「悪かったな、うるさくて」
「いえ、にぎやかで、凄く、あの……楽しそうでした」
「楽しそう……てか、皆バカ言ってばっかだけどな」
クッと笑う森川の横顔をそっと見上げる。なぜかその拍子に、今、穏やかに笑みを浮かべるこの人の身体に彫り込まれた刺青の存在を思い出した。じっと見つめ過ぎてしまっていたのか、不意に向けられた視線から、何となく後ろめたくて目を逸らしてしまう。
「――親方な」
しばらく黙って歩いていた森川が、ポツリと口にした。
「はい」
「手、あんまり力、入ってなかっただろ」
さっき握手をした親方の手を思い出しながら、返事を躊躇っていた。少し引きずった足とゆっくりとした口調。もしかして、と思っていた疑念に森川が答えた。
「三年程前にな、倒れて。右側に麻痺が残ってんだ」
「……はい」
上手く返事ができない自分がもどかしい。けれど、その時のことを思い出しているのか、少し険しくなった森川の表情からは、珠恵に何か言葉を求めている様子は感じられなかった。
「でも、あの人は凄えよ。医者に、現場に戻るのは難しいって、リハビリは何年かかるかわからないし同じ仕事はできねえって……そう言われたのにな。一年で現場に戻ってきた。利き手じゃない左手でも、俺らよりよっぽど上手くノミを使う」
その口調からは、親方に対する敬意が伝わってくる。
「俺らにはまだまだ負けんって」
森川が、珠恵を見て微かに笑みを浮かべた。
「だから、森川さんも左手が?」
「まあ、な。しょせん真似事に過ぎねえけど」
「尊敬、してるんですね」
足を止めた森川は、しばらく黙って珠恵を見つめてから、視線を持ち上げた。
「尊敬……っつうか、一生、頭が上がんねえなあの人には。俺みたいなの引き取って、まあ、いろいろ、な」
――いろいろ
きっと、今までのいろいろを思い出しているのだろう森川に、本当はそれを聞いてみたい。けれど、やっぱり聞くことは出来なかった。
口を噤んでしまった森川の後ろをついて歩きながら、駅から家路につく人々の流れに道を譲るうち、少し距離が開いてしまう。追いつくために速足になると、振り返った森川が足を止めて珠恵を待っていてくれた。
「っすみません」
追いついた珠恵が森川を見遣ると、彼が頬に手を当てて空を見上げた。
「――雨」
「え?」
問い返した途端、珠恵も手の甲に雨粒が落ちるのを感じた。
「結構降ってきそうだな」
道行く人も、慌てて走り出したり傘を取り出して差し始めている。
「走るか」
「あ、あの私、傘、持ってます」
鞄から折り畳み傘を取り出し広げてから、やはり二人で差すには小さいだろうかと、森川を見上げた。珠恵が広げた傘を手に取ってかざした森川のゴツゴツとした手には、小さな薄いピンク色の傘は不釣り合いで、何だかおかしい。
「すみません、小さいですね」
「いや、無いよりましだろ。悪いけど、こっち歩いてくれるか」
怪我をしていない左手で傘を持つために、左に回るように言われる。歩き始めてすぐに雨脚が強くなってきた。身体の右側が森川の腕に触れる度、そこばかり意識してしまう。距離を取ろうとして、珠恵は傘が自分の方に傾けられていることに気が付いた。
「怪我が、濡れます」
傘の柄を少し強く右側に押すと、驚いたように珠恵を見遣った森川が苦笑いする。
「いや、これくらい大丈夫」
「駄目です。私は、少し位濡れても平気です。森川さん、ちゃんと怪我が濡れないように差して下さい」
目を丸くした森川に、強く言い過ぎてしまったかと途端にしどろもどろになる。
「あ……の、すみません、でも、また、熱が出たら」
「わかったよ」
微かに笑みを漏らした森川が、傘の柄を右手に持ち替えると、空いた左手が珠恵の左肩に廻り少しだけ引き寄せられる。心臓が肩に付いているんじゃないかと思うくらい鼓動が跳ねて、固まって何も言えなくなった。
「じゃあ、なるべく二人とも濡れねえように、嫌だろうが駅までもう少し俺の方に寄って貰えるか。あと鞄は抱えて」
「……は、い」
左手に持っていた鞄を胸の前で抱える。身体の右側が、森川の腕というよりも胸に近い場所に触れている。廻された手が珠恵の肩を離れて、再び傘を左の手に持ち直した森川に寄り添い歩き始めても、何を話していいのかわからずに、口を開きかけては閉じていた。
ドキドキして苦しくて、頭も逆上せたようで落ち着かなくて。それなのに、離れたいとは思わなかった。ただ同時に、きっと慣れている森川にとっては、こんなのは何でもないことなのだろうと思うと、少し悲しくなった。
駅前まで来ると、雨宿りをする人や傘を差して歩き出す人、スーパーに駆け込む人などでいつもより混み合っていた。森川と離れて高架下に入り込み、緊張を解すように小さく息を吐き出しながら、さっきまで側にあった体温が消えたことに、ほんの少し心許なさを覚えた気がした。
「あ……」
傘を畳もうとしていた森川が上げた声に、隣を見遣る。ばつが悪そうな表情をした森川が、珠恵を見下ろした。
「悪い、どうも傘、潰しちまったみたいだ」
傘を畳む時に引っかかったのか、骨が一本真ん中から外れ逆方向に折れてしまっている。
「安物だから、気にしないで下さい」
「や、でもこれ、すぐにやみそうにないしな」
「大丈夫です、差せないことはないから」
笑みを返すと、少し思案顔を見せた森川が正面にあるスーパーを指さした。
「そこで調達するか。俺も買って帰るつもりだったし」
「え、あ……でも、私はいいです」
「いいから」
少し強引に腕を引かれて、走りながらスーパーへと入って行く。店内ではちょうど降り始めた雨に合わせて、ビニール傘やそれ以外の色とりどりの傘が乗ったワゴンを入口近くに移動させていて、結構な人だかりができていた。
「それこそ安もんで悪いけど、ないよりはマシだろ」
遠慮している珠恵に、森川がいくつかの傘を手に取って見せていく。ビニール傘でいいという言葉は無視されて、迷いながら自分でも何本かの傘を手に取るでもなく見ていた。
「なあ、これとかどうだ」
森川が手にしていたのは、幾何学模様が綺麗な淡いグリーンの色合いの傘だった。多分自分では選ばないであろうそれが、もう一番いいような気がしてくるのだから不思議なものだ。
「あんたに合いそうな気がするけど」
「あ……はい。じゃあそれにします」
「俺が言ったからって、好きなの選んでいいんだぞ」
「いえ、それが。とても綺麗です」
「そうか。じゃあ、これで」
グリーンの傘と自分用のビニール傘を手に取った森川が、レジへと向かっていく。珠恵は慌てて後を追いながら、鞄から財布を取り出した。
「あの、それ私が」
「いいって。壊したの俺だし」
「でも」
「恐縮してもらうほど、高級なもんじゃねえしな」
レジ周りに並ぶ人達が、二人の遣り取りに何気なく視線を送っているのに気が付く。一度引き下がって後でお金を払おうとしたが、森川はそれを受け取ることはなかった。
改札で明日の約束をして、別れる。駅の階段を上がりながらそっと振り返ってみると、まだそこに森川が立っていた。
躊躇いながら、小さく手を上げてみる。不慣れでