本編《雨月》

第四章 雨と雨傘4



「はい、これで終わりだから、珠ちゃんも先に食べ始めて」
 喜世子に手渡されたおかずをお盆に乗せて食卓へと運ぶと、まずは親方がゆっくりとそれを自分の取り皿に取り分けるのを待って、皆が箸を伸ばす。珠恵は森川の向かいに用意された場所に腰を下ろして、喜世子が席に着くのを待っていた。
「ああ、ごめんね。さ、もういいからさっさと食べてよ」
「はい、いただきます」
 手を合わせて親方と喜世子に頭を下げると、ニッコリ頷いた喜世子が、さっそく目の前のおかずを珠恵の皿に取り分けてくれる。
「ありがとうございます」
 いくつも並んでいる大皿の料理が、みるみるうちに消えていく。
「ほら、珠ちゃん。遠慮してたら食べるものがなくなるよ」
 初めて夕飯を頂いたときは、皆の食べる勢いに圧倒されて、それだけでお腹がいっぱいになるくらいだった。学校以外でこんな大人数で食事をとるのは、職場の歓送迎会や忘年会くらいで、食卓の賑やかさに目が回りそうだった。
 仕事を休んでいるから余り食欲がないと言っていた森川が、次々とおかずを平らげていくのを見ながら、これで空腹ならどれだけ食べるのだろうかと目を丸くする珠恵を、喜世子が笑っていた。

 夕食を共にして一週間近くになり、徐々にそのペースにも慣れてきた。けれど、慣れた頃にはもう終わってしまうのだと思うと、寂しい気持ちになる。
 日によって、一寿は自宅に帰って食事を取るらしく居ないこともあったが、今日は一寿も、そしてここで食事を頂くようになってから初めて愛華も食卓の隅に座っていて、今までで一番大人数だった。喜世子の話だと、もっと大人数になることもあるらしい。
 いただきますのひと言もなく箸に手を伸ばした愛華を、「あいか」と、静かだがどこか鋭い声で呼んだのは、親方だった。食卓についた時から不貞腐れた表情を見せていた娘が顔を上げるのを、親方がじっと見つめている。
 口をへの字にしたまま黙っていた愛華が、しぶしぶといった感じで「いただき、ます」と言うと、親方の口元が微かに綻び、小さく頷くのがわかった。しん、とした空気が和み、皆が止めていた手を動かし始める。
 ――挨拶には、特にむちゃくちゃ厳しかった
 親方と喜世子のことをそう語っていた森川の言葉のとおり、ここで働く人達は皆、気持ちのよい挨拶ができる。初めて顔を合せて以来、珠恵の顔を見る度に必ず向こうから先に挨拶をしてくれる。いつも珠恵は、出遅れてしまったことに慌てるくらいだった。

