玄関の扉を閉めて靴を脱ぎながら、自分の中にさっきまでの余韻が残っていて、心はまだ桜の元を彷徨っているようだった。
「珠恵?」
出迎えた母が珠恵の荷物を手に取ってから初めて、我に返り顔を上げた。
「あ……ただいま」
「お帰り、なさい」
何か言いたげに珠恵を見つめた母は、やがてその目を少し逸らしながら、できるだけ穏やかに、と心掛けたような口調で声を掛けてきた。
「遅くならないようにって、言ったでしょ。こんな時間まで、ずっとお花見だったの?」
「あ……うん、一緒に行った人の知り合いとか、今日、勤務だった人も仕事が終わってから来たりして、夜までの予定だったから」
珠恵の返事に「そう」と呟いたまま、玄関に飾られた花の萎れかけた花びらを摘まんでいる母の表情は、よく見覚えがあるものだ。
「ごめんなさい、でも、九時頃にはなるってちゃんと」
遅く、と言ったところで、まだ九時半を少し回ったところだった。
「ええ、ただ、お父さんが……」
「何か、言ってたの?」
足元に視線を落とすと、綺麗に磨かれた父の靴が揃えて置かれている。午後から仕事の絡みで会食があると言っていた父は、今日はやけに身なりに神経を尖らせていて、朝から母にあれこれと指示しているのを目にしていた。
――今日は仕事なのか
新聞から目を離すこともなく問いかけるのに、職場の人と花見に行く予定だと珠恵が答えると、顔を上げた父の眉根が寄せられた。父はたいして珠恵の仕事に関心を持っている訳ではない。だから、図書館の開館日に、職場の人と花見に行くことの不自然さを追求されることはなくて、それだけは少しホッとした。
言い訳は考えていたが、いくつもの嘘を重ねて、父を騙し通せる自信はなかった。
それでも、眉根を寄せた父が続けた言葉に、胃の辺りをギュッと握られたような感覚を覚えた。
――フラフラと遊び歩いてばかりいないで、休みの日くらい、家のことを手伝うとか他にやることがあるだろう。
嘘をついていることに後ろめたさがあるだけに、すぐに視線を俯けてしまう。
「遊ぶ」という行為を、父は昔から嫌っていた。それは父の人生にとって意味あることではなく、時間を無駄に浪費するだけに過ぎないものだった。
――ごめん、なさい。でも、約束したから。次のお休みは……家にいます。
溜め息とともに再び新聞へと目を落とした父から顔を逸らすと、黙ってその遣り取りを聞いていた母と目が合った。
――遅くならないうちに、帰って来なさいね。
玄関まで珠恵を見送ってそう口にした母には、曖昧に頷いて。けれど帰りは多分九時過ぎになってしまうと告げてから、家を出たのだった。
「珠恵に、話があるって。ずっとお待ちなの」
「話、って?」
「それ……は、お父さんから、直接話すようだから」
言葉を濁す母は、話の内容を知っているようだった。さっきからどこか気まずそうに珠恵を見ている母の様子から、きっとあまりよくない話をされるのだとわかり、気持ちが更に重くなる。また今朝と同じようなことを言われるのだろうか。
さっきまで身体に纏わりついていた花に包まれるような空気は、もう消えてしまっていた。
「明日じゃ、ダメなのかな……」
駄目だとわかっていながら、呟くように口にする。
「珠恵」
困った顔をした母を見て、小さく首を横に振り笑みを浮かべた。
「何でもない。……わかりました、ちょっと、手を洗ってくる」
「書斎にいらっしゃるから」
背にかけられた母の声に、立ち止まり、振り返らずに頷いた。
ノックには反応がなく、そっと書斎の扉を開けると、父は誰かと電話で話をしている最中だった。家であまり聞くことのない機嫌がよさそうな声に少し驚きながら、この様子なら、遅くなったことを強く注意される訳ではないかもしれないと、僅かに緊張が緩む。
出直そうかと迷っていると、父の視線が、中に入れとの意思を伝えてきた。
「いえ、とんでもありません。こちらこそ、このようないいお話を頂けて。いや……そう言って頂くにはまだ本当に足りないところばかりの娘で……ええ。はい……また。それでは今後とも――ええ、ぜひ今度」
