本編《雨月》

第五章 雨とお守り3



 合格した、と森川からメッセージが届いたのは、それから約一週間後のことだった。
 試験の前までは毎日のように会っていた森川との繋がりは、その連絡があるまで、試験当日に送られてきた『何とか落ち着いてやれたと思う』という内容のメッセージだけだった。
 何度も書いては消しを繰り返したメッセージは、珠恵からは結局一度も送ることができなかった。
 図書館という繋がりがなくなれば、森川とは何の縁もなくなってしまう――という頭ではわかっていたつもりのことに、まだ気持がついて行かなくて。
 毎日職場から真っ直ぐに帰宅しながら、机の上に積んだままの古い教科書や参考書に、触れることも仕舞うこともできずに過ぎていった一週間だった。

『おかげで受かったよ』
 そんな短い報告メッセージに、「おめでとう」の言葉をどうしても直接伝えたくて、散々迷った挙句、緊張で手に汗を掻きながら森川に電話を入れた。
「よう」
 繋がった電話から聞こえた久しぶりの森川の声に、鼓動が軽く跳ねる。気持ちを落ち着けるように息を吸い込んでから、お祝いの言葉を伝えると、思ったよりも大きくなった珠恵の声に、森川が微かに笑ったような気配がした。
「正直、ちょっとホッとしたな」
「……はい」
 相槌を打ち一人で頷きながら、本当によかったと、珠恵もホッとしていた。その時、「ああそうだ、ちょうどよかった」という森川の言葉が、耳に届いた。
「後で電話しようかと思ってたんだ。実はな――」

 その日の朝、出勤の支度を終えてから、珠恵はキッチンに立つ母の後ろ姿に声をかけた。
「あの、お母さん」
「何?」
 振り向いた母の顔を見ながら、声が上ずってしまわないように、気をつけて口を開く。
「今日、少し遅くなるから。ご飯も、外で食べてくる」
「そう。職場の人?」
「あ、う……ん、あのね、この間の家庭教師の子が、試験に合格したからって」
「あら、そうなの? それは良かったわね」
「うん。それで、お礼に食事でもって」
「そう。じゃあ、珠恵も何かお祝いしなきゃね」
 笑みを浮かべる母に、ずっと嘘をついていることに、僅かな罪悪感を覚える。
「うん。そう、だね……。あの、今日お父さんは?」
「え、ああ。いつもの通り……遅くなるんじゃないかしら」
「そう」
「お父さん、ちょっと、気になってらしたみたいよ」
「え?」
 視線をシンクに戻した母がそう口にする。漏れそうになる溜息を呑み込んだ珠恵の胸の中に、微かに苦いものが広がった。
「お夕飯、殆ど毎日ご馳走になってたでしょ」
「それは、お金を受け取って貰えないならっ、て言われて……そう……言ったのに」
「お母さんもね。あちらのご両親のお気持ちもわからなくはないって、言ってはみたんだけど」
「もう、終わったことだから」
 母の背から目を逸らして、どこかムキになったように答えてしまう。
「そう、ね。でも、なるべく……早く帰ってらっしゃい」
「……行ってきます」
 返事を曖昧にしたまま、キッチンに背を向けて玄関へと向かう。その後を追うように、振り向いた母の「行ってらっしゃい」という声が耳に届いた。

 森川の元へ通っていた間、家には、正直に事情を話せずにいた。職場の人が、知り合いから受験生の勉強を短期間でみてくれる人を探して貰えないか、と頼まれていて、それを引き受けたのだと、そう説明していた。
 珠恵が学生だった頃、唯一許されていたのが家庭教師のアルバイトだった。そのため、無償で引き受けたというその話を、母が怪しむ様子はなかった。
 学生の時とは違い、仕事をしながら家庭教師を引き受けたことについて、父はやはりあまりいい顔をしなかった。だが、そんな短期間では引き受けてくれる人がなかなかいないのだと説明すると、しぶしぶ頷いていた。
 それでも、先方はどういう家庭なのか、親の職業、子どもの成績、志望校のレベル、住んでいる場所――そういった事柄を、当然のように事細かく珠恵に問う父に、自分でも驚くくらい躊躇なく、嘘を答えた。
 玄関の扉を開け外へ出ると、もう確かに春を感じさせる空気に、重くなりかけた気持ちを振り払うようにそっと息を吐く。
 けれど、駅へと向かい歩きながら、今夜のことを考えるうちに、やがて自然と気持ちが浮き上がり、心が和らいでいくのがわかった。
 駅前の小さな公園にある大きな桜の木の蕾が膨らみかけている。それが目に入り、足を止めて見上げた。
 春の訪れを告げるこの花が咲くのを、いつもよりずっと待ち遠しく思う。
 珠恵は、森川の腕に刻まれていたのは、この花だったことを思い出していた。
 合格の知らせが入ってから、もう三日が過ぎていた。あの日、電話の向こうの森川は、一寿たちが合格祝いをしてくれることになったから、そこに福原さんも来ないか――と。そう、誘ってくれたのだ。