 食事時、いつもならば頻繁に珠恵に声を掛けてくる翔平が、今日は殆ど無言で、そして森川も黙々とご飯を食べている。森川はいつもそれ程話す方ではないから、皆も大して違和感を感じていないようだが、流石に翔平が無口なのには気が付いているようだった。
「なんだ、お前今日は大人しいな。いつも珠ちゃんが煩がるぐらい話しかけてんのに」
 竜彦が揶揄するように口にする。
「あ、いえ、うるさがるなんて」
「無理して慣れない勉強なんてすっから、頭が回らねえんじゃねえのか」
 一寿もそれに加わって笑っていると、翔平が顔を上げずにムスッとしたまま答えた。
「別にいつもといっしょっすよ」
「一緒じゃねえだろ。てか何怒ってんだよ。翔平、お前なんか今日変だぞ」
「別に怒ってないっすよ」
「別にって、その言い方がすでに怒ってんだろ」
 隣に座る喜世子が話し掛けて来るのに相槌を打ちながらも、珠恵はその遣り取りが気になり、ハラハラしながら様子を伺ってしまう。顔を上げた翔平と目が合うと、ばつが悪そうにスッと視線が逸らされた。
「なあ風太、こいつ何かあったの」
 話を森川に振られて、ギョッとする。あの後、気まずい空気のまま勉強を終えていて、さっきから二人は必要最小限の言葉しか交わしていない。
「さあ」
「あれ、何かお前も機嫌わりい?」
「お前ら喧嘩でもしたか」
「してませんよ」「してないっすよ」
 そんな所だけシンクロした二人が、一瞬顔を見合わせてまた気まずそうに逸らす。
 いったい何が原因でこんなことになっているのか、理由はわからないけれど、もしかして自分が何かを間違ってしまったのだろうかと、胸が重くなり珠恵も箸が止まる。
「珠ちゃん、ほらこれも食べなよ。ほら、あんた達も口より手を動かして。ほら愛華、あんたこれ、好きだろ」
 皆の世話を焼きながら、喜世子がそれぞれの皿におかずを取り分けていく。
「あ、おかみさん、ありがとうございます。そういや久しぶりだな、愛華の顔見んの。お前も変な奴等とつるんでねえで家で飯食え」
「はあ? ウザい竜彦」
「お前いつも家で飯食う時は風太にべったりなくせに、今日はえらく遠いな。とうとう風太離れか」
「うっさいな、エロオヤジ」
「オヤジってお前」
 一瞥をくれてから言い返した愛華に、竜彦は「ひでぇ奴」と笑っている。
「ねえ……珠ちゃん?」
 声を潜めた喜世子に、軽く腕を引かれた。
「うちの子、あんたに何かしたの? さっきえらく風太に叱られて、珍しくちょっとしょげてたみたいだけど」
 驚いて森川の方を見たが、気がついていないのか、黙々とご飯を口にしていて顔を上げることはなかった。
「いえ、何も」
「そう、ならいいけど。我が儘だからね、駄目な時はちゃんと叱ってくれて構わないから」
 曖昧な笑みを返しながら、もう一度森川の顔をそっと見つめる。その珠恵の様子を、翔平が軽く眉根を寄せて見ていたことには気が付いていなかった。

