本編《雨月》

第六章 雨とさくら4



 風に煽られて、花吹雪が舞う。いつの間にか満月は薄雲の向こうに隠れ、淡くぼんやりとした光を放っていた。
「今日は――」
 吸い込まれそうな桜の花から目を逸らし、風太はしばらくの間目を閉じて、息と共に言葉を吐き出した。
「安見さんの命日だ」
 隣に腰を下ろして、風太の話を黙って聞いていた珠恵が驚く様子は、目を閉じたままでもわかった。
「俺を親方の元に預けた三年後に……安見さんは死んだ」
 ゆっくりと目を開けて顔を振り向けると、瞬きをする珠恵の瞳が揺れる。
「どう、して」
 躊躇いがちに口を開いた彼女の問いかけに、微かに笑みを浮かべて答えた。
「組同士の抗争で、メッタ刺しにされたらしい。いかにもヤクザっぽい死に方だろ」
 口元を押さえた珠恵の瞳が、やがて悲しげな色を浮かべて伏せられる。
「だから、親方と俺にとっては、今日は……供養の花見だ」
 花見はたいてい、四月の第一土曜日に行われる。その日が安見の命日と重なることは滅多になかったが、親方は花見の日を変えるとは言わなかった。
 毎年、せっかく花見に来ているというのに、こんな風に輪から離れ一人桜を見上げる風太を、事情を知っている者は放っておいてくれる。ただ、何も知らない珠恵をこちらに寄こした喜世子の、思い遣りのような気持ちを、煩わしいとは思わなかった。

 あの日も、今日のように満開の桜が風に煽られ、花びらが舞い散っていた。そして夜からは、花を散らす雨が降り始めていた。
 安見は、風太が嫌いなこの花を、とても気に入っていた。桜が嫌いな日本人なんているのか――と、鬱陶しがる風太を何度もからかった。
 一緒に暮らしている間に、一度だけ無理矢理花見に付き合わされたことがある。誰かと一緒にこの花を見たのは、それが生まれて初めてのことだった。仏頂面で後ろをトボトボとついて来る風太を振り返った安見が、満足そうな笑みを浮かべて、桜を仰ぎ見る。
 ――なあ風太、綺麗だと思わねえか
 花など、ろくに見もしなかった。ほとんど俯きながら歩いていた。綺麗だと、どうしても認めることができなかった。認めてしまえば自分の負けだと、そんな風に思っていた。
 まるで桜の花に誘われたかのように、花と共にその命を散らせた安見。
「さっき……私、とても無神経なことを、言いました。……本当に……すみません」
 掠れた小さな声が耳に届いて、視線を珠恵へと向けた。
「謝らなくていいって、言わなかったか?」
「でも……私」
 俯いた珠恵の髪に、また花びらが引っかかっていた。手を伸ばして、その淡いピンクの花びらをそっと指に挟んで見つめる。
 ――満月の夜に、花の元で死にたい
 珠恵が口にした歌を、思い返す。
「あの人の背中に。この花が咲いてた。俺にも、同じものがある」
 ハッとしたように珠恵が目を見開いた。
 手にした花びらを口の中に含ませると、微かな苦味を感じる。口を閉ざした風太は、あの頃の記憶を辿るように再び目を閉じた。


「夕べ、遅くだそうだ」
 安見が死んだと聞かされた夜、親方はあまり好きではない酒を片手に、赤い目をして風太に分厚い封筒を差し出した。
 ――昨日の夜……
 そういや、雨が降っていたな。そんなことを、ボンヤリと考えていた。夜から降り始めた雨は、花を散らして明け方にはもう上がっていた。
「お前のために、あいつが置いてったものだ」
 手を伸ばして受け取った封筒の中身は、札束だった。
「……なん、だこれ……ふざけてんのか」
「あいつは……」
 封筒を畳に投げつけた風太は、半笑いを浮かべ親方の胸倉を掴んで揺すった。ビクともしない親方は、コップに入った酒を煽り、それを机に叩きつけるように戻した。
「あいつはな、近しい人間ほど、自分の周りから遠ざけたがる男だった。二度とお前らに会いに来るつもりはない。何があっても、例えそれが葬式でも。風太とお前は、絶対に来るな。そう、約束させられた」
 コップを握り締めた震える手を睨むように見つめた親方が、ポツポツと語る言葉を、どこか遠いところで聞いていた。
 どこへだろうか。行かなければならないと、唐突にそう思った。
 そのとき、顔を上げた親方が、風太の顔を見つめて、ゆっくりと口を開いた。
「あいつには……生まれてから一度も会ったことがねえ息子がいる」
 初めて聞いた話に、親方の服を握り締めていた手の力が緩む。
「ちょうど、お前と同じ年頃になる。……馬鹿な……野郎だ」
 親方の声が掠れた。なぜだろうか、その言葉を聞いた途端、自分の中で何かが切れたのがわかった。
 手を離すと、差し出された恐らく三百万はあるだろう金の入った封筒を握り締めて、親方の元を飛び出していた。

