勉強会が始まり、三日目には、なぜだかその中に翔平が加わっていた。
喜世子の遠い親戚だという彼は、中学を卒業すると同時に親方に弟子入りしたのだという。その親方が倒れたのは、彼がまだ働き始めたばかりの頃だったようだ。
だから、彼に実際に仕事を教え鍛えているのは森川を含めた兄弟子達なのだと、珠恵を駅まで送る道すがら森川が話して聞かせてくれた。
働いてもうすぐ四年になる翔平は、仕事をしながら、今度森川が受験する予定の定時制高校に通っているという。ちょうど学年末の試験が終わったところだったが、きっと追試を受けることになるからと、二人に混じって勉強を始めたのだった。
――ここの方が、なんでかやる気になるんだよなあ
まだ地方の訛りが微かに残るアクセントで、親し気な口調で話し掛けて来る翔平は、珠恵より年下なこともあって、弟と話しているようで珍しく話すのに余り緊張しない相手だった。
初めは煩さがっていた森川も、案外大人しくノートに向かっている翔平に、そのうち何も言わなくなった。
――俺でも受かんだから、大して勉強しなくて大丈夫っすよ
入学試験について翔平はそんな風に言っていたが、森川は先々のことを考えても、せめて入学までには最低限の基礎くらいは身につけておきたいのだと口にしていた。ボランティアで教えてくれている先生達のためにも、入学試験には絶対落ちたくないのだとも。
古澤家の母家で勉強会を始めてから、あっという間に一週間が過ぎた。珠恵が森川の勉強を見るのは、今日も含めてあと残り三日しかなかった。
「げっ、何これ、嫌がらせ?」
その日、珠恵がいる時間帯に久々に家に戻って来た愛華が、勉強会中の部屋を覗いて、机に置かれた参考書や問題集に目を移し顔を歪ませた。
――可愛い子は少しくらい崩れた表情をしてもやっぱり可愛いものなんだ……
珠恵は、そんなことを彼女の顔を見ながら考えていた。
「愛華、お前すんげえ変顔になってんぞ、今」
「うっさいな」
森川の揶揄にぞんざいに返しながら、愛華の視線が珠恵へと向けられる。愛想の欠片もない値踏みするようなその眼差しは、すぐに興味をなくしたように珠恵から逸らされ、また森川へと戻っていった。
「てか、マジで勉強とかしてんの?」
「そうだ。だから邪魔すんな」
「で、その人は何してんの、ここで」
「珠ちゃんが、俺らの先生してくれてんだよ」
「珠ちゃんって」
翔平の無邪気な答えを、愛華が鼻で笑う。翔平が珠恵をこう呼ぶのは、もうこの一週間ですっかり定着してしまっていた。
「あの、こんばんは」
間の抜けたタイミングで発した挨拶は、綺麗に黙殺された。
「愛華ちゃんも珠ちゃんに宿題見てもらえば? 凄えわかりやすいよ。ねえ風太さん」
「ああ」
お世辞だとわかっていても、くすぐったく嬉く思いながら首を横に振った。
「いえ……そんなこと」
「いやお世辞だし」
どうでもよさそうな口調で、愛華が言い放つ。その言葉に、胸の内を見透かされた気がして恥ずかしさに目を伏せた。
「お世辞じゃねえよ」
森川の声が耳に届き、咄嗟に顔を上げる。口元に笑みを浮かべた森川と目が合った途端、明らかにムッとした顔をした愛華が、割り込むように声を上げる。
「ねえ、勉強なんて今更やってもしょうがないって。仕事休みならどっか遊びにいこうよ」
甘えた声で強請りながら、椅子の後ろから森川の肩越しに抱きつく愛華の勝ち誇ったような視線が痛くて、珠恵は手元の参考書に目を落とした。
「ひっつくな。邪魔すんなって言っただろ」
「愛華ちゃん、俺が付き合おっか。ほら、風太さんは試験だし」
「うっさい。てか風太も学校とかもう行かなくたっていいじゃん、今のままでもさ、私が婿に貰ってあげるって。そしたら風太はここの跡継ぎになれるし」
「はいはい、お前が乳臭えガキじゃなくなったら考えてやっから、手、離せ」
「ガキじゃないもん。ってかさ、その人のがよっぽど乳臭いじゃん。ねぇ……ひょっとしておネーサンってさ、処女?」
「……愛華」
火が出そうなほど顔が熱くなるのがわかった。こちらを見た翔平と一瞬視線が交わり、咄嗟に目を逸らしたが、却ってそれでは肯定したようなものだ。
「えっ、うそっ、マジで?」
大げさに驚いてみせる愛華の声が耳に響く。恥ずかしさに、珠恵は今すぐここから消えてしまいたかった。
