夜間の学校が始まり、毎日が思った以上に忙しい。あれから、珠恵とは一度も顔を合わせていない。
花見の日から二週間程経った頃、風太は一度だけ休みの日に図書館に足を運んでみた。けれどその日、珠恵の姿は見当たらず、以前彼女の名前を教えてくれた職員が、どこか残念そうな口調で今日は休みなのだと教えてくれた。
そのことにホッとしているのか、そうでないのか、自分でも捉え切れない感情が浮かんだ。本人に出勤予定を聞こうと思えば、簡単に連絡だってできたのだ。それをしなかったのは、どこかで、彼女に会いに来たのではないという言い訳を自分に用意していたかったからなのかもしれない。
「多分、家にいると思いますけど」
「え?」
「福原さん」
尋ねた訳でもないのに、珠恵が休みだと言ったその職員は、口を噤んだ風太にそう続けた。珠恵とは対照的に物怖じしないタイプの真那というこの職員が、ここでは彼女の唯一の後輩なのだとは、勉強を教わっている間に聞いたことがあった。
「あ、いや。用があったわけじゃねえから」
「そう、ですか?」
真那の口調は、ややもすれば、不満そうなものにさえ聞こえる。
「あの、さ……」
「はい?」
長い睫をパチパチとさせて、こちらの口にすることを待ち構えている真那に、風太はしばらく躊躇ってから聞いてみた。
「何てったか、昔の人の歌で、桜の下で死にたい……ってのが載ってる本、わかるか」
真那も目を丸くしているが、そんなことを尋ねる自分自身にも驚いた。
「えっと、歌って、歌手とかの名前? わかります?」
「歌手ってのか、昔のそういう俳句とかいうの」
「あ、そっちですか。それってあれですよね。願わくば、花の下にて春死なん――」
「ああそう、それだ。結構有名なのか、それ?」
「まあ、有名っていえば有名ですね。教科書なんかにも載ってるくらいだし。ええと、この歌が載ってる本を探してるんですか」
興味深そうな目を風太に向けてくる真那に頷いた。
「うーん、確か西行でしたっけ、この歌。山家集だったかなあ。あーそうですね。昔の歌集の本で仮名遣いが古いですけど、あっ、こっちとかどうだろ」
画面を操作しながら物色し始めた真那に、しばらく考えてから、その歌だけを紙に書いて貰えないかと頼んでみた。
「構いませんよ」
渡したメモ帳に歌を書きつけたものを風太に差し出しながら、真那は、上目遣いでこちらを見つめている。
「それ、どうするんですか?」
「いや、ちょっと教えて貰って。いい歌だって思ったからな」
「へえ……あ、もしかして福原さんですか?」
「ああ」
頷いて礼を言いその場を立ち去ろうとすると、今度こそハッキリと不満そうな顔をした真那が頬を軽く膨らませた。
「なら、私じゃなく、福原さん本人に聞けばいいのに。きっと、喜びますよ」
桜の花と月、そしてこの歌を静かに口にした珠恵の声が、脳裏に浮かんだ。
「まあ……そう、だな」
苦笑いを浮かべ、もう一度礼を口にしてから、「じゃあ」と図書館を後にした。
何度も通った公園を横切りながら、あの場所で珠恵と話すようになった頃のことを、なぜだか思い出していた。
これからは、ここへ来る機会も少なくなるだろう。試験が終わってしまえば、珠恵に会う理由はもうなかった。
喜世子だけでなく兄弟子達も、珠恵を夕飯に呼べとしきりに風太をせっつく。さすがにもう薄々は喜世子や真那が、いったい何を期待しているのかぐらい気が付いている。だからといって、それに乗っかるつもりはなかった。
この時はまだ無意識のうちにどこかで、このままなんとなく珠恵との縁が切れていくのが、きっと自然な流れなのだと、自分を納得させようとしていた。
四月もそろそろ終わりを迎えようとするその日は、朝から好天に恵まれ、仕事をしていると、すぐに汗ばむような陽気だった。
「風太さん」
現場で資材の搬入を行う風太の作業を手伝っていた翔平が、後ろから声を掛けて来た。
「何だ」
担いだ木材を建築途中の家に運び込みながら、足を止めずに返事をする。腕の傷跡はもう普段は何も感じないが、雨の日には、時々引き攣れるような微かな痛みを残していた。
「今日、珠ちゃん夕飯食べに来るって、おかみさんが今朝」
「――ああ」
