本編《雨月》

第六章 雨とさくら3



「親がいるなら居場所は教えておけ。そう言われたのは一度だけで、そのままズルズルとあの人のマンションに居付くようになった俺に、安見さんはそれ以上はほとんど何も言わなかった。まあ、後んなってわかったけど、どうもお袋には俺の居場所、連絡してたらしい。どのみちあの女は……俺の行く末はヤクザだろうって言ってたぐらいだからな。本物の世話になったとこで、大して驚きもしてねえだろうし、却って邪魔者が居なくなってせいせいしてたんじゃねえか」
 母親のことを「あの女」と、目を閉じたままそう言った森川の表情からは、それが憎しみなのか哀しみなのか、その気持ちを読み取ることは出来ない。けれど「安見」という男の話をする時だけは、彼の声に、大切な者を呼ぶような温かさが滲んでいる気がした。

 向こうで一際騒がしい歓声が上がるのが聞こえてくる。この一角だけが、そこから隔絶されているようだった。
「――俺みてえな見ず知らずのガキ拾って面倒みて。ヤクザの癖に、ヤクザが大っ嫌いな変わったオッサンだった。あの頃の俺は、このままあの人の側にいてヤクザになるんだって、そう思ってた。抵抗なんて全くなかった。それが、一番自然なことだった。まあ、当時の俺はまだ中坊だ。学校にも行かねえで付いて回ろうとすんのを、あの人は絶対許さなかった。それどころか学校行けとか、んなマトモなこと言ったりすんのにはさすがに笑った。あの人は……安見さんは、本物のヤクザで、そのあたりのチンピラとは全く格が違った。時々、何とも言えない殺気立った空気を纏って夜中や明け方に帰って来ることがあって、そういう時のあの人は、本気で震えが来るぐらい怖かったよ。けど俺は……その怖さと強さに憧れた。後にも先にも、人のことを怖えって思ったのは、あの人くらいだ」
 しばらく口を噤んだ森川が、ああ――と何かを思い出したかのように再び口を開いた。
「もう一人、いるな……」
 誰かのことを、脳裏に思い浮かべているのだろう森川の顔をじっと見つめていると、その目が開き視線がぶつかる。不意打ちに焦る珠恵を見つめたまま、口もとに笑みを浮かべた森川が、頭の下から抜き出した腕を伸ばしてきた。
 驚き固まっている珠恵の髪に、指先が一瞬だけ触れて離れていく。そこには、花の形を成したままの桜が挟まれていた。
「あ……」
「こんなん降ってきたら、普通気付かねえか?」
 少しだけ笑いながらその花を差し出す森川の瞳は、優しいのに、やはりどこか寂しそうにも見える。
 桜の花を受け取る時、僅かに触れた指先の温かさに、頬が染まるのを感じた。森川の指が触れた髪や手から、熱が広がる気がした。
「……すみません」
「悪いこともしてねえのに、謝らなくていい」
 厳しい口調ではないが諭すようなその言葉に、胸が脈打つ。自分でもわかっていた。そういう振る舞いが卑屈に見えて、人を苛立たせることがあるのだと。それを指摘されたようで、恥ずかしさに俯く。
「少なくとも俺にはな」
 重くなりかけた空気を変えるように、少し笑いながらそう言ってくれた森川が、この先がまだあるようなことを口にしたと気が付いて、それを意識してしまい、珠恵はただぎこちなく頷くことしかできなかった。

「あの……もう一人って」
 途切れてしまった話の続きを聞きたくて、問うてみる。
「ん? ああ……福原さんも、知ってる人だ」
 先ほど、珠恵たちのことをじっと見つめていた人の姿が思い浮かんだ。
「親方さん、ですか?」
 問い掛けを無言で肯定した森川が、再び語り始めた。
「中学を卒業する頃までの一年ちょっと、結局そのまま安見さんとこに転がり込んで一緒に暮らした。最後まで学校は殆ど行かなかったし、卒業式にも出ちゃいねえが、それでも厄介払いみたいに俺を卒業させてくれたよ。晴れて義務教育を受ける年じゃなくなった俺は、当然安見さんの舎弟になるもんだと思ってた。ヤクザんなってロクな死に方しなかろうが、そんなことはどうでもよかった。どうせ、ロクな生き方してなかったしな。けど、中学の卒業式が終わったころ、あの人が俺を連れてったのは、組事務所じゃなく……親方のとこだった。あの人が、親方に向かって、こいつを弟子にしてやってくれって頭下げんのを、わけわかんねえまま見てたよ」
「何も……森川さんは、聞かされてなかったんですか?」
「ああ……」