「超笑えるんだけど」
「愛華、いい加減にしろ」
「だって風太、この人いくつよ。ありえなくない?」
流石に場の空気の悪さを感じたのか、翔平までもが愛華を嗜めるように口を挟む。
「愛華ちゃん、ちょっと」
「ね、今度誰か紹介したげよっか」
「おいって」
「あ、翔平、今彼女いないからちょうどいいじゃん」
「ちょっともういい加減にしなよ」
「誰とでもやりゃいいってもんじゃねえだろ」
怒ったような翔平の声に、呆れた口調の森川の言葉が重なる。同時に、椅子から立ち上がる気配と愛華がどこかにぶつかったような音がしたが、顔を上げる勇気は珠恵にはなかった。
「いたっ、ちょっ風太」
「ほら、廊下出ろ」
「腕痛いって」
「ちょっと来い」
森川に引き摺られるように二人が出て行き、部屋の中が静かになる。小さく息を吐いてそっと顔を上げると、困ったように眉根を寄せた表情でこちらを見ている翔平と目が合って、また視線を逸らした。珠恵には、自分の顔が羞恥のため赤くなっているのか青くなっているのかも、もうわからなかった。
「あの……さ、愛華ちゃん、風太さんに小っさいときから懐いてべったりだったみたいで、だから、もともとワガママなとこあるけど、風太さんには特にそうだし……多分邪魔したいだけだから、あんま気にすることないって」
「――いえ……あ、の、ごめん、なさい」
「や……謝られても」
気を遣わせていることに申し訳なくなり、つい謝ってしまう。翔平も気まずいのだろう、さっきからチラチラとこちらを見ては視線を逸らすことを繰り返している。
――超笑える、ありえなくない
森川や翔平の目の前で投げつけられた言葉に、思った以上に傷ついている自分がいる。そういう言葉を、大して深い意味も躊躇もなく使う年頃の高校生が言ったことだ。けれどそれだけに、珠恵にはそれが皆が口に出さない本音のように思えて、どうしようもない恥ずかしさが込み上げた。
「……も、ねえから」
少しの間を置いて、俯き加減の珠恵の耳に届いた翔平の呟きの意味がすぐには分からず、ゆっくりと顔を上げる。頬から耳を赤くした翔平が、ノートの上を見つめたままもう一度繰り返した。
「俺も……ねえし」
「え……?」
「だから」
顔を上げた翔平がこちらに顔を向けて、でも視線は微かにズラしたまま苦笑いした。
「俺も、そうだから。風太さんも知ってんだけど……。だし、別に笑えるとか、そんな風に見たりしねえし」
「あ……う、ん」
この話題が続くことも、もう辛いと感じていた。年下の男の子に、こんな風に気を遣わせていること自体、情けない。まだどこか少し田舎っぽさが残っているとはいえ、見た目も性格も充分にモテそうな翔平の言葉を、初めは本気にせず慰めだと思っていた。
けれど彼の恥ずかしそうな、そしてどこかぎこちない様子を見ていると、それが本当のようにも思えてくる。もしもそれが本当ならば、この年頃の男の子がわざわざ人に言いたくないだろう告白までして自分を慰めてくれたのだと思うと、やめて欲しいとも言えず、どうにも居た堪れない気持ちになる。
ただ翔平のそんな優しい気持ちだけは、確かに嬉しかった。
「――てか、いくらなんでも風太さんも好きに言わせ過ぎだよな、あれ」
「そんな、ことは……」
首を横に振りながら。珠恵は、別に悪いことをしているわけでもないのに、愛華の言葉を上手く躱すことすらできず、ただ振り回されているだけの自分が、一番情けない気がした。
出て行った森川は、まだ戻って来ない。
愛華にはあんな風に言っていたが、本音ではどう思っただろうか。珠恵が元々、慣れた風に人と話すことが苦手なのは、もう今更隠しようがない。だから、やっぱりそうかと内心笑っただろうか。それとも、初めから関心などないから何も感じなかっただろうか。
そんなことを考えるうちに、じんわりと涙が込み上げそうになって、慌てて瞬きをして唇に力を入れた。
「じゃ、あの……続き、しよっか」
何か言いたげに珠恵を見ていた翔平は、曖昧に頷くと、ノートを引き寄せて問題を解き始めた。そのペンの動きを視界の隅に捉えながら、赤ペンを強く握り、気持ちを切り替えようと自分に言い聞かせていた。
しばらくすると、翔平がノートから顔を上げた。
「でき、たっ、と。これでどう?」
