「学校も先生も、結局のところ俺ら親子にはあまり関わりたがらなかった。小学生のうちから何度も警察の世話んなって、中学に上がる頃にはもうすっかり札付きだ。その頃にはもう殆ど家に帰らなかったけど、だからといって警察に届けるような親でもなかったしな。毎日学校サボって街うろついて、喧嘩売ったり売られたり、まあ……いろいろ、バカやって。もう、お定まりみたいに落ちてった。しまいにゃ喧嘩相手に大怪我負わせて、鑑別所送りだ。けどな……俺にはそれでも、あの家にいるよりはずっとマシだった」
目を閉じたまま、ポツポツと語る森川の話を聞きながら
――あいつらよりもっと、ひでえガキだった
珠恵は高校生達が図書館で騒ぎを起こしたときも、そんなことを森川が言っていたのを思い出していた。
不意に誰かの視線のようなものを感じてそっと周囲へ目を向けると、少し離れた場所に見えた人影は、親方と、そしてさっきまで森川と話していたターニャというゲイバーのママのものだった。親しいのだろうか、二人は並んで立ち止まりこちらを見ている様子だった。
目を閉じたままの森川は気が付いていない。見つめ返す珠恵の視線に気付いたのか、親方の左手がゆっくりと上がり、やがて二人はそこから遠ざかって行った。
視線を戻すと同時に、森川が少し気怠るそうに目を開いた。
「つまらねえか、こんな話」
首を、何度も小さく横に振る。
「いえ……そんなこと、ありません。そんなこと……ないです」
森川のことなら、どんな些細なことだって知りたい。彼の口から語られる過去は、珠恵の想像も及ばないもので、ただ聞いていることしかできなくても、少しでも近付けた気がして、嬉しいとさえ思ってしまう。
「……なら、もう少し付き合ってくれ」
「はい」
いつもとどこか違っている森川が、なぜこんなことを珠恵に話してくれるのかはわからない。けれど、今でなければもう、聞くことができない気がした。
「鑑別所から出たからといって、もちろん反省なんてしやしなかった。かえって箔が付いたって思ってたくらいだ。その頃俺は、結構な有名人だったからな。出てきて早々、また同じような生活に戻ってくだらねえ毎日を送ってた。そんな時に、街である男に因縁を付けられた。相手になってそいつを伸したら、あとからアニキっていう奴が出て来た。その男は、ヤクザの下っ端だったんだ」
小さく、息を呑み込む。
「後から出てきた男は、もともと格闘技かなんかやってたようなでかい野郎で。そいつらに事務所まで引っ張ってかれた。さすがに本職のしかも大人が相手じゃ、喧嘩になんかならねえ。もしかしてこのまま殺されんのかな、まあ、そんなもんだろって、そう思いながらボコッボコに殴られてた。倒れ込んだ腹や顔に容赦ない蹴りを食らって、もう意識が朦朧とし始めたころに、事務所のドアが開く音が聞こえた。その途端にな、部屋の空気が一瞬で変わるのを感じた」
あの時の空気は、今でも鮮明に覚えている――。
扉が開く音がどこか遠くから聞こえた気がした。その途端、腹を蹴っていた男の足が止まり、張り詰めた空気が漂うのを、床に蹲ったまま感じていた。
「やすみ、さん……今日はこっちに来ねえはずじゃ」
「来ちゃまずいのか」
耳に心地よい低音の声は、どこか揶揄を含んだような物言いなのに、この中にあってその男が、別格の存在なのだということが風太にさえわかった。
「や、んな、とんでもねえっす」
さっきまで、風太が殴られるのを囃し立て、或いは無関心を装いながら楽しげに見物していた男たちも、途端に大人しくなっている。やられている間は麻痺していた痛みが突然自覚されて、腹を押さえながら咳込んだ。
近づいて来る足音に、丸めていた身体を少し伸ばすと、綺麗に磨かれた革靴と高そうなスーツの生地が視界に映った。瞬きをしようとして、瞼が妙に熱く重いことに気が付く。ここもきっと酷く腫れているのだろう。
目の前で立ち止まった男が、膝を曲げて屈みこみ風太の顔を覗き込んだ。一目で素人ではないとわかる鋭い目つきをした中年の男が、深い闇のような目でじっと風太を見ている。
「……殺すんなら、さっさと、やれよ」
その目を睨み返しながら、そんなことを口にして笑ってやった気がする。男の口元がフッと緩んで、一瞬笑みを浮かべたように見えた。
「――タケ」
安見と呼ばれた男は、顔を上げると、振り返って風太を殴っていた男に声を掛けた。
「てめえ誰に断ってここでガキ締めてんだ」
「いや、やすみさん――でも」
特段声を荒げた訳でも、威嚇するような物言いをした訳でもない、挨拶をするのと同じぐらい自然な口調なのに、問われた男がたじろいている。
でも、と口にした途端、空気を裂くような音がしたかと思うと同時に、ぐぁっと息を絞り出す声が聞こえて、男が腹を蹴られたらしいことがわかった。
「っ……や、すみ、さんっ、でもっ、このガキが先に、圭介を」
「こんなガキに下っ端ぁやられて、で、わざわざてめえが出張って、ここに素人のガキ連れ込んでんのか。随分とお暇だな」
「やっ……す、んません。でも」
