最後の勉強会は、試験の二日前。その日はちょうど珠恵の休みと重なっていたため、いつもより早い時間に森川の元を訪れた。
翔平もまだ仕事から戻っていないため、数日ぶりに二人だけの勉強の時間だった。
森川への気持ちをハッキリと自覚した今、少し早く胸を打つ鼓動を意識しないようにしようとして、でも無理で、結局は余計に意識してしまう。
真剣な眼差しで問題に取り組む森川の顔を、無意識のうちにじっと見つめながら、こんな風に過ごす時間ももうあと僅かなのだと思うと、目を逸らせなくなる。
過去のテスト問題を解いている森川の手が、時折短い髪をクシャリと掴む。それが、少し悩んでいる時の癖だと知ったのも、ここ数日の間のことだった。
やがて時計のアラームが鳴り、鉛筆を持つ手が止まる。顔を上げた森川と目が合って、珠恵は慌てて鳴り続けていたアラームを止めた。
軽く息を吐き出した森川から答案を受け取って、答え合わせを始める。小気味よく丸を打つ音が部屋の中に響いていて、自分の口元が少し緩むのがわかった。所々、簡単な勘違いや書き間違いによるミスもあったが、概ね正解だった。それは、今までの中で一番いい出来の答案だった。
「何か……俺の答案とは思えねえな。こんな点数見たの初めてだ」
答案を返すと、少し照れたように笑みを浮かべた森川がそう口にする。
「今日が今までで一番いい点数ですね。あの、これなら、明後日は多分、問題ないと思います」
まだ答案を見つめていた森川が、顔を上げ珠恵を見つめた。
「ありがとな。こんなバカの面倒みてくれて」
「そんな……こと」
「や、いい年してこんなこともわかんねえのかって、そういう態度、福原さんは一度も俺に見せなかった。あんたに教わるの、ほんとわかりやすかったよ」
「い、え……私は、全然」
真正面からそんな風に言われて、照れてしまう。椅子に凭れて伸びをした後、身体を起こした森川が、もう一度答案の点数を見つめて静かに笑った。
「勉強って、楽しいもんだな」
ポツリと漏れた言葉に頷き返しながら、森川がそんな風に思ってくれたことが、とても嬉しかった。嬉しくて、何故だか少し泣きたくなった。
「――あ」
ふと思い出して鞄を引き寄せ、白い紙の袋を取り出して、森川の方へ向けて机に置いた。
「これ」
「ん?」
珠恵の顔から手元へと視線を落とした森川が、袋を手に取る。今朝、ここへ来る前に寄って来た湯島天神のお守りだった。
「俺に?」
「はい、あの……そんなありきたりな物、必要ないかもしれませんけど、あの、でもそれ一応仕事の安全とかも兼ねてて、あっ、でも一応って、そんな、適当とかいう意味じゃなくって、ちゃんと」
反応を見るのが怖くなって、ついしどろもどろになりながら説明をする珠恵の耳に、森川の笑う声が届いた。
「別に、適当とか思ってねえから」
馬鹿みたいなことを口にしたと、また頬が熱くなる。
「わざわざ行ってくれたのか」
「いえ、はい……あの、試験、頑張って下さい」
「ああ、ちゃんと合格しなきゃな」
目の前で、革製の筆箱にお守りを器用に括りつけていく指先を見ながら、静かに息を吐く。顔を上げると、森川の瞳がじっと珠恵を見ていた。
「愛華が、嫌な思いさせて悪かった」
「……え?」
「俺も、あの日の態度は反省してる」
不意に持ち出された話に、狼狽えてしまう。
「あ……あの、私……気にしてませんから」
「ちゃんと、いるよ」
静かな声色に、珠恵はぎこちない笑みを浮かべたまま、問うような眼差しを向けた。
「あんたの良さをわかる、いい奴が」
森川が言わんとすることを理解した途端、羞恥で身体が熱くなり、顔を伏せてしまった。
冗談や揶揄でないことがわかる口調と、優しい眼差し。それが、彼の本心からの言葉だというのは伝わってきた。けれど。愛華の言葉を詫びるのが何故森川なのだろう。そんな醜い嫉妬のような気持ちを覚える。
嬉しいのか悲しいのか、恥ずかしいのか惨めなのか、よくわからない感情が胸に湧き上がる。
今の言葉を口にしたのが森川でなければ、慰めや社交辞令でも、きっとこんな気持ちにはならない。その誰かは森川ではないのだと、そう突きつけられた気がして、わかっていることなのに胸が痛くなる。