順を追って答え合わせをしていくと、間違いが見つかる。
「えっとね、これ、ここだけ、ちょっと使う公式が違うかな」
「え」
「それね、これが――こっちだから」
「あ、ああ、そっか。こう?」
「あ、うん。それが正解。でも、凄く惜しかったね」
「テストの前に教わっときゃ、パーフェクトだったのに」
「うん、そうだね」
翔平とそうやって話をしていくうちに、強張りが少し解れていく。まだ多少ぎこちなくはあるが、珠恵は笑みを浮かべることができた。
「あの……翔平君」
「ん?」
「ごめん、ね」
「……何が?」
「いい年して、年下の翔平君に気を遣わせて」
「年とか、そんなの別に関係ないし」
「私ね、あの……人と話すのも、いつも凄く、緊張するし、だから得意じゃなくって」
「それだって、人それぞれだろ」
「さっきみたいなことも、全然、何ていうか……上手く躱せなくって」
「多分俺でも、上手くなんて躱せねえよ」
ボソッと、ぶっきらぼうな口調でそう言った翔平の横顔を見つめた。
「あの……ありがとう」
「えっ、あっ、いや」
いつもの人懐っこい、けれど少し照れたような顔をした翔平が、頷きながら次の問題を解き始めた時、暖簾を掻き上げて森川が部屋に戻って来た。真正面で視線がぶつかり、ぎこちない笑みを浮かべながら少し俯く。
ドサッと目の前に腰を下ろした森川は、さっきよりもどこか機嫌が悪そうに見えた。気まずさに、珠恵の方が顔をまともに見ることができずにいるから、そんな風に感じるのだろうか。
何も言わず、元々解いていた問題集を開いて答えを書き始めた森川は、時折手を止めて疑問点を珠恵に確認しはするが、目が合ったのは部屋に戻って来たときの一度きりだ。
何事もなかったかのように淡々と勉強を進める森川に、内心はホッとしていた。もしも今、何か慰めるような言葉を言われたり謝られたりしたら、きっと余計に惨めな気持ちになる。
けれどそんな気持ちと矛盾するように、心の片隅では、何も触れられないことにどこか虚しさに似た感情も覚えていた。
静かな空間に、解答を書きとめる音だけが、妙にはっきりと聞こえていた。と、突然ノートの上にシャーペンを放り出した翔平が、口を開いた。
「何か、ねえの?」
いつもより尖ったその声に驚いて、珠恵は、顔を上げた森川と翔平とを見遣った。
「愛華ちゃん、あそこまで止めなかったの風太さんだろ。あんな言いたい放題言われて、珠ちゃんが何も思わねえわけが」
今度こそ明らかに不機嫌そうな顔で翔平を見つめたまま、森川は口を開こうとはしない。
「わかってんでしょ、俺が言いたいこと」
「――わからねえな」
「あのっ、翔平君、いいから」
「いいって、何がだよ。さっきだってほんとは泣きそうだっただろ」
森川の目が一瞬珠恵の方に向けられるのに、慌てて首を横に振った。
「そんなこと、ないから。あの、ね、もうやめよう」
翔平の腕を掴んで揺する珠恵の目に映ったのは、睨むように森川を見ている翔平と、同じような目で彼を見返している森川だった。いつも、砕けてはいても森川に敬語を使っている翔平が、けんか腰で言葉を発している。剣呑とした空気に、心臓が絞られるようにドキドキし始めていた。
いつもと同じように、穏やかに、時には小さな笑いも交えながら始まった時間だったはずだ。それが、どうしてこんなことになっているのだろうと、張り詰めた空気に息が苦しくなる。
「ね、時間、足りなくなるから。翔平君、あの、私が来るのもうあと二日だし、だから今のうちにね、ちゃんと出来るところまで」
とにかく、どうにかこの場を取り繕わなければと必死だった。腕を引いた珠恵に向けられた翔平の顔が、やがて少し気まずそうに逸らされる。
「あ、あの、森川さんも。……それ、さっきの続き、解いてみて下さい」
険しい表情のまま、珠恵と翔平の間あたりに視線を向けている森川にも声を掛けるが、反応が返ってこない。
「もりかわ、さん? あの……」
「――ああ」
視線を逸らした森川も、そして翔平も、明らかに不穏な空気をまとったままで、それでも二人がノートに向かったことに、ようやく少しだけ珠恵の肩から力が抜ける。
結局、食事の用意ができたと喜世子が呼びに来るまで、気まずい空気が漂った状態で、その日の勉強会を終えた。