで楽しく、酒飲んで、カ、カラオケしてただけでっ」
 襟元を握り顔を引き起こすと、風太は男の頬を軽く平手打ちした。
「てめえふざけてんのか?」
 半泣きになっている顔を睨みながら、身体を揺さぶる。
「ち、ちょっと、強めの酒……飲ませ……」
「それだけか? 混ぜもんとか薬は」
 途端に口を噤んだ男の襟首を引っ張り上げると、手近に転がっていたグラスを振り上げ、机に叩きつけた。割れたガラスの欠片を、震える喉元に付きつける。
「ひっ……やめっ、くれっ……やっ、やってねえ、くす、くすりは……入れてねえって」
 藻掻く男の顎を捉えてこちらを向かせた。
「本当だろうな?」
 唇を震わせながら息を吐き出した男が、青ざめた顔で答えた。
「ほ、ほんとだって……入れる前に……さっ酒が効いたから」
「入れるつもりだったのか」
 マズイ事を言ったと、男がビクッと肩を竦める。

 その時、僅かに袖を引かれるのを感じた風太は、その感触の元を辿るように、男から視線を移した。まだ青白い顔をした珠恵が、重い頭を起こすようにして風太の袖を握っている。
 風太の怒りを抑えようとするかのように、唇を上げて小さく首を横に振った珠恵の指先から、力が抜けて腕がソファへと沈む。ほんの少しだけ、冷静さを取り戻す自分を感じる。手を緩めた風太は、男にもう一度だけ念を押した。
「入れて、ねえんだな」
「う……そじゃねえって、酒だけで……急に気ぃ失ったみたいになって」
「何がだけ、だ、ざけんな」
 床に叩きつけるように男を離すと、這いながら後退って行く。手にしていたガラスの破片を放り出すと、呆然とその遣り取りを見ていた学生達が、部屋の外へと転がるように飛び出て行った。

 ソファへと手を伸ばし再び頬に触れると、重たげな目を開いた珠恵が、口角を上げる。笑ってみせようとしてるのだろうが、色を無くした唇が震えて、力が入らない様子だ。
「いい、無理するな。もう……大丈夫だ」
 そっと手の甲で頬を撫でると、頷きながら目を閉じた珠恵の片方の瞳から、涙がひと滴、頬を伝い落ちた。
 背後で足を引きずるような音が聞こえて振り向く。恐らく従兄だろう男に抱えられて出て行こうとする男の後ろ姿に「ヒロム」と、声をかけると、その足が止まった。珠恵の頬を拭ってから、ゆっくりと立ち上がる。
 感情を捉えることが難しい銀色の瞳が、風太を見つめた。
「死にたくなきゃ、二度とこいつに近付くな」
「――は?」
「次はねえぞ」
「……そいつ、あんたの何なわけ?」
 血が滲んだ口元を歪めて笑うヒロムを、黙って見つめ返した。
「ま。たまたま会っただけで、そんな地味な女もう一回どうこうするほど大して興味もねえけど……ほら、歩け、行くぞ」
 自分より年長の男を顎で動かし、部屋の外へと出て行くヒロムの後姿を見つめながら、風太は固く握っていた手を解いた。
 外で何か揉めているような遣り取りが聞こえたあと、部屋に翔平と黒っぽいスーツを着た長身の男が入って来た。中の有り様を見て一瞬茫然とした翔平が、顔を上げて風太の後ろにいる珠恵に目を留めた。
「珠ちゃんっ」
 慌てて駆け寄り珠恵に触れようとした翔平の腕を掴んで引き止めると、怪訝な顔がこちらを見上げる。
「大丈夫だ、意識はある」
 そう言って翔平から目を逸らし、風太はあとから入って来た男に頭を下げた。
「すいません、弘栄さん」
「いえ……アルコールみたいですね」
 低い重厚な声で、必要最低限の口しかきかないこの男は、ターニャの店のバーテンだった。風太の只ならぬ様子に、気を回したターニャが寄越したのだろう。
 細身に見える身体を、鍛え抜かれた鋼のような筋肉で覆ったこの男は、ただのバーテンではなく、店の用心棒の役割も果たしている。ターニャが、最も頼りにしている男だった。
「薬は使ってねえって。ただ、強い酒飲まされたみたいで」
 風太の言葉に頷くと、周囲に散らばるグラスの匂いをいくつか確かめた弘栄が、珠恵のそばに屈み込み風太を見上げた。
「少し、触れても?」
 小さく頷くと、隣で翔平が「…んだよ」、と舌打ちをした。
 首元と指先に、そして手首などに触れていく弘栄に後ろから声を掛ける。
「もともと、酒は弱くて飲めねえみたいで」
 頷いて立ち上がった弘栄の、深くて暗い、そして僅かに優しさを滲ませた双眸が、風太を見つめた。
「酒だけだという話が信用できるものなら、脳貧血だろうと思います。体調や体質でアルコール摂取後に貧血のような症状を引き起こすことがあるので。もともと酒に弱いとのことですし、恐らく、極度の緊張と空腹時の飲酒で引き起こされたものかと」
「大丈夫なもんなんですか」
「私があいつらに確かめた時にも、大した量は飲ませていないようなことを言ってましたし、そうであれば、しばらく安静にしていれば回復しますよ。顔色も多分少しずつよくなってきます。もうしばらく動かさず、できれば横になっていたほうが」
 頷いた風太は、珠恵に声を掛けた。
「聞こえたか? 少し横になってろって。身体、倒すぞ」
 まだ身体が重いのか、微かに頷くのも辛そうな珠恵の肩を支えて背凭れから起こすと、力の入らない身体をそっと横たえる。靴を脱がせ足をソファに上げる間も、抵抗らしい抵抗も見せなかった。
「め……なさ……」
 目を閉じて横になった華奢な身体が、微かに震えている。
「寒いか?」
 僅かに珠恵が頷くと同時に「お嫌で無ければ」と、弘栄がジャケットを脱いで、風太に差し出した。それを借りて被せる。
「すぃ……ませ……」
 殆ど声にならない掠れた声が、僅かに開いた唇から洩れる。小さく溜息を吐いて珠恵のそばに屈みこんだ風太は、顔にかかった髪をそっと掻き上げた。
 確かに最初に見たときよりは、ほんの僅かだが顔に色が戻ってきている気がする。
「悪い事してねえのに、謝るなって言っただろ」
 白い指先が微かにピクリと動く。
「何も、謝らなくていい。謝らなきゃならねえのは……こっちの方だ。愛華を……ありがとう」
 閉じたまつ毛が震え、僅かに珠恵が目を開いた。風太を見上げたその目を、見つめ返す。
「俺は、間に合ったか?」
 重たそうに、けれど確かに珠恵が頷いた。
「……ぃじょう…で…」
 大丈夫だと、呟くように口にした珠恵の目蓋を手で覆って、その瞳を閉じさせる。
「悪い。しばらく寝てろ」
 さっきまで身の内から溢れ出ていた怒りや焦りが少しずつ収まってくる。それでも、腹の底にはその熱のような怒りがまだ燻り続けていた。
 ソファの前の床に腰を下ろすと同時に、風太の唇から無意識に深い安堵の溜息が零れ出る。しばらくその場で俯いていた風太の右腕に、何かが触れる感触があり顔をそちらに向けた。
 珠恵の指が、風太の服の袖を握り締めている。その手がさっきよりも震えていることに気が付いて顔を上げると、顔を伏せたまま、珠恵は身体を震わせ泣いていた。
 嗚咽を堪えるように静かに涙を流す珠恵に手を伸ばして髪に触れ、そっと頭を撫でる。
「怖い思いをさせて、すまなかった。もう、大丈夫だ。二度と……あんたをこんな目に合わせたりしねえ」
 何度も繰り返し頭を撫でるうちに、やがて珠恵の震えは小さくなっていった。
「――風太さん、私は店長と話つけてきますんで。それから、あいつらの身元は全部押さえました。携帯の写真や動画なんかも、念のため全部チェックしましたんで」
「写真……」
 そんなことにまでは、頭が回らなかった。
「大丈夫、まだ何も撮られてませんでした。それから酒を飲ませただけのタイミングだったというのも、恐らく嘘じゃなさそうです。いずれにせよ、間に合って良かった」
「……ありがとうございます」
「いえ、では、私たちは外にいます」
 後ろから様子を見守っていた弘栄の言葉に頷く。
「翔平さん、行きますよ」
 どこか泣きそうな表情で立ち尽くす翔平の腕を引き、弘栄は出て行った。
 