「皆も福原さん呼べって言ってるし、俺も礼するつもりだったし、どうかと思ってな」
「お礼、なんて。そんな」
「いや、礼は改めてって言ってたろ」
「あの……、お礼はともかく……そのお祝いの席には、参加させて貰っても、構いませんか」
「ああ。つっても、行きつけの居酒屋とかだけどな。結構味はいけるから」
「はい」
「じゃあ、また時間とか決まったら連絡する」
「はい……あ、……あの」
「ん?」
「た、楽しみに……してます」
「ああ」

 あの夜、森川と交わした会話を思い出す。
 礼と言われた時には、見えもしないのに手を横に振っていた。本当はほんの少し、皆が呼べと言ったから呼んでくれたのだろうかと、そんなことが頭を過りもした。
 けれど、花見の日まで会えないはずだった森川に会えると思うだけで、気持ちが高揚する自分がいた。誘いには、自然と素直に頷いていた。
 会話を終えてからも、少し熱くなった頬に手を当てながら、声の聞こえなくなった携帯をいつまでも握りしめていた。
 母に嘘をついて出てきた今日は、その合格祝いの食事の日だった。

 いつもの駅に降り立つと、改札の外で待つ人の姿を見つけてトクッと胸が鳴った。足を速めながら、森川が一人きりなのだと気が付いて、急いだせいだけではない鼓動の音がまた早くなる。
「皆は先に行ってるから」と連れて行かれたのは、駅の裏手の少し怪しげな通りにある、やきとり屋だった。
「ここ。古くて汚ねえ店だけど、味だけは確かだから。あ、焼き鳥、いけるか?」
「あ、はい。大丈夫です」
「まあ、ここまで連れて来られちゃ、嫌とも言えねえな」
「あの、ほんとに、いけます。あの、好きです、焼き鳥」
 珠恵を見下ろして、なぜだか笑った森川が、くたびれた様子の店の扉を開ける。賑やかな声と美味しそうな匂いが充満する店内は、外観からは想像つかない程混み合っていて、空席は殆ど見当たらない。
 奥のテーブル席から手を振る人が見え、それが翔平であることに気が付いた。たった十日程会わなかっただけなのに、とても久しぶりな気がした。初めてあの家以外の場所で皆と顔を合すことにも、やはりどこか緊張してしまう。
 けれど、席につきオーダーを済ませ乾杯をする頃にはもう、珠恵も馴染んでいた夕飯時と同じ空気になっていて、緊張はすぐに解れていった。
 仕事帰りだったらしく、未成年の翔平とアルコールに弱い珠恵以外の三人は、ジョッキに入ったビールを手に取ると、乾杯もそこそこに、半分程それを一気に飲み干す。
「っくぅーっ!」
 竜彦がグラスを置いてそう声を上げると、隣に座っていた森川も、同じように気持ちよさそうな息を吐いた。
 皆の飲みっぷりに感心しながら森川を見ると、口の周りに泡をつけたまま、頬を窪ませ笑みを浮かべている。
「――ん?」
「あ、あの……美味しそうに飲むなって、そう思って」
「そうだな、やっぱこの一杯目が最高だからな」
「そりゃ珠ちゃん、働いた後だし余計に美味えんだよ」
「いやあ、これを味わえねえって、翔平もかわいそうになあ」
 森川に続けて、一寿や竜彦からも答えが返ってくる。一人だけコーラを飲んでいる翔平の頭を一寿がぐりぐりと掻き回し、皆が笑ったその後は、お勧めだというつくねを皮切りに、次々と料理がテーブルに運ばれてきた。皆の食べっぷりは珠恵ももうよく知っていたから、それが消費されていく勢いにはさほど驚かなかった。
 店員とも顏馴染らしく、時折、店主や店員との間で砕けた遣り取りが飛び交う。料理の味も、森川の言葉通りとても美味しくて、初めは胸が一杯だったはずの珠恵も、皆が気を使って皿に入れてくれる料理を、気が付けば全部平らげてしまっていた。