いつまでたっても連絡を取らない風太にしびれを切らしたのか、喜世子が珠恵に直接誘いの電話を入れたらしいと聞いたのは、今朝のことだった。
「どうします? 学校、休むか遅れてくか」
「なんでだ」
「だからほら、今日は珠ちゃんが」
風太は、肩に担いだ木材を現場に下ろして振り返った。
「おかみさんが呼んだんだろ」
「まあ、そうですけど」
「だったら、おかみさんがいりゃいいだろ」
「そりゃ……でも、珠ちゃんだって」
「学校さぼんの、喜ばねえだろうが」
「けど、ちょっとくらい。何か……風太さん冷たくないっすか」
翔平が不満そうに呟くのには、何も答えなかった。
「それって」
それ、と口にした翔平の視線を辿ると、作業着のズボンのベルトループに下げているお守りを見つめている。
「珠ちゃんに貰ったやつっすよね」
「……そうだな」
どこか釈然としない表情でそこを見たまま黙り込んでしまった翔平に、しびれを切らし作業に戻ろうとして――。
「本当に会わないつもりっすか」
後ろから聞こえた問い掛けに、再び足を止めた。
「時間的に難しいだろ」
「じゃあ、また別の日に来てもらうとか」
「何のために」
「何のためって……」
「そうまでして会う理由もねえだろ」
「理由って、そんなのいくらでも、ほら、またこれからも勉強見てもらうとか」
「馬鹿かお前。福原さんには仕事があるだろが。この前だって、あれは怪我の責任だっつって自分の休み全部潰して無理して俺らに付き合ってくれたんだぞ。そう無理ばかりさせられるか」
「じゃあ、たまには飯食いに行くとか」
ムキになっている翔平から顔を逸らした風太は、邪魔だというように肩を押しやり足を進めた。
「ほんとは……気付いてるんでしょ、いくら何でも」
「口動かしてねえで、仕事しろ」
「珠ちゃん、あれ、ただの親切とか責任とかだけじゃないって」
後ろから、工具を持った翔平が追いかけてくる。
「俺でもわかるくらいなんだから、風太さんみたいに慣れた人が気付かないはず」
「翔平」
突然立ち止まった風太に、ぶつかりそうになった翔平が、慌てて足を止めた。
――森川さん
風太を見上げる珠恵の、綺麗な目と赤く染まる耳を思い出して、小さく舌を打つ。
「何を言ってんのかわからねえな」
翔平が、目を小さく見開き、やがて少し鋭い視線を風太に向けた。
「本当にわかってないのか、それとも……そういうつもりないのか、どっちっすか」
「お前さっきからしつこいぞ」
「マジで風太さん、そういうつもりないんだったら、俺が――」
風太を見上げる翔平の目が、僅かに泳ぐ。
「顔、怖いっすよ」
「元々こんな顔だ」
「俺がいっても……いいんっすか」
どこか挑発的な表情を浮かべた翔平に、苛立ちが込み上げる。翔平がどうしようが、それを受け入れるかどうかを決めるのは珠恵で、風太が預かり知ることではない。なのに、胸がムカムカする。
「……俺に聞くな」
「いいんっすか」
「好きにすりゃいいだろ」
不機嫌さを隠せていない声でそう告げると、まだ何か言いたげな翔平から視線を逸らして、もう振り向きもせずに現場へと戻った。
その日の夕方、風太は仕事を終えて家に帰ると、急いでシャワーで汗を流し、学校に行く前にいつもの通り軽く夕飯を掻きこんでいた。
学校では授業が始まる前に給食の時間を設けていたが、それには間に合わないことが多いため、風太や翔平は自宅で軽く夕食を取ってから登校していた。
「おかしいね……もう、連絡があってもいい頃なのに」
電話を片手にキッチンから出てきた喜世子が首を傾げている。風太と入れ替わりにちょうど風呂から出てきた竜彦が「何がですか」と問い掛けた。
「いや、珠ちゃん。駅に着いたら連絡くれることになってんだけど」
「仕事、遅くなってんじゃないっすか」
「今日は休みなんだって。だから仕事のある日より早く行けるって言ってたんだけど」
「そろそろ、連絡来るころでしょ。ちょっと待ってりゃ風太達も会えんだろ」
「そうそう、早く来れるっていうから、あんた達とも少し顔を合わせられるねって言ったんだけどさ。学校へ行く時間も伝えたんだけど」
心配そうな顔をして、風太へと視線を向けてくる喜世子から、目を逸らして箸を置き、ご馳走様と口にした。