 何も。残っていなかった。
 組事務所は取り調べのために警察が立入禁止のテープを張り巡らせ、警官が夜の間もずっと見張りに立っていた。あの頃安見と暮らしていたマンションには、もう別の人間が住んでいるようだった。
 僅かな記憶とツテを辿り、少しでも安見に近い人間を探して回った。ようやく見知った顔の組員を見つけて、安見の最期を聞き出した。
 そうして、行く当てもなく何日も街を彷徨い、やがてある雨の夜に辿り着いたのは、一軒の飲み屋の前だった。
「風ちゃん?」
 客を見送りに出てきて、傘も差さずそこに佇む風太を驚いた顔で見つめたのは、安見のマンションで、あの頃一緒に暮らしていたこずえだった。
「どうして……いったい、何があったの」
 雨に濡れそぼり、野良犬のようななりをした風太がよほど悲愴に見えたのだろう。慌てて腕を取り、店の中へ引っ張り込んだこずえは、残っていた客を早々に引き揚げさせて、店を早仕舞いした。
 酷い有り様の風太を一人暮らしのマンションに連れ帰ったこずえは、黙って風太に風呂と食事をとらせた。
「――さっきのお店ね……あの人が、持たせてくれたんだ」
 こずえに店を持たせた安見は、まるで身辺を整理するように、彼女にも別れを切り出したのだという。
「いろいろ、あの人の周りがゴタゴタし始めてすぐの頃だった。もう他人になるんだから、葬式にも来るなって。別れる間際に笑ってそう言われたの。葬式なんて、できねえだろうけどな……って」
 広くて明るいリビングは、けれどとても物が少なくて、いつもは独りだから誰かがいるだけで結構温かいね、とそう笑ったこずえがグラスを傾ける音だけが静かに響くのを、カーペットに座り、膝に顔を伏せたまま、風太はただ黙って聞いていた。
「淋しがりでさ。誰よりも家族に飢えてたくせに、最後まで強がるオトコだった。でもね……風ちゃんと暮らしてたあの一年が、きっと、安見にとって一番幸せな時間だったんじゃないかな。何だか……妬けちゃうな」
 思い出を共有する誰かが欲しかったのだろうか。顔を上げると、笑っているこずえの口元が小さく震えていた。震える薄い唇の下にあるほくろを目にして、安見が、よくそこに触れていたことを思い出した。
 どちらがどうしたのか、そんな記憶は残っていない。けれど、胸に溜まって吐き出せないものをぶつけるように、気が付けばこずえと身体を重ねていた。狂ったように、ただ何度も何度も抱き合って――。
 そこにあったのは愛ではない。二人の間を繋いでいたのは、安見という男の存在だけだった。

 安見に拾われた時と同じように、こずえの元に居ついて昼間はブラブラとし、夜は彼女の身体を貪るように抱いた。そのくせいつまでたっても、朝早く目が覚めてしまう癖が抜けないことに、親方の元で暮らした日々がいつのまにか身体に染み込んでいたのだと自覚させられ、苦い気持ちが込み上げた。
 季節が一つ巡り、気が付けばまた、花見の時季がやって来ていた。
 そんなある日、見るともなくつけていたテレビの画面に、満開の桜が風に煽られ花びらを散らすさまが映るのを目にした瞬間、どうしようもない衝動に駆られた。
 安見の舎弟だった男の伝手で裏のルートを使い、安見に彫り物を施した彫り師を紹介して貰った。もう第一線を退いていたそのベテランの彫り師は、身体が成長する途中の未成年への施術を、頑なに拒んでいた。
 何かに憑りつかれたように、毎日彫り師の元へ通いつめ、何度も土下座までして頼み込む風太に、やがて根負けした彫り師は、これがもう最後の仕事だとそう苦笑いして、安見と寸分違わぬ絵を、風太の身体に刻み始めた。
 そんな風太の行動を、こずえは戒めるでもなく、ただ黙って見ていた。けれど、少しずつ色を成していく風太の肌に触れるこずえの顔は、どこか悲し気に見えた。そして刻まれていく刺青が、安見と同じ絵柄をはっきりと形造るようになった頃から、こずえは、風太と肌を合わせることをやめてしまった。
 やがて冬を迎える頃、背中から上腕にかけて、彫り物の全てが完成したときに、こずえと風太の関係も終わりを迎えた。