電話の相手が誰なのかもわからないまま、自分の名前が出たことに、胸の内がざわざわとする。話が終わるのを落ち着かない気持ちで待ちながら、扉のそばに立っていた。
「――遅かったな」
「ごめん、なさい」
「座りなさい」
やはり、父の様子はいつもとは少し違っていた。今日着ていたスーツが綺麗にハンガーに吊るされ部屋の隅に掛かっているのを見ながら、おずおずとソファに腰を下ろした。
机の引き出しを開いた父が、中から取り出した大きな封筒を手に、珠恵の前の一人掛けのソファに腰を下ろす。背筋を真っ直ぐに伸ばした父が、身体の力を抜いて寛いだところを、珠恵は一度も目にしたことがなかった。
「お前に、大事な話がある」
「……はい」
父が机の上に置いた白い封筒を見ながら、鼓動が早くなるのを感じていた。
「見てみなさい」
中から取り出したものを珠恵に差し出しながら、父がそう口にした。身体が固まったように身動きできずにいると、少し苛立ったような声で「珠恵」と、もう一度促された。
父が手にしたものを受け取りながら、恐らくそれが意味するであろうことに、内心ひどく狼狽えていた。白く分厚い表紙を捲ると、半ば予想したとおりそれは写真だった。
涼しげな目をした、いかにもエリート然とした男性の写真から目を上げて、問うように父を見つめる。
「これ……」
「お前の、見合いの相手だ」
「お、お見合い、って」
「門倉忍君といって、中央官庁に勤める大変優秀な若者だ。少し先になるが来月の11日、予定をしておきなさい」
「待って、下さい、私」
「これ以上はないようないいお話だ。彼はまだ三十歳で、その若さで異例ともいえる出世を遂げているが、経歴もまた異例なものだ。医学部出身で医師免許も持っているらしいがどちらの試験にも受かっていながら、国政に関わりたいと今の道を選んだようでね。家柄も将来性も申し分のない青年だ。今電話で話していたのは、彼の叔父の門倉議員でね。ゆくゆくは自分の地盤を忍君に継がせることも考えているらしい。くれぐれも宜しくと、そう仰っていた」
珠恵の言葉を呑み込むように話を続ける父の表情は、いつも家で見せている苛立ったようなものでなく、どこか嬉々としてさえ見える。
メガバンクといわれる大手の銀行に勤めその中で順調に出世を遂げている父は、昔からエリート意識が非常に強い人だった。自分のやり方に従っていれば間違いがない――それが家族に対する父の考え方で、この家の中では、父が唯一絶対の存在だった。
父の口から語られる話は、どこか遠くの国の人のことのようだった。とても珠恵と並んで生きていく人の話をしているとは思えない。想像すらしていなかった話についていけない思考は、さっきからずっと止まったままだった。
「お父さん、あの……」
「何だ」
「わ、私は、まだ結婚なんて」
「まだ? なら、いつならいいというんだ。こういうのは、縁のあるうちに決めておくに限る。お母さんが私と一緒になったのもちょうどお前くらいの年の頃だ。それほど早いこともあるまい。だいたい、お前のようなこれといった取り柄もない平凡な娘に、あちらから是非にと言われるようなこんないいお話は、そうあることではないだろう。とにかく彼は忙しい青年だ。その日で構わないと返事をしておいたから、そのつもりでいなさい」
「でもっ――」
息を振り絞るように出した珠恵の声は、それ以上繋ぐ言葉を持っていなかった。ただ小さく首を横に振ると、ふと、何かに気が付いたように父が顔を上げた。
「まさかお前、誰か相手がいるんじゃないだろうな」
「え……」
一瞬、脳裏に浮かんだ人の顔に、動揺してしまう。
「珠恵、お前」
咄嗟に首を横に振って、それを否定した。
「そ、相手なんて……いません。でも」
「本当だろうな。あちらの顔に泥を塗るようなことがあっては困る。まさかお前に限って下らない男とどうにかなることもないだろうが」
――下らない男
森川のことを、そんな風に思ってなどいない。けれど、今日聞いた彼の過去やその身体に背負っているもの。父にとってはきっと、そういう人物と珠恵が知り合いだということさえ想像すらつかないことで、到底受け入れられることではないだろう。
