愛華の答えを聞くと同時に、ドアから飛び出した。母家の玄関の扉を叩きつけるように開けて居間へと戻り、車のキーを手にする風太を、皆が呆然と見ている。
「風太、あんたいったい」
「車、使います」
キーを手に部屋を出ようとしたところで、大声で翔平を呼びつけた。風呂に入ろうとしていたところを、有無をいわさず連れ出す。
「なん……ちょっ、風太さん、何っすかこれ」
訳もわからず運転席に押し込まれた翔平には答えず助手席に回り込むと、風太は愛華に確かめた場所を告げて、そこへ急げと怒鳴りつけた。
ただならぬ空気を感じているのだろう、不満そうな顔をしながらも、翔平はいつもより車の速度を上げた。始めこそブツブツと言っていたが、恐らく今の風太には声を掛けることも憚られるようで、チラチラと時折横目で視線だけを向けてくる。
珠恵に起こりうる最悪の事態を想像すると、体中の血が逆流しそうになる。必死で走って帰ったと言った愛華は、それでも珠恵と離れたのが十五分前だったのか三十分以上前なのかももうかわからないとひどく混乱していた。問い詰めている時間も惜しく、その場に愛華を残し出てきた。
風太がいくらこの町に馴染んでいるからといって、全てを熟知している訳ではない。冷静になれと何度も自分に言い聞かせる。焦ってばかりで無駄に時間を食っている余裕はなかった。
携帯を取り出すと、着信履歴に愛華の番号が残っていた。もっと早くこれに気が付いていればと一瞬悔やんだが、今はそんなことを考えている場合ではない。
まずは珠恵に電話を掛けてみたが、呼び出し音が数回鳴って留守電に繋がる。
舌打ちをすると、すぐに次の番号を表示させた。なかなか繋がらないコール音に苛立ちが込み上げる。十数回鳴ってようやく通話が繋がった。
「……誰だ?」
警戒した声が耳に届く。
「お前に刺された男だ」
電話の向こうの相手と、運転席の翔平が息を呑むのがわかった。
「……何で」
「何でもいい。てめえの連れのカラコン入れた蛇みたいな目した奴」
「なに、わけわかんねえ」
「黙って聞いてろ。そいつがつるんで女引っ掛けてる連中、多分大学生だ。知ってるか」
「何でてめえに言わなきゃ」
「殺すぞ」
「風太、さん?」
ハンドルを握る翔平が、ギョッとしたように顔を向けてくる。拳を叩きつけたい衝動を堪え、手を強く握り締めた。
「はあっ? オッサン何言って、だいたい何でこのケーバン……あん時か?」
「んなのどうでもいい、てめえに貸しがあんの忘れてねえな。言え。でないと……今そいつらが連れてる女に何かあったら、てめえも殺す。嘘じゃねえぞ……言え、ケント」
電話に向かって恫喝する。尋常でない空気を感じたのか、しばらく黙っていたケントが息を吐くように答えを口にした。
「あいつの従兄が、甲西大学に行ってて、そこの、イベントサークルの奴らとつるんで、時々女ひっかけてるって」
「使ってる場所は」
「は? 知るかよ」
「場所は」
「……どっかの……カラオケボックス、とか言ってたっけな」
「どこの」
「だからどっかのだって、マジ知らねえっつってんだろ、何なんだよ」
「名前は」
「は?」
「そいつの名前」
「……ヒロム」
「わかった」
「もういいか」
「ケント」
「……んだよ」
「今すぐそのてめえの連れに連絡しろ。女に手え出したら、ハラワタ引きずり出してやるって言っとけ」
「女って何? オッサンの女?」
「いいな」
「え、あっ、おい、ちょっとま」
ケントとの通話を切るとすぐに、別の番号を呼び出す。
「風太さん女って何? 何があったんだよ」
不安そうに問い掛ける翔平には答えず、直ぐに繋がった電話の相手に意識を集中した。
「あらあ風ちゃん、めずらしいわね。お花見以来じゃない?」
「すいません突然。ちょっと頼みたいことが」
「んーどうしよっかしら。風ちゃん最近全然相手してくんないし」
だみ声でオネエ言葉を使う通話相手の小言は無視して、風太は話を続けた。電話を掛けた相手はゲイバーのママ、ターニャだった。
「最近甲西大のイベントサークルの学生が女連れ込むのに使ってる店、多分カラオケ、直ぐに調べて貰えませんか」
「なぁに、何かあったの?」
「……頼みます、武四郎さん」
ターニャという源氏名でなく本名を口にした風太の声色に何かを感じたのか、一つ溜息を吐いたあと、その口調が変わった。
「ただイベントサークルだけじゃあな。他に何かねえのか」
「時々、金髪にシルバーのカラコン入れた高校生が混じってる」
「ちょっと待ってろ」
早口で答えが返ってきて、通話がいったん途切れる。
「風太さんっ」
手のひらに掻いた汗を拭いながら、小さく息を吐き出す。
心は女だが生物学的には男であるターニャは、駅裏のあの一帯で広く顔が利く。いわゆる裏の世界とも繋がりがあり、今では実質あの辺りを仕切っているとも噂される彼――彼女のことを、ここらで夜の仕事をする人間なら、知らない者は殆どいない。
大きな体躯と厳つい顔に、施された化粧がアンバランスなその人物に胸の内で縋りながら、風太は目を閉じて深く息を吐き出した。本当はこういうことで利用すべきではないその人が、けれどここいらの夜の街の事情には最も精通している。時間をかけて店を探している余裕などない今は、そこに頼るしか術がなかった。
