本編《雨月》

第五章 雨とお守り1



 朝からカウンター業務に就きながら、仕事に集中しなければと思うのに、珠恵は気が付けばぼんやりと昨日のことを考えてしまっていた。
 この一週間はずっと、勉強の準備や復習に時間を割いていたため、寝不足が続いている。夕べもあれから家に戻って今日の準備に取りかかり、ようやく布団に入る頃には三時を過ぎていたが、横になってからもなかなか寝付けなかった。
 森川は、虫の居所が悪かったのだと詫びていた。けれど、やはり何か不機嫌になる原因があったはずだ。眠れずに悶々とするうちに、きっと気付かれたのだという考えに辿り着いた。珠恵が、森川を凄く意識してしまっていることに。
 一度そう思うと、もうそれが原因だとしか思えなくなり、思考が悪い方へ悪い方へと向かってしまう。
 図々しく押しかけて本当は迷惑しているんじゃないか、あれくらいのことで泣きそうになるなんて、面倒臭い女だと思ったんじゃないか――。
 否定しようと思っても、ほとんど珠恵と目を合わせることもなかった森川の様子を思い返すと、結局はまた同じ答えに行き付く。
 少しは、自然に話せるようになった気がしていた。けれど、男の人と気軽に話すらできない女が、電話番号を渡したり、勉強をみると押しかけたりして、本当はウザいと思われていたのではないだろうか。ただ、迷惑だとは言えないだけで。
 怪我に付け込むような真似をして、勉強を教えるとの名目で森川に会えることに、確かに浮かれている自分がいた。本当は迷惑だと思われていたのなら、恥ずかしくて消えてしまいたい。
 何を言われたわけでもないのに、一人で勝手に落ち込んでマイナスの思考にとらわれて。それに疲れようやくうつらうつらと眠れたのは、もう明け方近くになってからだった。

 昼休みに差し掛かり、ロッカールームで一人昼食を取りながら、食が進まず半分残したパンを袋に戻していたとき、扉が開いて板野が中に入って来た。
「あれ、今日は珠ちゃん一人?」
「はい、あの、木内さんは用事があって外で食べてくるって」
「そう。私、一緒していい? って、もう食べ終わった?」
「え、あ。はい」
 ロッカーから取り出した弁当箱を広げた板野が、テーブルに置かれた袋を見遣る。
「買い過ぎた?」
 中にパンが数個残っているのが見えたのだろう問い掛けに、曖昧に頷いた。
「食欲、ないの?」
「今日は、ちょっとあまり」
 箸を止めた板野が、手にしたタッパーの蓋を開けて目の前に置く。そこにはカットフルーツが入れられていた。
「果物なら食べられる? 持ってきすぎたから、よければ摘まんで」
「ありがとう、ございます」
 果物なら喉を通りそうだと好意に甘え、手渡されたカラフルな楊枝を受け取る。
「好きなだけ食べて」
 そう言って広げた弁当を食べ始めた板野は、珠恵よりひと回り年上の、今年小学校に入学する男の子をもつ母親だった。気さくで面倒見のよい姉御肌の女性で、珠恵がここで働き始めた時に直接指導してくれたのも板野だった。
「ね……何かあった?」
 咀嚼したご飯を飲み込んでから、そう尋ねてきた板野の声に、フルーツを摘み始めていた手を止める。
「え? 私、ですか」
 明らかに自分しかいないのに、間抜けな返事をしてしまう。
「うん。何かさ、珠ちゃん最近、楽しそうに見えたから」
「え?」
「ひょっとして、彼氏でも出来た?」
「いえっ、彼氏、なんて」
「違う?」
「そんな人……いないです」
 答える声が小さくなり、胸がツキンと痛む。
「じゃあ、好きな人、とか?」
 言われた途端頬が熱をもち、止めようと意識すればするほど、顔が赤くなるのがわかる。好きな人――と聞かれて、すぐに浮かんだのは森川の顔だった。
「あー、やっぱりそうなんだ」
 板野が、微笑ましいといった表情で珠恵を見つめた。
「いえ、あの……」
 慌てて否定しようとしたはずが、何故だか首を横に振ることができなかった。
「大丈夫、言いふらしたりしないし。でもいいなあ、そういうの。私はもういいけどね」
 楽しげに笑い、少し遠くを見るような眼差しをした板野から目を逸らして、珠恵は小さく首を横に振った。
「そういうんじゃ……」
 珠恵へと視線を向けた板野は、笑みを収め、微かに眉根を寄せた。
「でも。今日はちょっと、元気がない?」
 普段から大人しい珠恵が、いつもより落ち込んでいたとして、それに気付く人がいるとは思ってもいなかった。というより、わかってしまう程、落ち込んで見えるのだろうか。
 答えに詰まった珠恵を見ていた板野は、残りの弁当を平らげると、手を合わせてご馳走様と口にした。それから、珠恵が少し摘まんだフルーツに手を伸ばし始めた。
「ごめん。余計な事聞いた?」
「え……あ、いえ。あの……」
「根掘り葉掘り聞きたがるの、私の悪い癖だから、旦那にもよく叱られるの。気にしないで」
 気を悪くした風でもなく笑う板野に向けて、気付けば口を開いていた。
「本当は、少し、だけ……気になる人がいて」
「え?」
「でも、それだけで。それ以上は何も」
「そう。……そっか」
 静かに頷いた板野に、笑みを返す。それだけ――と自分で口にしておきながら、胸の奥が、また微かに苦しくなった。
「見てるだけでいいって人? 彼女がいるとか」
「よく、知らないんです。でも……多分」
 彼の近しい人達が口にしていた「いつもとは違うタイプ」という言葉を思い出す。真那も、森川はもてそうだしきっと誰かいるだろうと言っていた。
「そっかあ。でも、しんどいことも沢山あるけど、誰かを好きになるのっていいことだよ。珠ちゃん、少し雰囲気変わってきたもん。気付いてた?」
「え……?」
 自覚などなかったけれど、考えてみれば、森川と知り合うまでは、こんな風に色々な感情によくも悪くも振り回されることなんてなかった。自分の中に、知らない自分がいるみたいだ。
「その人がそうかわかんないけど。でもね、本当に好きな人が出来たら、上手くいってもいかなくても、その時の気持は大事にして欲しいって思う。そういうのって、一生にそう何度もあるもんじゃないから。何年経っても、思い出すと痛みだけじゃなくって何だか温かい気持ちになれる、自分だけの宝物みたいな……ってね。まあ私のそれは、旦那には内緒なんだけど」
 悪戯っぽく笑った板野は、立ち上がると珠恵の肩を軽く叩いて弁当箱を洗いに行ってしまった。
 深い事情を話した訳ではなかった。それなのにきっと珠恵のためにそんな風に口にした板野の言葉が心を揺らす。