 一通り料理が出尽くしてお腹が満たされると、一寿と竜彦は二人して焼酎を口にしながら、森川の昔の話や翔平の失敗を、面白可笑しく珠恵に話して聞かせてくれた。当人らは苦笑いしたり言い返したりしていたが、知らないことだらけの話は、聞いているだけで楽しくて驚くことばかりで、時間があっという間に過ぎて行った。
 やがて杯が進むと、少し呂律が怪しくなった竜彦が、親方が倒れたときのことを語り始めた。時折相槌を打つだけの森川は、グラスに入ったロックの日本酒を、あまり減らないペースで口にしている。
「親方の腕を見込んでって客がうちはほとんどだったからな。あの頃、やっぱ客が離れていきそうになってな」
「そうそう、それをさ……おかみさんが、客のとこ、何度も回って頭下げてな」
「うちの人は、絶対にまた仕事ができるようになるからって。それに、俺らのことも」
「ああ……。だったよな。親方がいちから叩き込んだ弟子だから、腕は確かだって。信用して仕事を任せてみて貰えないかって」
 酔いながら、少し掠れた声で語る一寿たちの話を聞きながら、鼻の奥が熱くなってくるのを感じる。
「おかみさんが、そうやって仕事取り仕切ってる間、まだ中学生だった愛華が毎日親方の病院通って、リハビリ手伝ってなあ」
「おかみさんと二人で、お百度参ったりもしてたな。あん時あいつ」
「あれ、おかみさんだけじゃなかったんすか?」
 翔平が驚いた顔をしたので、彼もそれを知らなかったのだとわかる。
「本人はかっこ悪いって、意地でも隠そうとしてたみたいだけどな。ま、あいつもいいとこあんだよ」
 一寿の答えに、翔平が、珠恵と森川へと僅かに気まずそうな視線を送った。きつい言葉を向けてきた愛華のことを、どこかで怖がって避けるようにしていた自分が、珠恵も恥ずかしく思えた。
「でもまあ、親方が現場に復帰してからはあいつも、いつもの我が儘モードに戻っちまったけどな」
「ありゃ、反抗期だな」
「万年反抗期だろ」
 それまでのしんみりとした空気を変えるように、一寿の口調が明るいものになる。残っていた焼酎を飲み干して、おかわりを頼んだ竜彦もそれに同調した。
「俺らが小さいときから甘やかしてたのも原因か?」
「あいつなまじっか可愛い顔してっからよ、学校でも結構ちやほやされて調子にのってんだってあれ」
「翔平なんか、あいつより年上のくせに完っ全に下僕扱いだしな」
 いつもの空気が戻って来ると、翔平も苦笑いしながら、それに同意している。
「ほんと、あの顔、誰に似たんっすかね」
「お前、それおかみさんと親方に喧嘩売ってんのか」
「えっ、や。いやいやいやいや、そういう意味じゃないっすよ」
 余分なことを言った翔平をからかい始めた兄弟子たちを見ながら、珠恵は胸が温かくなって、つい笑みをこぼしていた。
 ふと隣を見ると、さっきから無口になっていた森川は、珠恵と目が合うと、殆ど口を付けていないグラスを置いてどこか無理に浮かべたような苦笑をみせた。
 声をかける間も無くすぐに視線を逸らし、腕に嵌めた時計を確認する森川に、少し戸惑いを覚える。
「――そろそろ、出るか」
 その様子が気になりながらも、時間を確かめるともう十時を回っていた。まだ帰りたくはなかったが、今朝の母との会話を思い出し、静かに頷いた。