小さく首を横に振って、スカートを握る手に力を入れた。
「……すい……ありがとう、ございます」
顔を上げ、気を使わせたことを謝ろうとした言葉を止めて、笑みを浮かべながらそう答えた。
森川の表情が何故だか少しだけ曇る。小さく何かを呟いて苦笑いした森川は、口を噤むと、ゆっくりと机の上を片づけ始めた。
慌ててそれに倣いながら、ここでの時間が終わる淋しさを誤魔化すように必死で何かをしゃべっていたような気がする。
けれど、後から思い返してみても珠恵は、この時何を話していたのか、思い出すことはできなかった。
「珠ちゃん、四月の第一土曜の夜、何か予定ある?」
最後の夕食を頂いている最中、喜世子にそう尋ねられた。
「あの、まだ次のシフトを出していないので、勤務時間が確定していなくて」
「シフト出してないってことは、休み取りたいって言えんの?」
斜め向かいに座った翔平が、そう声を掛けてくる。翔平と森川の間のぎくしゃくした空気は、さすがにもうなくなっていた。
翔平の問いかけに、喜世子も珠恵の答えを待つように箸を止めている。
「あ、他の人の希望とかもあるので、必ず取れるかは、わからないですけど、でもあの、希望を出してみることはできます」
何があるのだろうか、と、喜世子へと視線を向けた。
「毎年恒例の花見がね、その日の予定なんだけど。よかったら珠ちゃんもどうかと思って」
「あ、そりゃいいや。おいでよ」
一寿や竜彦らも頷いている。
「一緒に仕事してる他の職人やら、一寿んとこの美和ちゃん、あ、奥さんね。も来るし結構にぎやかだよ」
「でも……いいん、ですか?」
「勿論だよ。ねえ、あんた」
喜世子が問いかけると、親方は手を止めてゆっくりと頷いた。
「ああ……よけりゃ、きて下さい」
森川の方をちらっと見遣ると、口元に笑みを浮かべて頷く。
「あの、じゃあ、お休みが取れれば」
「どうせ遅くまで飲んだりしてるから、もし仕事でも、遅れて来ても大丈夫だよ」
「あ、はい。じゃあ……行かせて頂きます」
また森川と顔を合わす機会があると思うと、自然と頬に笑みが浮かぶ。でもそれだけでなく、ここの人達と一緒に居られるのが、自分で思う以上に嬉しいのだと気が付いた。
大勢の人がいて、笑い声や話し声が絶えない賑やかな食卓。珠恵の家では、食事時に話をすることはあまりない。父がいる時は特に、食べながら話すこと、テレビを見ることなども禁じられていた。
時折口をひらく父が尋ねるのは、勉強や仕事、社会情勢の話で、息が詰まる食卓だった。
「ほら、風太の試験結果出てから決めてもいいんだけどね。もし落っこったりしたら面倒だから、今のうちに決めとこうかと」
「縁起でもないこと言わないで下さいよ」
「桜散る、風太も散るじゃ、皆気い使うからよ、お前ちゃんと受かれよ」
竜彦の言葉に、風太が心底嫌そうな顔をした。
「気ぃ使うなら今使って下さいよ、ったく、それ励ましてるつもりですか」
風太以外の皆は、その遣り取りに平気で笑っている。
「ま、この馬鹿が受かってるんだから、大丈夫だろ」
「バカって、俺のことっすか」
「他に誰がいるよ」
からかう対象が翔平へと移ると、皆の遣り取りにびっくりして固まっていた珠恵の膝を喜世子が軽く叩いた。
「変に気い使ったってしょうがないから」
そう言って笑う喜世子の言葉に頷いて、ようやく顔に笑みを浮かべた。
「あっ、珠ちゃん今、笑っただろ」
その瞬間を見計らったように、翔平から不満そうな声が上がる。
「えっ、あの、え?……ちがっ」
「いいよいいよ珠ちゃん、こいつが馬鹿なのは本当のことだし。そりゃ可笑しいよなあ」
「あ、あのっ、そんなんじゃありません、違うから、ね、翔平くん」
「ああぁ、珠ちゃんだけは俺の味方だと思ってたのに」
「んな訳ねえだろ。珠ちゃんは優しいからはっきり言わないだけだ」
「そんな、あの、違いますっ」
珠恵が慌てて言い繕う程、周りの皆が可笑しそうに笑う。不満気な声を出しながら、兄弟子達に言い返す翔平の声は明るいもので、珠恵も自分のリアクションを笑われることが嫌でないから不思議だった。
喜世子の方へ顔を向けると、なぜだか笑いながら、何度も頷かれてしまった。