 また、帰る場所を失ったと思っていた風太を偶然見つけたのは、一寿の妻の美和だった。美和に呼び出された一寿は、怒りが収まらない様相ですぐに駆け付けた。
「この二年近く、親方とおかみさんが、どんだけお前を探してたかわかってんのか」
 戻るつもりはなかった。戻れるはずなどないとわかっていた。それなのに、二人が自分を探していたと聞いて、確かに揺れる気持ちがあった。
 帰らないと言い張る風太を半ば引きずるようにして親方の元に連れ帰った一寿は、それでも本当は、風太が戻ってくることに最後まで反対していた。
 帰って来た風太に、親方も喜世子も、まるで昨日までそこに居たかのように、何も言わなかった。風太が使っていた部屋もそのまま、綺麗に掃除だけがされていて、喜世子は晩御飯の残りを温めて食卓に出し、親方は明日の仕事の予定を告げただけだった。
 けれど、風太がその背に入れた刺青のことを知った途端、親方の顔色が変わった。
「――この、大馬鹿野郎がっ」
 ゴツゴツとした拳で、思いきり頬を殴られた。
「お前には……浩ちゃんの気持ちが、わからねえのか」
 馬鹿野郎、と繰り返し何度も何度も、圧し掛かるように風太を殴る親方の目からは涙が溢れていて、殴られて痛くて堪らないのに、不思議とどこかでホッとしていた。
 怒りの感情は一切わかなかった。容赦なく風太を殴りつける拳から血が滲み、兄弟子達が親方を引き離すまで、ただ黙って殴られ続けた。
 この人を悲しませているのだということに、胸がひどく痛んだ。
 馬鹿だと、わかっていた。
 それでも。後悔はしなかった。


「――森、川さん?」
 あのときの自分の気持ちは、上手く言葉にすることができない。ぼんやりと感傷めいた物思いに耽っていた風太を、恐らく眠ったと思ったのか、遠慮がちに呼ぶ珠恵の声に、ようやく我に返った。
「ああ……ちょっと、思い出してた」
「何を……」
 躊躇い、問うのをやめたのだろう珠恵に、視線を移す。
「墨を、入れた時のことをな」
 風太を見つめる珠恵の瞳が、どう答えるべきなのか迷うように揺れる。
「俺の身体にあった刺青。あれは……安見さんのものだ」
「……え」
「あの人が死んでから、同じ絵を、刻んで貰った」
 桜散る月夜に舞う天女達。慈愛に満ちた静かな笑みを浮かべた天女の顏は、風太が、そして恐らくは安見も、得ることがなかった母のような顔をしていた。
「くだらないだろ」
 苦笑いを浮かべると、珠恵が、風太を真っ直ぐに見つめながら小さく何度も首を横に振った。何かを口にしようとしたのか、薄く開いた唇が微かに震えて、誤魔化すように顔を伏せた頬を伝った涙が一滴、彼女の手のひらの上で弾けた。
 珠恵の頬に、指先を伸ばす。柔らかなそこに触れて、そっと涙の痕を拭った。
 弾かれたように後ずさり顔を上げたその頬が、薄っすらと桜の色に染まる様を見ていた。
 ――ああ……本当に、綺麗だな。おっさん
 ちょうど風太が見上げた彼女の頭上に、雲に隠れていた月がまた顔を覗かせ、夜空を丸く切り取っている。満開の桜の元、珠恵の涙を見つめながら、不思議なほど穏やかな気持ちになっていた。
 どうしてだろうか。こんな風に誰かに、安見とのことを話したのは初めてだった。
 この女は、汚れていない。着飾っている訳でも華やかな訳でもない。きっと、顔立ちやスタイルならば、いつも風太が相手にしている女の方が、綺麗で人目を引く。
 それなのに今、ここにいる珠恵の瞳を見ていると、全てを受け止めて許されるような気がしてくる。
 けれどそのために――俺なんかが、触れて汚していい女じゃない。
 唐突に頭に浮かんだそんな自分の気持ちに戸惑いを覚えて、まだ狼狽えている珠恵から視線を逸らし、もう一度頭上の花を見上げた。
 ひらひらと花びらが舞い落ちるその風景を、焼き付けるように目を閉じる。安見が愛した景色が、そこにあった。
 ――なあ風太、綺麗だと思わねえか

「この花と一緒に散ることができたあの人は、もしかしたら、幸せだったのかもな」
 閉じた瞼の奥に、花が舞い散る。
「さっきの歌をきいて、初めて……そんな風に思えたよ」
 まだ終わらない喧騒が遠くから聞こえる。
 歌う声や、笑い声、酔っ払いの説教や嬌声や、子どものはしゃぐ声。それをどこか遠くに聞きながら、桜と、珠恵の空気に包まれるように、しばらく、ただ目を閉じていた。


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