 食後、珠恵が持ってきたみかんを頂くころには、さっさと自分の部屋に戻ってしまった愛華と、そして翔平も居間には姿が見えなかった。食べ終わった食器を片付けるのだけは手伝ってから、森川と共に母家を後にする。
 今日は車で送ると先に車庫へと回った森川は、やはり先程からずっとどこかよそよそしい。駅まですぐについてしまう車で送ると言われたことにも、早く珠恵を帰してしまいたいと思われている気がして、胸のあたりがチクッと痛くなった。
 しばらく待っていると、喜世子に送って貰った時と同じ軽トラックが目の前に止まる。
 駅に着くまでの車内でも森川はいつもより無口で、話し掛けても曖昧な返事しか返ってこないため、珠恵の言葉数も少なくなっていった。
「ありがとう、ございました」
 駅の手前で車が止まり、シートベルトを外してから森川に声を掛けた。こんな調子であと二日、森川を訪ねるのは却って邪魔になるのではないかと、躊躇ってしまう。
 いや、本当は――。何よりたったそれだけしかない時間を、こんな風によそよそしい森川とぎこちなく過ごすことになるのだろうかと思うと、怖かった。
 わからないけれど、きっと何か森川を怒らせるようなことをしたのだ。
「あの……ごめん、なさい」
「何で、謝る」
「あ、私……」
 微かに聞こえた舌打ちの音に、身体がピクッと動いてしまう。森川を怖いと思ったことはないのに、こんな風に苛立ったような声で問われると、途端に上手く話せなくなる。珠恵に向けられた森川の視線が、どこか気まずげに逸らされた。
「――悪い」
 ボソッとそう口にして、ハンドルに頭を凭れさせ息を吐く森川を、珠恵はボンヤリと見遣った。
「福原さんじゃ、ねえから。俺の態度が、悪かった。ちょっと……虫の居所が悪くて」
「……いえ」
 小さく首を振ってから、気に掛かっていたことをつい口にしてしまう。
「あの、私、何かした訳じゃ」
「違う。なんていうか、あいつに突っかかったのも、俺が……大人げなかっただけだ」
 あいつ、というのが翔平のことだとは、すぐにわかった。
「じゃあ、明日もあの、私……行っても、いいですか」
「ああ。おかみさんも楽しみにしてるし、俺だって助かってる。それに、翔平も……な」
 苦笑いしてからそう口にした森川の答えに、ずっと張りつめていた気が抜けて、安心すると同時に微かに唇が震えた。慌てて誤魔化すように、口元に力を入れて笑う。
「じゃあ、あの、また明日伺います」
 ハッとしたようにハンドルから顔を上げた森川から、視線を僅かに外してお礼を告げた。
「送ってもらって、ありがとう、ございました」
 助手席のドアを開けようと背を向けたとき、引き留めるように右手をぐっと掴まれた。驚いて振り向く珠恵に、森川が頭を下げる。
「――ごめん」
 泣きそうになったのがわかってしまったのだろうか、と、すぐに首を横に振る。こんなことくらいで泣くような面倒な女だと、思われたくはなかった。
「いえ、謝るようなこと……何も」
「いや」
 眉根を寄せたまま気まずそうな顔をしている森川に、笑みを浮かべてみせる。
「あの……あと少しだから。私も、ポイントもっとまとめてみます。それから、あの、明日の抜糸も。頑張って下さい」
 あと少しだから――そう自分で口にしながら、胸が痛む。
 森川に会いに行く理由があるのは、あとたった二日だけ。腕の怪我がよくなり試験が終われば、こうして訪ねる理由はもうなくなるのだ。
 握られたままの右手から伝わってくる温もりが、珠恵の胸をドキドキとさせていた。
「……ああ」
 その手が、ゆっくりと離れていき、後には早くなった鼓動と微かな痛みだけが残る。
「傷……綺麗に消えると、いいですね」
「そうだな」
 どこか上の空で返事をした森川から目を逸らし、珠恵は今度こそ助手席のドアを開けた。
「じゃあ、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ。気をつけて」
「はい」
「福原さん、帰ったら」
 その言葉に頷く。比較的早い時間に帰る日でも、家に着いたらそのことを知らせて欲しい、と森川に言われていた。きっと責任感からだろうけれど、珠恵は、いつも二、三言しか書かれていない森川から届いたメッセージを、何度も読み返していた。
 ――笑える
 愛華の言葉が脳裏を過り、また落ち込みそうになる。きっと愛華や彼女の周りにいる高校生の方が、珠恵よりずっとこういうことに慣れているだろう。つい漏れそうになる溜息を呑み込んで、もう一度森川に頭を下げてから、駅の構内へと向かった。
 改札の手前で足を止めて振り返る。
 視界の中に軽トラックは見えなくて、駅まで歩いて来たときには、いつも珠恵が階段を上がるまで見送ってくれる森川の姿が今日はないことに、淋しさを覚えながら改札口を潜った。


 駅から出てくる人ごみに紛れて、珠恵の姿が構内へと消えるのを見届けてから、風太は頭に手をやり髪をクシャリと握った。
 深く息を吐きながら、座席に凭れかかる。頭を過るのは、泣きそうな顔をしながら笑っていた珠恵の表情だった。
「何、やってんだ」
 小さくひとりごちもう一度溜息を吐く。ダッシュボードを開けてそこからタバコを取り出すと、最近あまり吸わなくなっていたそれを唇に軽く挟み、火を付けた。
 窓を開けて細く煙を吐き出しながら、込み上げた苦みがタバコのせいだけでないのはわかっていた。