ようやく標的から解放され、箸を動かしながら森川の方へとチラッと視線を送る。箸を動かす手を止めないまま珠恵を見た森川は、喜世子と同じような顔をして笑った。
「――ありがとう、ございました」
森川が駅前で車を停めるのを待って、珠恵はシートベルトを外し頭を下げた。
「いや。こっちこそ、ありがとな」
「いえ」
首を横に振りながら、降りなければと思うのに、何か話すことはないかと考えてしまう。
「あの……腕はもう、痛みませんか」
「ん? ああ。抜糸も済んだし、まあまだちょっと引っ張る感じがあるけど、痛みも随分ましになった」
昨日も聞いたことを、また尋ねていた。
「そう、ですか。よかった……」
「色々、心配掛けたな」
「いえ」
「そういえば――」
ふと、森川が真顔になる。
「あれから、図書館の方にあいつら来てないか?」
「え、あ……はい」
「そうか。まあ多分、もう来ねえとは思うけど、何かあったら言ってくれ」
何かがあったとしても、もう図書館のことで利用者である森川に迷惑を掛けるわけにはいかない。そんなことを思いながら、曖昧に頷く。
訪れた沈黙に珠恵が顔を上げると、森川と目が合った。今までだって車で送って貰ったことはあるのに、唐突に、狭い空間に二人だけで居ることを意識してしまい、言葉を繋げなくなる。
何か話さなければと思うのに、一度意識してしまうともうどうしようもなく、目を逸らして自分の膝を見つめる。
森川がまだこちらを見ているような気がして、顔を上げることができない。何か話して欲しいと思うのに、森川も口を噤んだままだ。きっと変に思っているに違いない。
トクトクと鼓動が耳元に響いて、息をするのが苦しくなる。
「……ぁ、の」
ようやく口を開こうとしたタイミングで、携帯が震える音がした。
「あ、悪い」
表示を確かめた森川が、そう言って電話に応答した。
「はい――あ、俺。いやまあ、何とかなりそうだ……え? ああ、受ける奴皆にか? 大変だな。ああ……頑張るよ。じゃあな」
受話器から漏れ聞こえてきた内容に、もしかしたら――と思っていた人の名前を、短い通話を終えた森川が口にした。
「ヨーデフ」
「先生、皆に電話されてるんですか?」
「そうみたいだな。でかい図体して、細かい気配りするって、生徒のおばちゃんが言ってたよ」
その言い回しが可笑しくて、小さく笑みを漏らす。
「いい、先生ですね」
「ああ」
「試験、落ち着いてできれば、きっと問題ありません」
「そうだな。福原さんも……いい、先生だったよ」
だった――と。そう言った森川の言葉が、短い家庭教師の時間の終わりを、告げた気がした。
母家を出る時、玄関まで見送ってくれた皆が、またいつでもおいでと口々に声を掛けてくれた。けれど、あそこを訪ねる理由があるのは今日までだった。
「あの……もし、よければ、結果を知らせて下さい」
「ああ、そうするよ」
頭を下げて、助手席のドアに手を掛けた。
「……なあ」
後ろから聞こえた声に振り返る。しばらく黙って珠恵を見つめていた森川は、小さく溜息のようなものを吐いてから、仕切り直すように口を開いた。
「いや、気を付けて、帰れよ」
「……はい」
少しだけ森川の顔を見つめ返してから、今度こそドアを開けて車を降りた。
ドアを閉めると、手を上げた森川に振り返すために手を上げる。小さく横に振った指先が、微かに震えた。
息を吸い込んでから、車に背を向けて駅へと向かう。構内に入る前に振り返ると、まだそこに軽トラックが止まっているのが見えた。もう一度頭を下げてはみたものの、フロントガラスの奥にいる人の姿は、ほとんど見えなかった。
ここ十日程の間、ほぼ毎日のように通ったこの駅も、もうそれほど利用することはなくなるのだ。そう思うと、胸がギュッと痛む。
電車から降りてきた人々がどっと改札口から出てきて、邪魔だというように、佇む珠恵を避けて行く。肩に当たった人に押されてもう一度振り返った時にはもう、森川の軽トラックはいなくなっていた。
――今日で、最後なわけじゃない。
花見に誘われたことを思い出し、珠恵は自分にそう言い聞かせながら、改札口を潜った。