 ――本当に好きな人。
 ここで顔を合わせ、ほんの少しずつ言葉を交わすようになって。ただ、もう少しだけ話をしてみたい、もう少しだけ親しくなりたい。そんな気持を、いつの間にか森川に抱くようになっていた。
 雨が降る日は、会えるかもしれないとドキドキした。見上げる空が、灰色に曇るのを待ち望む気持が確かにあった。こんな風に誰かを想って胸が痛くなったり温かくなったりするのも、初めてのことだった。
 苦い記憶がまた、頭の中を過り、胸の内で自嘲する自分も確かにいる。
 ――え、そんな子いたっけ?
 高校生の時、そう珠恵のことを口にしたクラスメイトの男の子。先生には少し反抗的で、けれど明るくて誰にも優しい彼は、クラスの男女共に人気があった。
 それほど機会は多くなかったにせよ、珠恵にも、他のクラスメイトと同じように気さくに声を掛けてくれた。だからきっと、少しだけ彼に憧れていたのだ。
 そんな、まだ恋にすらならない小さな想いは、同じその人の言葉で砕かれてしまった。
 自分のことは、自分が一番わかっているつもりだ。森川を好きになったところで、これから先この気持ちが成就する日がくるなどとは思っていない。森川のような男性が、珠恵を相手にすることなどないとわかっている。

 なのに、誤魔化そうとしても、いつの間にかこんなにも膨らんでしまった森川への気持ちはもう――恋だった。
 大事にして欲しいって思う、と言ってくれた板野の言葉を胸の内で噛み締める。
 自分に自信がなくても、森川に相手にされなくても。この気持ちを大切に出来るのは自分だけだ。
 夕べから堂々巡りをしていた思考が、ようやく、辿りつくべき場所を見つけた。
 今日も仕事を終えたら、森川の元へと急ごう。試験まではあと四日。珠恵が彼に勉強を教えられる日は、もうたった二日しかない。
 夕べのギクシャクした空気を思い出すにつれ、さっきまでは、訪ねることを躊躇う気持ちがまだ残っていた。けれど、板野の言葉が、珠恵を後押ししてくれる。
 もう少しの間だけ。せめて森川が試験に受かって、自分が少しは彼の役に立てたのかもしれないことがわかるまで。
 森川と過ごす時間とこの気持ちを、大切にしたいと。


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