本編《雨月》

第六章 雨とさくら1



 花見の当日、午前中は少し曇り気味だった空は、昼を過た頃から春の日差しが照りつける穏やかな天気へと変わっていた。
 一週間前からずっと曇と傘マークのその日の天気予報を毎日チェックしては、外れて欲しいと願っていた自分の気持ちが通じたかのようで、珠恵はホッと胸を撫で下ろした。
 希望が通りその日は休みのシフトを組めた珠恵は、同様に休日が重なった職場の人達と花見をすることになったと、そう言って自宅を午前中に出て来た。
 少なくとも十五、六人分の食事を作るという喜世子を手伝うために、昼前には古澤家を訪れる予定にしていた。森川達は昼過ぎまで仕事が入っていて、そこから直接花見の会場に向かうらしく、母家では喜世子と、一寿の妻の美和が、大人数の食事の支度に取りかかっていた。
 初めて顔を合わせた美和は、喜世子や板野に似たタイプの気風のいい女性で、妊娠九か月目の妊婦だった。喜世子を介し互いを紹介されると、大きなお腹を抱えながら、綺麗な顔に親しげな笑みが浮かんた。
「南方から可愛い先生が風ちゃんに勉強教えに来てるって聞いて、ずっと会いたいって思ってた」
 お世辞だとわかっているのに、可愛い先生、という言われ慣れない言葉に、思わず顔が赤くなってしまう。
「ね、ほんと可愛いだろ」
 そんな風に喜世子に追い打ちを掛けられ、必死で否定する様を二人にからかわれて、挨拶をするだけで、珠恵はもう疲れてしまっていた。

 慣れたペースで支度を進める二人の、邪魔にならないように手伝うだけで必死で、あっという間に時間が過ぎてく。
 森川と知り合ったきっかけを聞かれたり、一寿との馴れ初めを聞いたりしながら準備を進めて、いくつものお重に大量のおかずやおにぎり、稲荷寿司などを詰め込んで、三人で家を出たのはもう四時を回った頃だった。
 花見の会場は、古澤の家からゆっくりと歩いて二十分程の川べりの土手にある公園で、それほど大きくはないそこは、薄いピンクに染まった満開の桜と、それを愛でる大勢の人で、もうかなりの賑わいをみせていた。今日は土曜日だけに、昼から花見を続けている人も多いのだろう、呂律が回らなかったり真っ直ぐに歩けない酔っ払いも既に結構いる。
 朝から交代で場所取りをしてくれていたスペースにお重を持って近付いていく間、喜世子にはあちこちから知り合いらしき人の声が向けられる。その一つ一つに愛想よく応えている喜世子らと向かった場所には、もうすでに親方達やそれ以外のメンバーも揃っているようだった。
 少し前から森川の姿が視界に入っていて、珠恵の耳には、トクトクといつもよりも大きく刻まれる鼓動の響きが届いていた。やきとり屋での合格祝い以降、森川と顔を合わせる機会はなく、タオルのお礼と花見の連絡を交わすことだけが、ほんの僅かな接点だった。

 毎日カレンダーの日付けを目で追って、今日が来るのを待ちわびながら。
 もしかしたら、これが森川と顔を合わせる最後の機会になるかもしれないと思うと、胸の奥がギュッと痛くなった。今もまた森川の姿を見つけただけで、嬉しさと切なさが入り混じったような感情が沸き上がり、胸が苦しい。
 こちらに気が付いた一寿が手を上げると、隣に腰を下ろしていた森川も、振り返りシートから立ち上がった。一寿と森川、そして翔平の三人が荷物を引き取りにこちらへと向かって来る。
「ご苦労さん。おかみさん、すんません」
 喜世子にそう声を掛けた一寿が、美和から荷物を引き取ると、支えるように腰に手を当ててやりながら、片手で軽々とお重を持ちシートの方へと戻って行く。
「珠ちゃん、久し振り」
「こんにちは、翔平くん」
 笑みを浮かべながら珠恵の方へ近づいて来た翔平は、手前で喜世子から大きなお重と魔法瓶を押し付けられて、不満そうな顔をしながら来た道をまた戻り始めた。
 作業着のズボンのポケットに指を掛けた森川が、珠恵の方へと近付き、目の前で足を止める。
「久し振りだな」
「あ……はい。森川さんも、お元気でしたか」
「ああ、つっても、たった二週間なのか」
 そう言って笑みを浮かべた森川は、珠恵の抱えるお重を一寿と同様に軽々と片手で持ってくれた。
「大変だっただろ。これ、作んの」
「あ、いえ。あの私は全然、むしろ邪魔をしてたんじゃないかっていうくらい、何もできなくて。殆ど、あの、喜世子さんと美和さんが」
「ああ。ま、あの二人は慣れてっからな」
「凄く、呼吸もぴったりで」
「あーまあ、性格もよく似てるからな。カズさんがしょっちゅう嘆いてる。最近ますますおかみさんに似てきたって」
「でも……私も、憧れます」
 足を止めた森川が、振り返って珠恵を見つめる。
「――え? あの、私……何かおかしなこと言いましたか」
「あ、いや、ちょっと。想像つかねえなって思って」
「想像?」
「おかみさんみたいな福原さん」
 複雑そうな顔をした後、何を想像したのか可笑しそうに笑って、森川はまた背を向けて歩き始めた。
「あの、どうして笑うんですか」
「いや……なんでも。ま、でもおかみさんは喜ぶよ。今の聞いたら」
 まだ笑っているのか時折肩を揺らすようにする森川について歩きながら、足を止めて少し周りを見渡す。
 大勢の家族連れや、職場や友人の集まり。風があるようには思えないのにひらひらと舞い落ちる桜の花びら。
 珠恵は、こんな風に大人数で花見をするのも初めてのことで、森川に会えた嬉しさも手伝ってまた胸が一杯になった。
 シートに先に辿り着いた森川がお重を下ろし、珠恵が来るのを待っているのに気が付いて、慌てて足を速める。
「どうかしたか」
「あ、いえ、桜が……綺麗だと思って」
 森川はあまり花には関心がないのか、どこかそっけなくも思える声色で「そうか」と答え、珠恵に空いたスペースを示して座れと促した。