「タケよ、俺は今日機嫌がいいんだ」
「……は、い」
「あんま、いい気分削ぐようなことすんな」
「……ン……ませ……」
横たわった風太には声しか聞こえなかったが、息を呑むような周囲の反応と、最後は泣きそうな声で詫びるタケと呼ばれた男の声から、ピリピリとした緊張感が伝わってくる。
痛みで朦朧とした意識の中で、風太は、全身が粟立つのを感じた。急に寒さを覚えて、身体が震えだす。
安見に指示された男達に無理矢理身体を起こされ、部屋を連れ出される間も、何の抵抗もできなかった。車に押し込まれ、強い力に顎を掴まれたことは辛うじて覚えている。
「えらく男前にされたもんだな」
「……るせ……」
呆れたように笑った男の声を最後に、意識が落ちていた。
次に目が覚めたときには、見知らぬベッドに横たわっていて、動かそうとした身体は、酷い痛みのために身動きがほとんど取れなかった。
「あれ、気が付いた?」
静かな女の声と甘やかな香りがして、はじめに、唇とその下にあるホクロが目に入る。風太を覗き込んでいるのは、色の白いどこか薄幸そうな女だった。
「のど、渇いてない? お水あげよっか」
ここはどこで、この女は誰なのか――そんなことより、聞かれて初めて自覚した喉の渇きの方が切実な問題だった。頷くと、薄い唇が弧を描いて、女がベッドから離れていく。
「コウちゃん、この子気付いたみたい」
そんな風に誰かに話しかけながら部屋を出て行った女と入れ替わり、入って来た男の気配に、部屋の空気が重くなるのを感じる。予想通り風太の顔を覗き込んだのは、安見と呼ばれていたヤクザだった。
「天国じゃなくて残念だったな」
風太を見下ろした安見が、はじめに口にしたのはそんな言葉だった。何も答えないまま、深く暗い光を湛えたその目を睨み返していると、男の唇が片側だけ持ち上がった。
「名前は」
「……」
「黙ってる気か? お前それが助けてやった恩人に対する態度か、ほんと可愛くねえガキだな」
「……頼んで、ねえし」
久しぶりに喉を使ったかのような、掠れた頼りない声しか出ない。
「おっ、口、きけるじゃねえか」
今度は声を出して笑った安見を、もう一度睨んでから顔を逸らす。
「お水、持ってきたよ」
部屋に戻ってきた女からペットボトルの水を受け取ると、安見は、それを風太の目の前で揺らした。手を伸ばそうとすると、届かない位置まで持ち上げてしまう。呆気に取られながらもう一度手を伸ばすと、やはり明確な意図を持って避けられる。
「……てめ、なに、してん、だよ」
「なまえ」
「…………」
「名乗ったら、やるよ」
唇の端を持ち上げたまま笑いを噛み殺している顔は、さっき事務所で見せていたものとは全く異質なもので、この男が見せる大人げない振る舞いに戸惑いながらも、遊ばれていることムッとする。
「浩ちゃん、意地悪してないでお水あげたら?」
後ろから声を掛ける女の声はどこか呆れたもので、けれど聞く耳は全く持たないのだろう男は、風太の目の前でペットボトルを開封し、自身の口元に近付け飲み始めてしまった。
「名無しにくれてやる水はねえなあ」
「てめっ、ざけんな……ってえ」
ベッドに伏せていた身体を起こして水を奪い取ろうとしたが、その途端腹部に走った激痛に、再び横たわってしまう。
「ダメよ動いちゃ。肋骨折れてるんだから。あなた、丸一日眠ってたのよ」
言われてみれば、身体だけでなく頭もぼんやりとしている。知らぬ間に手当を施されたらしく、全身あちこちが包帯や湿布で覆われていた。
「欲しくねえのかあ」
見せつけるように喉を鳴らして水を飲む安見の、上下する喉仏を憎々しげに見上げながら、無意識にそれを求めるように動いた喉が引っ掛かり、激しくむせ返った。
「ちょっと、大丈夫?」
背を擦る女の手を感じながら、折れた肋骨から広がる痛みに、呻き声が漏れてしまう。肩を激しく上下させながら睨みつけている風太に向けて、安見が口を開いた。
「権兵衛、おめえ親に連絡は」
誰がゴンベイだ、と舌打ちをして顔を上げる。その舌打ちには、親に連絡――に対する返事も含まれていた。途端に、苦笑いした安見が「そうか」と呟く。
「ま、好きにしろ」
そうして、風太の背を撫でていた女の腕を取り、そのまま部屋から出て行こうとした。本気で、水を与えるつもりがないらしい。
「浩ちゃん、お水」
熱があるのだろう、身体は酷く熱く唇が割れて喉はカラカラだった。脈を打つたび、全身を何かで殴られているかのような痛みが走る。
「――ぅた」
扉の手前で、足を止めた二人が振り向いた。可笑しそうに笑みを形作った安見の口元が面白くなくて、そこから目を逸らす。
「あ? 聞こえねえな」
絶対聞こえているだろうに問い返してくるのがムカついて堪らない。
「……もりかわ……風太」
後から考えれば偽名でも何でも構わなかったのだ。けれど、水欲しさに考えず口にしたのは、自分のフルネームだった。
ボスッと音がして、ベッドの足元にペットボトルが投げ込まれる。顔を上げると、もう安見の姿は、扉の向こうに消えていた。