 何にだかわからないが、無性に苛立っていた。ここ数日、腕の怪我のせいで仕事もできず酒も飲みに行かず、慣れない勉強ばかりしているせいだろうか。特に仕事ができないのは、思った以上に辛い。
 明日の抜糸が済めば、軽作業から復帰して構わないと吉永からは言われている。けれど三日後に試験を控えているため、親方からもおかみさんからも、復帰はそれが終わってからにしろと言われていた。
 だが、そういった理由があったとしても、だからといってそれは珠恵に八つ当たりをしていい理由にはならない。彼女にあんな顔をさせたのは、確かに自分だ。
 それでも、愛華がちょっかいを出すまでは、ここまでの苛立ちを感じてはいなかった。愛華が絡み始めた時も、初めは放っておけば言い飽きて出て行くだろう程度にしか思ってなかったのだ。
 愛華が知っているこれまでの風太の連れは、たいていが行きつけの飲み屋などで働く女性で、華々しくはあるが、皆一様に気が強いタイプが多かった。愛華が突っかかってみせたところで、歯牙にもかけず鼻であしらわれるのがオチで、愛華も、露骨に不機嫌な顔をして無視するのがせいぜいだった。
 珠恵は、そういったタイプの女性とは違う。そもそも、風太とはそういう関係ですらない。彼女のようなタイプは、庇護欲を掻き立てられるか嗜虐心を煽られるかのどちらかなのかもしれない。何も言い返さないことに、愛華は明らかに図に乗っていた。
 お世話になっている親方と喜世子の一人娘で、小さな頃から何かと面倒をみてきた風太にとって、愛華はいわば妹に近い存在だった。愛華くらいの年齢の頃、風太自身が明確な意図を持って、言葉や身体で人を傷付けていた過去だってある。
 だから、多少やんちゃをしても尖ってみせていても、そういう気持ちは理解出来なくはなかった。我儘を言っても憎みきれない。けれど、今日のはさすがに言葉が過ぎていた。彼女が愛華に傷付けられる理由など、何もない。
 珠恵が、男に慣れていないのだろうことは、なんとなく想像がつく。男に限らず、大人しく緊張しやすい性格だというのもわかる。
 愛華の言葉に、真っ赤になって顔を俯けていた。そんな彼女を見つめる翔平の視線。調子にのって追い打ちをかけるように揶揄する愛華――
 その場の空気にだろうか、邪魔をされたことにだろうか。無性に苛立ちが込み上げた。
 居間へと引っ張っていった愛華に説教する口調は、いつもなら拗ねて逆切れし、泣き出して終わるそれをさせない程、きつくなってしまっていた。風太が本気で怒っていると感じた愛華は、青ざめた顔をしたまま、ただ唇を噛みしめて俯いていた。
 ――あの……翔平君
 戻ろうとした部屋の手前で、中から聞こえてきた会話に足が止まった。珠恵に答える翔平の声は不満を含んでいて、風太は何となく部屋に入るタイミングを逃してしまった。
 意図したわけではなかったが、結果的に立ち聞きしてしまっていることに気まずさを覚えた。けれど風太が戻れば、珠恵はきっと言葉を呑み込んでしまうだろう。
 ――私ね、あの……人と話すのも、いつも凄く緊張するし……だから得意じゃなくって
 ――さっきみたいなことも全然、何て言うか、上手く躱せなくって……
 もしも今珠恵の目の前にいるのが自分だったら、彼女はそんなことを口にしただろうか。
 微かに珠恵が笑う気配がして、部屋の空気が柔らかく変わるのがわかった。いつもより砕けた口調で翔平に向けられた「ありがとう」という言葉も、心からのものだと伝わってくる。

 詰めていた息を静かに吐き出して、風太は暖簾を掻き上げ部屋の中に足を踏み入れた。目が合った瞬間、珠恵はぎこちない笑みを浮かべて、すぐに視線を逸らしてしまった。
 モヤモヤとした苛立ちを燻らせたまま、黙ってさっきまで解いていた問題に取り掛かったものの、さっきまで穏やかになっていた部屋の空気がまた少し重苦しくなるのを感じて、余計にそれが酷くなる。
 何も言わない風太に痺れを切らした翔平が口にした言葉は、そんな風太の気持ちを逆撫でた。翔平が怒るのも無理はない。喧嘩を売るような大人げない態度を見せたのは、自分の方だという自覚はあった。
 結局、珠恵が泣きそうな顔を見せたあの時まで、ずっと、不機嫌さを隠せずに八つ当たりのような態度を取り続けてしまった。うまく、取り繕うこともできなかった。
 ――飲みにでも行くか
 家に向かって車を走らせながら、もう一度溜息を吐いてぼんやりとそんなことを考える。けれど、わざわざ車を置いて再び出掛けるような気にはなれず、風太はそのまま母家にも寄らずに部屋に戻った。

 畳の上に仰向けに寝そべりながら、細く吐き出したタバコの煙を目で追う。
 傷ついたであろう珠恵をフォローした翔平に、食って掛かっただけでなく、何もしていない珠恵に八つ当たりして傷口に塩を塗った。
 情けなさと後味の悪さだけが、胸に残る一日だった。


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