何より、森川への気持ちは、珠恵の一方的な、どうにもなりようがない片思いだった。森川が珠恵をそういう対象として見ていないことも、わかっている。
「いないんだな」
「……はい」
「ならいい。これからもおかしな男に近付かないように、気をつけなさい。……珠恵」
どこか諭すように名前を呼んだ父へと、顔を向けた。
「私は、お前のためを思って言っている。私の言うとおりにすればいい。そうすれば何もかも間違いない。わかったな」
頷くこともできず、だからといって、父が決定事項だと告げる話を拒絶することもできずに、ただ黙ってもう一度写真へと顔を落とした。けれどそこに写っている人の顔など、ほとんど目には映っていなかった。
「来月の11日、忘れずに休みを取っておきなさい」
これで話は終わりだと告げるように、立ち上がった父が、書斎から出て行った。扉が閉まる音が聞こえると同時に、身体から力が抜けて息を吐き出す。
頭の中はまだひどく混乱していて、珠恵はしばらくの間、ただ呆然とソファに腰を下ろしていた。
見合い写真を手にする指が、小さく震える。切れ長の目に薄い唇、鼻筋の通った整った顔立ちの男性。父の言うとおり、きっと、自分などには勿体ない好条件の話なのだろう。
――お前のように、これといった取り柄もない平凡な……
父に言われたことは、珠恵自身もよくわかっていた。これから先、誰かを好きになって、その人と恋をして好きな人と結婚する。そんな未来が、臆病で内気な性格の自分にあるはずがないことも、知っている。
花吹雪の下で、珠恵を見上げて笑みを浮かべた人の顏や声が、頭に浮かんで、胸が痛い。
森川が自分の過去を話して聞かせてくれたことで、距離が縮まったような気がしていても、次に会う約束すら交わしていない。交わす理由もない関係だった。
もう今までのように、雨の日に森川が図書館にやってくることも、この先はなくなるのだろう。
どんなことでもいい。何か理由があれば、森川を訪ねることもできる。けれど、今の珠恵には、それすら何ひとつなかった。
会うことのない時間が少しずつ重なって、いつか森川への気持ちも、過去のものになっていくのだろうか。いつか、この数か月のことを思い出して、恋をしていた自分を懐かしく思うだけの、ただの思い出になっていくのだろうか。
想いが通じようと通じまいと、自分の気持は自分のものでしかないはずだったのに。好きな人がいる――と、そう父にハッキリと言うことができなかった。
それは、自分の中のどこかに、森川を異質なもののように捉える気持ちがあるからではないのか。そう思い至ると、珠恵は自ら自分の気持ちを穢してしまったような気がして、とてもショックだった。
家に帰るまではずっと、どこか夢を見ているような感覚に包まれていた。けれど、叩き起こされるように夢から覚めた今、為す術もなく、ただ呆然とすることしかできずにいる。
胸の内側に溜まった息苦しさを吐き出すこともままならないまま、珠恵は手にしていた見合い写真を閉じ、それを置いて父の書斎を後にした。
見合いの話があったその翌週末、もう桜は、半分以上花を散らしてしまっていた。
仕事から家に帰ると、玄関先に父のものとは違うスニーカーが揃えられているのが目に入る。平日の今日は、父の靴はまだそこにはなかった。
「お帰り」
「まあ君、帰って来てたんだ」
「うん、ちょっと鞄と荷物取りにね」
リビングのソファに腰かけていた昌也の足元に、大きめのリュックサックが置かれている。手を洗ってからキッチンへと向かい、食事の支度を手伝いながら、弟に声を掛けた。
「どこかに、行くの?」
「ああ、うん。関西でさ、発掘調査があって。うちの教授が参加してるから、それ手伝いに行くんだ」
「へえ。そうなんだ」
「もしかしたらさ……凄い発見になるかもしれないって、結構皆興奮してて。っていうのもさ――」
生き生きとした表情で語り始める昌也に、聞いている珠恵の顔にも笑みが浮かぶ。最近沈みがちだった気持ちが、少しだけ明るくなるのがわかる。