「一人前に、してやってくれ」
 そう言って頭を下げる安見を、眉根を寄せて、睨むような目で見ていた親方。
 怒りながらも、胸の内で笑いそうになる自分がいた。結局は安見も、俺のことがいらなかったのかと。その事にどこかで傷付いている自分が可笑しかった。いつの間にか、安見の元が自分の居場所だと錯覚していた、そのことが。
 厄介者みてえにこのおっさんに押し付けんのか、冗談じゃねえ、自分の居場所は自分で決める、そこまで面倒かけるつもりはねえ、出ていけと、ひとこと言えばそれで済む。頭の中にあった言葉が、勝手に口をついて出ていた。
 その直後、腹部への衝撃と共に身体が壁にぶつかっていた。殴られたのだと、すぐには理解出来なかった。なぜ、俺が殴られなきゃならない――怒りで頭が真っ白になったまま安見を殴り返そうとした。けれど、まるで歯が立たなかった。
「浩ちゃん。もう、そのくらいにしとけ」
 子どもの相手をするように風太をいなし、何度も何度も殴りつける安見を、静かだが有無を言わせぬ口調で止めたのは、親方だった。
 安見に殴られたのは、後にも先にもその時一度きりだ。安見は、今まで見てきたどの時よりも険しく、そして暗く恐ろしいやくざの目をしていた。
「今日からはアカの他人だ。二度と会う気はねえ」
 最後にそう言い捨て、掴んでいた風太の腕を突き放した安見は、親方の目を見据えて黙って深く頭を下げた。それを親方は、同じような表情で見返していた。
 後から喜世子に聞いた話では、二人は幼馴染だったのだという。幼い頃から中学を卒業するまで親友とも呼べる程親しかった二人は、けれど安見がヤクザになった時から、会うことはなくなっていた。安見の方が、二度と関わりを持たないよう距離を置いたらしい。
 そんな相手から、数十年ぶりの連絡と共に突然持ち掛けられた無茶ともいえる頼みを、親方は何もいわずに引き受けたのだと。

 納得など全くできなかった風太は、反抗し、なかなか親方の元に居つくことはなかった。仕事もろくにせず、逃げ出してはその度に連れ戻された。親方は、風太が何度逃げ出そうとも、必ず探し出して迎えに来た。そうして、風太が外で面倒を起こす度に、相手の家や警察を喜世子と二人で訪ねては、何度も、何度でも頭を下げた。
 ――このガキを、まともな大人にしてやってくれ
 安見と交したそんな約束を律儀に守って、他人にしか過ぎない風太に責任を持ち、そして決して見捨てようとしなかった。
 遊ぶ金欲しさに、やがてポツポツと与えられた仕事をするようになっても、相変わらずそれは片手間の小遣い稼ぎのようなもので、兄弟子や親方にどやされる度に、反抗しては仕事をさぼった。
 そうやって、二年の月日が過ぎた。
 捨てられたと思っていたくせに、一度だけ偶然を装い、安見に会うために組事務所の付近を通りかかったことがある。
 しばら待っていると、事務所から下の者を引き連れ出て来た安見が、そこに佇んでいる風太を見つけて足を止めた。だが、眉根を寄せたその目はほんの数秒で逸らされて、二度とこちらを見ることはなかった。
 顔見知りの組員が、風太に気が付いて話し掛けようとするのを怒鳴りつけ、スモークの貼られた車の後部座席に乗り込み、その姿は見えなくなった。
 それが――
 安見と会った最後だった。

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