「俺はそろそろ行くんで、よろしく言っといて下さい」
「待ってないの?」
「学校、あるんで」
微かに眉根を寄せた喜世子が、少し苦笑いした。
「そりゃまあ、私が珠ちゃんに会いたいから呼んだんだけどね」
「会ってかねえのか?」
食卓に腰を下ろした竜彦までが、風太に顔を向けた。
「風太さんはいいみたいっすよ。俺は待ってますけど」
風呂場に向かおうとしていた翔平が立ち止まり、どこか突っかかるような言い方をするのに、竜彦が目を丸くして翔平と風太を交互に見ている。
食卓に手をついて立ち上がると、「じゃ、行ってきます」と、誰にともなく口にして、返事も聞かずに母家を後にした。
なぜこんなにもムキになっているのか。自分でも持て余すほどずっと脳裏を占めているモヤモヤの原因に、本当はもう前とは違って気付いていた。だからといって、それをはっきりと認めることもできずに、ただ苛立ちだけが募る。
玄関の扉を閉める手に僅かに力が入る。外へ出て深く息を吐き出すと、風太は学校へ向かう支度をするため、足早に倉庫横の階段を上った。
外側のドアを開けると、そこに、膝を抱えた愛華が座り込んでいた。
「愛華か……びっくりさせんな」
風太以上に驚いたように目を見開いた愛華が、すぐに視線を逸らす。少し顔色が悪い気がして、手を伸ばして肩に触れた。
「どうした、具合でも」
「ぁたし……じゃない」
風太の方を見もせずに、手を振り払って首を横に振る愛華の様子は、明らかにおかしかった。
「なんだ? 愛華、どうかしたのか」
「……けって……から……」
「何言ってんだ、お前」
風太が無理やり上げさせた顔を、すぐに逸らした愛華の唇が震えた。
「さっきからおかしいぞ、お前」
「助けてくれってっ、私が頼んだんじゃないっ」
突然大声を上げた愛華の目から涙が流れ落ちた。
「駅前で声、掛けられて……大学生くらいの、ふたり連れで……結構いい、感じだったし、おごってもらってバイバイすればいっかって……だから、っいてったら……そしたらなんか仲間みたいのいて……ちょっとヤバそうな感じで……だから私、もう帰るって言ったら、いまさら、それはないっしょってっ……腕引っ張って、引きとめられて」
「何かされたのか」
しゃがみ込んでいた愛華の身体を引き上げて立たせる。いつも緩く着ている制服が、特段乱れている様子はないことにホッとしたのも束の間、大きく首を横に振った愛華が、泣き濡れた顔を風太に向けた。
「あの人が……」
「あの人?」
「揉めてる所に……近付いて来て」
「……誰がだ」
口を噤んだ愛華の瞳が、縋り付くように微かに揺れる。
――おかしいね。連絡があってもいい頃なのに
――助けてくれって、私が頼んだんじゃない
心臓が、ドクッと脈打つのがわかった。半信半疑のまま、愛華を見下ろす。
「……福原さん、か?」
愛華の瞳に涙が膨れ上がり、返事もないまま目が逸らされた。
「愛華、そうなのか? 福原さんが、通りかかったのか? な、愛華、ちゃんと話せ」
小さく頷いた愛華の肩を掴んで、顔を上げさせた。
「あの人っ……声、掛けてきて、そしたら、中の一人があの人のこと、知ってたみたいで」
「知ってた、ってどういうことだ」
「わかんないっ。かわりに……オネーサンが遊んでくれんなら、私を帰してもいいって」
愛華の肩を掴んで、身体を強く揺さぶる。
「どこに連れて行った」
「だから、んなの、わかんないって」
「愛華っ」
「わかんない……けど……何かいつもの店がとか言って……あの人、大丈夫って、私、いいって言ったのにっ……だって、震えてた……ねぇっ風太どうしよ……だって行けって」
話を聞きながら焦りばかりが込み上げる。お前だけ逃げて来たのか、とは言えない。二人一緒に連れて行かれる方が最悪だ。
「何か、他に何かないのか、そいつら特定できるような」
「知ってるって、言ってた奴……多分高校生……金髪で……あの人のこと図書館のオネーサンって……シルバーのカラコン入れた、蛇みたいな目してる……」
――嫌がるの無理矢理とか、よくね?
あの時の学生の話が脳裏に浮かび、風太は思い切り舌打ちをした。
「いつ、どこでそいつらと別れた」