 部屋の中に、廊下から聞こえる今の場面に場違いな軽快なリズムのJ‐POPが流れ込んでくる。
 珠恵の呼吸は、確かにさっきまでより落ち着いてきていた。頬に残る涙の跡を拭いながら、風太は、自分の気持をもう誤魔化しきれなくなっていることに気が付いていた。
 涙で湿った頬を撫で下ろした指先が、躊躇いながら、薄く色を取り戻した唇に触れる。自分で自分の行動に驚いて、風太は思わず手を引き戻した。
「り……わさ……」
 呟くような声が聞こえ、珠恵が起きていたのかとギョッとする。
「……どうした?」
 静かな問い掛けに答えることのない珠恵の呼吸が、さっきよりも深くなっていることから、無意識に風太を呼んだのだと力が抜けて苦笑いした。
 その時、目の前の唇がほんの僅かに動いた。
「…………」
 殆ど吐息でしかないものでも、珠恵が口にしたそれがどんな言葉だったのか、風太にはわかった。思わず思考が停止し、瞳を閉じたままの珠恵を凝視する。けれど、彼女が起きているのかそうでないのかは、わからなかった。
 珠恵から目を逸らして、髪を掻き上げ、両手で頭を覆いながら顔を伏せる。漏れそうになる重い溜息を飲み込んだ胸の内側に、苦いものが溜まり、吐き出せないことが苦しくなる。

 さっきの男が、珠恵に触れているのを目にしたとき脳裏に浮かんだのは、殺意にも似た怒りと、こいつに触れるなという強い感情だった。
 もしも珠恵の無事を優先しなくていいのなら、あそこにいた奴らを全員病院送りにするぐらいのことはしていただろう。彼女に最悪の事態が起こっていたら、それこそ、きっと病院に送るどころの話では済まなかった。
 好きにしろ、と言ったくせに、見ないようにしていた心の底では、翔平が珠恵をそういう目で見るのも、触れることも我慢ならなかった。
 珠恵が、自分よりも翔平に気を許しているのではないかと思うと、確かに面白くはなかったのだ。
 本音を言えばさっきの弘栄にさえ、触れさせたくは無かった。
 髪をクシャリと握り締め、苦い息を吐き出す。
 わかっていた。
 珠恵は、普通の家庭で、きっと普通以上に真面目に生きてきた人だ。背中に墨を背負っているような、ロクでもない過去を持つ男が、手を出していい人じゃない。今も恐らく珠恵がいなければ、彼女が止めなければ、あの男に、躊躇なく傷を負わせていただろう。
 そんな男が、彼女に相応しい訳がない。それにきっと自分たちに関わらなければ、彼女がこんな目に合うこともなかったのだ。
 行き場のない気持ちを溜息に乗せて吐き出し、風太は、静かに目を閉じている珠恵を見つめた。

 珠恵が口にしたのは確かに。
 好きです――という言葉だった。

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