アクセルを緩めることなく目的地に車を走らせながら、翔平が焦ったような声を上げる。
「なあ、女って」
「福原さん、だ」
「えっ」
「愛華の代わりに、多分そいつらに連れてかれたって」
「は……何それ、多分って、何で珠ちゃんが」
急ブレーキを踏んで止まった車の反動で、身体が一瞬前に振られる。
「知るかっ、いいから急げ」
青ざめた翔平を怒鳴りつけると、車がまたすぐに音を立てて滑り出す。程なくして目的地に到着すると、まだ停車していない車から飛び出した風太の後に続いて、翔平が車を路肩に置いてついて来た。
愛華が珠恵と別れたというゲームセンターの裏手に差し掛かった辺りで、風太の携帯が鳴った。ワンコールも待たずに、通話ボタンを押す。
「どうでしたか」
飛びつくような問いかけに返ってきた答えに、僅かだが力が抜ける。
「ええ、はい……そのビル、三階……カオス。……助かります……武四郎さん、いやターニャさん……恩に着ます」
通話を終えると短い息を一つ吐き、走り出す。翔平に説明をしている間も惜しかった。
飲み屋と怪しげな風俗の看板がひしめく入り組んだ路地裏を進んだ場所に、目的のビルはあった。見上げると電飾で『カラオBOX Chaos』と書かれた看板が、古びたビルの外壁に掲げられている。
エレベーターを使わず階段を駆け上がり、自動ドアから中へと入ると、すぐ目の前にあるカウンターの中にいたやる気のなさそうな若い男が顔を上げた。
「っらっしゃいっせー」
適当な挨拶で客を迎えた店員は、流行りの曲が流れる店内に息を切らせ駆け込んできた男二人が、その勢いのまま近寄ってくるのに、気圧されたような表情をうかべている。
カウンターに手を付いた風太は、その男の方へと身を寄せた。
「女連れ込んだ甲西大の奴ら、どの部屋だ」
「は? ……あんた何」
「いつも使ってんだろ。どこだ」
「ちょっと何言ってんのか」
明らかに目が泳いでいる男に手を伸ばして、襟首をつかみ強い力で引き寄せた。
「言え。業停食らいてえのか」
カウンターの奥から顔を覗かせた他の店員が、ギョッとしたように奥に逃げ込んだ。
「はな、せよ」
苦し気に顔を歪めた男の目がもう泣きそうになっている。
「じゅう……はち」
「どっちだ」
力を緩めると、震える指先が廊下の奥を曲がれと示す。頼りない男の身体を放り出し、店の奥へと足を進めながら振り返り、後ろをついて来ようとする翔平に、ここで待つように告げた。
「何かあったら、サツに電話しろ。それから出て来た奴、全部写真に撮れ」
険しい顔をしたまま頷いた翔平を置いて、急ぎ廊下を奥に向かう。
どこかのドアが開いたらしく、室内の音楽が漏れ出るワアンとした音が、廊下の突き当たりを曲がったあたり、さきほどの店員が指さした方向から聞こえた。廊下をそちら側に折れると、金髪の男が携帯を手に、壁に凭れ俯き加減で誰かと大声で話している。
「はあっ? 聞こえねえって。何、ケント、お前も来てえの? いまよ、ジャンケンで順番……え? だから何だ……ヤクザ? ……お前何言って」
「ヒロム」
通話中に名前を呼ばれ顔を上げた男の喉元に、腕を当てて一気に壁に押し付けた。反動で携帯を落としたヒロムが、見開いた銀色の瞳を眇めて、大きく舌打ちをする。
「……ってえ……な」
口を開き掛けた男の首根っこを掴んだまま、風太は、すぐそばにあるボックスのドアを開き中へと放り込んだ。テーブルの上の物をなぎ倒して床に転がり落ちたヒロムと、突然現れた見知らぬ男の姿に、部屋の中にいたメンバーが固まったように動きを止めている。
「……ぃ…ってえ…」
「――何、だ、あんた」
「おいっ、ヒロム」
誰も歌わないカラオケが響く室内にいたのは、ヒロムを除く五人。学生というよりどちらかといえば水商売をしているといった方がいいような風貌の男達と、見た目だけなら恐らく女を警戒させない整った容姿の男二人――恐らく愛華に最初に声を掛けた二人連れだろう。皆、咄嗟に何があったのか飲み込めない様子で呆然としている。
一瞬の後、中の一人が慌てたようにヒロムに手を差し伸べた。
「ちょっと、あんた何だよ」
他の者も我に返り、恐らくリーダー格の男が風太の肩に手を掛けようとしたそのとき――。
「やめとけっ」
支えられて口元を拭いながら上半身をようやく起こしたヒロムが、痛みに顔を歪めながら声を出した。
「そいつ……多分ヤクザだ」
ギョッとしたように、伸ばした手を引っ込めた男が後ずさる。
「……え、なんっ……やべぇ」
呟きながら、慌てて部屋から逃げ出そうとする者もいる。
そいつらには構わず部屋の奥へと視線を向けると、一番奥まったところで屈み込んでいた男が、青ざめた顔で立ち上がった。その向こうに、ソファの背に凭れ掛かる珠恵の姿が目に入る。足を近付けると、男の身体が小さく揺らいだ。
幸い、服が乱れている様子はないようだった。薄っすらと開いた珠恵の瞳が、風太を認めて少し大きくなり、安堵したように身体がソファに沈む。
「――どけ」
静かだが、それだけに空気を凍らせるような怒りを孕む風太の声に、男の身体が後ずさりする。その手をまだ、珠恵の肩に置いたまま。
「……手え離せ」
何を言われているかわからないのか、固まったように動かないその男に近付いた。
「その女に触んな」