 皆が揃い、珠恵は森川と喜世子にメンバーの紹介をされ、緊張しながら挨拶を繰り返し、すぐに待ちきれないように宴会が始まった。
 宴が始まってしばらくすると、すぐ近くに、ひときわ賑やかな団体がいることに珠恵は気が付いた。通り掛かりの人たちが立ち止まったり、わざわざ訪ねていく人もいるようで、それが賑やかさに拍車を掛けているように見える。
 気になって見ていると、やがてそれがどんなメンバーなのかがわかり、少しだけびっくりした。華やかな衣装に身を包んだやけに体格のいい人達――見た目は女の人なのに、話す声がやけに低音のだみ声だったり、妙に甲高い声だったりするその人たちは、どうやらオネエと呼ばれる人の団体らしかった。
 珠恵の様子に、森川が笑みを浮かべながら「気になるか」と聞いてきた。皆はよく知って慣れているのか、特別そちらを気にする様子はない。ここのシートのメンバーの中にも、向こ移り酒を酌み交わしてくる人もいるようだった。
「あ、いえ、あの。ちょっとびっくりしただけで」
「まあ、あれだけ賑やかだと嫌でも目に付くからな」
「あ、いえ……あの、皆さんお知り合いなんですか。さっきから、色んな人が」
「え? ああ。あそこはもともと、駅裏のゲイバーのメンバーが中心だから。結構この辺りじゃ有名だし、顔見知りも多いしな」
「そう、なんですね。……あの」
 森川も行ったことがあるのだろうか――そう思いながら、聞くことを躊躇う。
「俺も結構よくいくけど」
 珠恵が飲み込んだ問いを察したかのように、森川がそう口にした。
 答えを聞けば聞いたで、深く考えてみるべきことなのか、それともサラッと流すべきところなのだろうか、と内心ちょっと狼狽えてしまう。それがきっと顔に出ていたのだろう、森川が「そういう意味じゃねえって」と、噴き出すように笑った。
「いえ、あの……そんな、別に」
 珠恵がひとり顔を赤くしてしどろもどろになっていると、すかさず喜世子の声が少し離れた場所から飛んでくる。
「風太、珠ちゃんをいじめんじゃないよっ」
 酔った職人が同調するように、「ねーちゃん泣かせんじゃねえぞー」などと囃し立て周囲に笑いが起こり、更に珠恵の顔に血が上ぼる。
「……や、だからおかみさんが追い打ちだって」
 隣でちょっと呆れたように、森川がぼそっとそう口にした。