父が家にいる時には決して見ることのない、好きなものについて語る弟の自然な笑顔に、珠恵も気持が温かくなった。
父が帰宅する前にと、玄関へと向かった昌也を珠恵も見送りに出ると「ちょっと」と外へ呼ばれた。怪訝な顔をした母を置いて家の外に出ていくと、門を出たところで立ち止まった弟が、じっと珠恵と見つめた。
「何? まあ君」
「あの、さ。見合いするって、本当?」
「――え?」
「いや、さっきお母さんからそんなこと聞いて」
「あ……まだ、わからないけど。……多分」
わからないと言いながら、父の中では既定事実であるこの話を、きっぱりと断ることはできずにいた。日が近づけば近づく程、断れなくなることはわかっていながら。
「それって、姉さんしたいの?」
ちらっと玄関を振り向くような素振りをみせてから、昌也が小声で聞いてきた。
「見合い、本当は、気が進まないんじゃないの」
姉の躊躇いを見逃さないように、弟が、難しそうな顔をする。
「俺、言ってやろうか」
慌てて首を横に振った。
「いい、いいから。ちょっと……びっくりしたけど。凄く、あの……私なんかには勿体ないお話みたいで」
「本当にいいの? あの人の言うままで。多分、俺のせいだよね」
息子が――父に言わせれば――挫折し、なんの役にも立たない学問に打ち込んでいることが不満でならない父は、実の息子にエリートコースを歩ませることを断念する代わりに、今度は珠恵を、そういう立場の男に嫁がせようと考えている。
昌也が言わんとするのは、そういったことだろう。
「違う、そんなの、まあ君が気にすることじゃないから」
「いや、俺が駄目だったから、今度は姉さんの結婚相手なんだろ。何かすげえエリートだって。あの人が……好きそうな」
「そんなこと……。それに、本当に嫌だったら、ちゃんと断るから」
「お父さん相手に、姉さんにそんなことができるの」
図星を指されて口を噤む。けれど、珠恵は今自分で口にしたことが、答えなような気がしていた。
――本当に嫌なら、断る
「お見合い、したって。相手が私なんかじゃ物足りなくて、多分断られると思うから」
ね、と納得させるように不満気な弟の目を見つめて笑う。昌也は、何か言いたそうな口を噤んで、肩に掛けたボストンバッグを重そうに抱えなおした。
「……じゃあ」
送り出すように小さく頷いてみせるが、そこから動こうとしない昌也は、珠恵を見つめながら深い溜息を漏らした。
「それ、やめた方がいいよ」
意味が分からず首を傾げた珠恵に、昌也が真っ直ぐな視線を向けた。
「私なんか、っていうの。姉さんの悪い癖だ」
「え……」
真剣な顔をした昌也に、見せていた笑みが強張る。
「そんな風に言うの、多分お父さんのせいだけど」
狼狽えたまま、弟から顔を逸らした。
「俺もそういうとこあるから、わからなくはないけど。でも姉さんは、なんか、じゃないからさ」
慰めるような優しさを含んだ口調に、ただ、小さく首を横に振った。頭上で、多分昌也が苦笑いしたのだろう小さく息を漏らす音が聞こえた。
「本当に嫌なら。俺が言ってやるから」
もう一度首を横に振って、そっと顔を上げる。昌也の目は真剣なもので、そこから伝わる気持ちだけで、胸が詰まる気がした。
だからといって、弟にそんなことを言わせる訳にはいかない。感情的に声を上げるわけでも暴力をふるうわけでもなく、ただ冷たく思えるほど辛辣で、そして冷静な言葉を容赦なく口にする父に逆らうのは、昌也だとて平気なわけではないとわかっていた。
もう今でさえ十分ギクシャクしている二人の関係が、これ以上悪くなることを、珠恵は望んでいなかった。
「まあ……姉さんがそれでいいなら、構わないんだけど」
「……うん。あの、でもありがとう」
「いや。じゃあ俺、行くわ」
「うん。気をつけて、発掘、頑張ってね」
「うん。じゃ」
最後に笑みをみせて弟が背を向けるのを、手を上げて見つめる。その背が、角を曲がる直前に振り返って手を振るのを見届けてから、珠恵は静かに溜息を吐いて頭上を見上げた。
欠け始めの月が、ぼんやりと霞がかっている。
明日の天気予報は、雨だった。