「ご馳走様でした。あの、とても美味しかったです」
「そりゃよかった。じゃ、また、花見ん時にな」
「はい……お休みなさい」
「気をつけて帰れよー」
「あ、俺も飲めないし、もう」
「おめえは、もうちょっと付き合え」
 明日は休みで、まだ飲み足りないと次の店へと向かった兄弟子達と、半ば強引にそちらに連れて行かれた翔平とは、店の前で別れた。
 駅が近いから送らなくていいと言ってみたが、森川はそれには答えず、珠恵と共に駅へと歩き始めた。
 この間のように、明らかに機嫌が悪そうな様子には見えない森川は、だがやはり店を出てからも口数が少なくて、いつもとはどこか違うように思えた。
「あの……愛華ちゃん」
 会話の糸口にするように、珠恵はその名前を口にした。
「ん?」
「愛華ちゃんは、親方さ……お父さんのこと、本当に好きなんですね」
「ああ。まあ親方も、結構遅い時の子どもだし、あいつには甘いとこあるからな」
「でも、偉いです。中学生でそんな」
「まあ、な。ほんと、わかりにくいけどいいとこもあんだけどな。ただ、キツイとこがあんのも本当のことだしな」
 苦笑いを浮かべながらそう口にした森川は、時折声を掛けてくる顔見知りらしき店の従業員に手を上げながら、昼間よりも夜が賑やかなその通りを、慣れた風に歩いて行く。
「……あの」
 後ろを遅れないように歩きながら、珠恵は少し躊躇ってから口を開いたものの、振り向いた森川を見上げた目を、すぐに逸らしてしまった。
「もし、違っていたら、すみません……あの」
「どうした?」
「森川さん、何か、ありましたか?」
「何か、って?」
「さっきの、お店で……あ、でもあの、考え過ぎならいいんです」
「さっきの店……」
「何だか、あの、途中から元気がなかった気がして」
 返事がないことに顔を上げると、口を噤んだ森川が、珠恵の顔をじっと見つめている。慌てて取り繕うように首を振った。
「あ、ごめんなさい。違いますよね。私、なんか変なこと言って」
「親方な……」
 顔の熱さに視線を下げた珠恵の耳に、ポツリと呟く声が届いた。
「あんなことになったの多分……俺のせいだ」
「――え?」
 思わず見上げた珠恵の視線から、今度は目を逸らしたのは、森川の方だった。空に向けるように溜息を吐いてから、戻ってきた視線がもう一度珠恵を見つめる。
「変なこと言ったな。気にしないでくれ」
 苦笑交じりにそう口にして、踵を返した森川は、そのまま駅へと向かって歩き始めた。
 慌てて後ろを追いながら、珠恵は、振り向かない背中に、もうさっきの言葉の意味を問い掛けることはできなかった。

 駅の構内は、いつもより遅い時間のためか空いていた。ずっと黙ったまま前を歩いていた森川が、立ち止まり振り返る。
「今日は、ありがとうな」
 もういつもの表情に戻っている森川を見上げ、珠恵も、お礼とお祝いをもう一度口にしてから、今日ずっと持ち歩いていた紙袋を差し出した。
「何?」
「これ、あの、合格のお祝いです」
「あ、いや……けどな、結局今日はかずさんの奢りだったし、礼もまだしてねえのに」
「夕飯も何度も頂いたし、それに、毎晩送って貰いました」
「そりゃ普通のことだろ。だいたい夕飯は俺じゃねえし。福原さんには、お守りだって貰ってる」
「でも、あの、これは、受け取って下さい。そんな気を使って貰うほど大したものでなくて、却って申し訳ないくらいのものです。それに、あの、私も、楽しかったから…………あっ、あの、森川さんが、怪我と試験勉強で大変なのに、私、楽しいとか言って」
余計なことを口走り狼狽えている珠恵の耳に、森川の声が届いた。
「俺も、楽しかった」
 思わず顔を上げていた。頬が、熱くなる。
「じゃ、遠慮なく貰っとくよ」
 紙袋を受け取った森川は、店からの帰り道とは違う、いつものような笑みを浮かべた。
「はい」
「気い使ってもらって悪かったな」
「いえ」
「開けてみていいか」
「はい。えっ、あの、ここでですか」
「ああ」
「でも」
 目の前で、中を確かめた時の森川のリアクションを見るのが、急に不安になった。
 考えた末に選んだ贈り物は、普段使えるようなもの――きっと仕事柄毎日使うであろうタオルだった。吸汗性がよく嵩張らず、そして素材や肌触りのよいタオルにイニシャルの刺繍を入れて貰ったものだ。散々考えた末の贈り物が、誰にでも思いつくようなものでしかなくて、それが急に恥ずかしくなる。
 手を止めて問うような目をした森川に、珠恵は顔を横に振ってみせた。
「やっぱり……家で、帰ってから開けて下さい」
「ここじゃマズイもんなのか?」
「えっ? あの、そうじゃない、ですけど」
「けど、何?」
「好みの色とか、全然わからなくて、あの、だから……もしがっかりしたら」
 クッと笑う声に、少しだけ顔を上げると、森川の片側の頬が小さく窪んでいる。
「しねえよ」
「え?」
「がっかりなんてしねえから、心配するな」
「あの……」
「ま、福原さんがそういうなら、家で見せて貰うよ」
「あ……はい」
 そう言われてようやくホッと息を吐く。
「そんなにホッとされると、逆に気になるな」
 どこか揶揄するような笑みを浮かべた森川は。その日、珠恵が改札をくぐり、ホームへと上がるエスカレーターから見えなくなるまで、ずっと、見送っていてくれた。


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