 皆の酒の量が増えてきて、残り少ないおかずの減るペースが緩やかになり始めた頃、少し前から口数が減りどこかボンヤリとしていた森川が、紙コップをゴミ袋に投げ入れ立ち上がった。
「ちょっと挨拶、行ってくるわ」
 周囲と見上げた珠恵とにそう声を掛けてから、シートを離れていく。
 つい目で追ってしまう後ろ姿が向かった先は、先程話に上っていたゲイバーの人達の所のようで、結構よく行くという言葉を裏付けるように、そこにいる人達が次々と森川に声を掛けてくる様子が見てとれる。その中でも、遠目では体格のいい男性にしか見えない人物と、森川は長く言葉を交わしているようだった。
「――あの人」
 翔平が珠恵の方へと顔を向け、話しかけてきた。
「え?」
「今、風太さんがしゃべってる人」
「あ、うん、あの人、が?」
「ターニャさんっつってあそこの店のママ」
「ママ……」
 他の人達が綺麗に着飾っているのに比べて、ターニャと呼ばれたママの様子は、見た目だけでなく服装も、男性そのままのように見える。
「すっげえ鍛えたマッチョないい体格しててさ」
「あ、うん」
「髪も短いし、ひげも薄っすら生えてんだけど」
「……うん」
「化粧はバッチリだし」
「うん……え?」
「中身はかなり乙女。ああ見えて」
「そ、そうなんだ。あの、翔平くんも、行った事あるの?」
「あるよ。あ、けど俺、別にゲイとかじゃねえから」
「えっ、あ……うん、あの、別にそれは」
 リアクションに困りながら俯くと、何杯目かのコーラを飲みつつ、翔平の視線はまだ森川達の方を向いているようだった。
「ターニャさん、あの辺じゃ有名人だし」
「そう、なんだ」
「あのあたりの顔ってのかな。ホント知らない人はいねえくらい。ま、あの感じだし、そりゃ嫌でも目立つけど、そういうのだけじゃなくって――」
 翔平の話に相槌を打ちながら振り返ると、そこにはもう森川の姿はなかった。
 なかなか戻らない森川が気になり、話しをしながらも落ち着かずにいると、寄って来た喜世子が珠恵にビールの缶とおつまみが入ったビニール袋を差し出してきた。
「珠ちゃん、ほら」
「え?」
「風太、多分あそこの木の裏の辺りに一人でいると思うから。これ、持って行ってやって」
「……あの」
「気になってんだろ? 戻ってこないし」
 気付かれるぐらい、露骨に森川の姿を探していたのだろうかと、恥ずかしくなる。そんな珠恵を、少し酔った喜世子が優しい目で見つめた。
「風太はね。本当は……花見、好きじゃないの。だから、すぐに一人になりたがる」
「――え?」
「いいから、これ持ってほら、行ってきな」
「でも、一人になりたいなら」
「あんたを邪魔って追い返すことまではしないよ。せっかくこんな綺麗な夜桜、一人で見てるのも寂しいもんだろ」
「じゃ、俺が」
 黙って聞いていた翔平がそう口を挟もうとして、喜世子に遮られる。
「あんたはこっち。私と足りなくなったもん買い出しに行くんだよ。運転手がいるだろ」
 不満気な翔平の肩を叩きながら、喜世子は、ほら、というように珠恵に向けて頷いてみせた。

 喜世子の言ったとおり、森川は、恐らくはもう人が引き上げてしまったために空いたのだろう、土手沿いに咲く大きな桜の木の下で、地面に寝そべっていた。
 眠っているのだろうかと恐る恐る近付いていくと、足音に気が付いたのか、上半身を起こした森川が振り返った。
「あっ……あの、喜世子さんが、ビールをって。邪魔をして、すみません」
「いや、別に邪魔じゃねえよ」
 伸ばされた手にビールの入った袋を渡してから、後はどうすればいいものかと立ち尽くしてしまう。袋の中から缶を一本取り出した森川が、珠恵にそれを差し出した。
「飲んで行くか?」
「あ……でも」
 アルコールには弱く、ビールも苦手だ。けれど、思い切って手を伸ばしてみた。
「あ、これって……」
「多分あんたの分だろ」
 森川の言うとおり、それは喜世子が入れてくれていたノンアルコール飲料だった。受け取った缶を手に、少し躊躇ってから、寝そべる森川の隣に腰を下ろす。森川は、ビールを開ける様子はなかった。
「あの……森川さん、腕の怪我は?」
「ん? ああ。もう随分いい。最近じゃもう忘れてることも多いしな」
「そう、ですか。良かった」
「ああいう怪我は、初めてでもねえしな」
 確か吉永もそんなようなことを口にしていた――と思いながら、珠恵は、夜空を見上げたまま黙ってしまった森川を見て、やはり一人で居たかったのではないだろうかと、また迷い始めていた。
 目の前に、桜の花びらがひらひらと舞い落ちてくる。それを辿るように上を見上げると、空には美しい満月が浮かび、地上の喧騒を見下ろすように静かな光を湛えていた。
 ボンヤリと月に照らされる桜を見上げていると、
「このまま目ぇ閉じたら、向こうに連れてかれそうだな」
 不意にポツリと呟くような声が、耳に届く。頭上から視線を移すと、森川は空をじっと見上げていた。
「向こう、ですか?」
「ああ……。ここでこうやって眠ったまま、二度と戻れなくても、いい気がしてくる」
 その言葉に、僅かに瞠目する。けれど、ただ静かにそう語る森川の口調からは、厭世的な響きは感じられない。
 もう一度頭上を見上げて、夜空から舞い落ちる花びらを見ていると、確かに、どこか吸い込まれてしまいそうな気がした。珠恵はふと、森川の言葉から頭に浮かんだ歌を口にしていた。
「願はくは、花の下にて春死なん、その如月の望月のころ」
 森川の顔が、ゆっくりと珠恵へと向けられる。
「あ、あの……これ……昔、西行という歌人が、詠んだ歌なんです。満月の春の夜に、花の下で死にたい。……色々と説はあるんですけど、この花は桜だというのが有力な説なんです。きっと……その人が見ていた景色は、この桜とはまた違うけど。でも……こんな綺麗な花を見ていたら、それを願った西行の気持ちが、少しだけわかる気がします」
 視線を落とすと、黙って珠恵の言葉を聞いている森川と目が合う。我に返り、急にこんなことを語ってしまった自分がとても恥ずかしくなった。
「あ……の、違います。すみません、やっぱり私――」
 顔を逸らし立ち上がろうとした珠恵は、耳に届いた静かな声にその動きを止めた。
「俺は嫌いだった」
「……え?」
「この花……いい思い出ねえから」

 頭上を見上げていた森川は、珠恵の方を見ることもなく、小さく苦笑いをしてゆっくりと瞬きをした。
「俺の、おふくろのこと、何か聞いたか?」
「え? あ、の、はぃ……少し、だけ」
 一度だけ喜世子から聞いた話を思い出す。酒と男にだらしがなくて、子どもは放ったらかしの親だった――と。
「どうしようもない男好きで、酒がなけりゃ生きてけなくて、そして……俺をいらない母親だった」
「……今、お母様は」
「さあ、な。俺も長いこと会ってねえし。ま、生きてはいるよ。多分相変わらずだろうけどな」
 再び苦笑いを見せてから、仰向けに寝そべった頭の下に手を回した森川の髪に、ヒラヒラと舞い落ちた桜の花びらが着地した。
「次々と違う男、部屋に連れ込んで。ガキの前でも平気で足開くし、邪魔になりゃまだ学校にも上がらねえようなガキを真冬の夜でも外に放り出すような女だった。元々、そういう性質だったんだろうが……お蔭で、俺は父親が誰かもわからねえ」
 自嘲するかのような笑みを薄っすらと浮かべながら、夜空を見上げるその瞳が、本当に映しているものは何だろうか。今、目の前にある美しい花ではないような気がした。
「飲み屋で働いて稼いだ金を、ロクに働きもしねえで女にたかるような男に貢ぎまくって。男に使う金はあっても子どもに食わせる飯はねえ、そんな暮らしでな。だから、俺は年中腹を空かせたガキだった。憂さ晴らしに俺やお袋を殴る野郎も結構いたから、たまに俺に優しい男がいると、子どもながらに必死で媚びた。いい子にしてたらこの人が俺の父親になってくれんじゃないかって。ま、そういう奴ほど、あのお袋と長く続く訳がねえのにな。笑うだろ、ほんとドラマん中に出て来そうなくらい、悲惨な暮らしをしてた」
 笑みを浮かべて珠恵の方に顔を向けた森川に、何も言えずただ小さく首を振った。
「近所に小さな公園があってな、家を追い出された時はそこで時間を潰してた。そこもここみたいに沢山の桜があって、花見の時季には人が来るからな。ガキが独りで長いことウロウロできなくて、居場所がなくなる。楽しそうに飲んでたらふく食って、バカみてえにはしゃぐ大人見てたら、憎しみさえ湧いた。俺が初めて警察に補導されたのは、小五の時だ。ちょうど、今みたいな桜が満開の頃だった。花見をしてた酔っ払いのおっさんから財布をくすねて捕まった。はじめのうちは食い物だったんだけどな。ある時、誰かが落とした財布を拾ったことがあって、その金で食い物がたらふく買えるのに気付いてからは、それに味を占めた」

 なぜ突然森川が、こんな風に自分の過去を話し始めたのかはわからなかった。酔っているのだろうか。さっきまでとは違い、不意に饒舌になった森川が語る過去の情景。
 咲き誇る花びらと喧騒の中に、独りポツンと佇む小さな子どもだった森川の孤独を思うと、胸が切なさで押し潰されそうになる。
 いつしか花見の賑やかさは遠いものになり、目を閉じて語る森川の言葉だけが、珠恵の周りに存在していた。


タイトルとURLをコピーしました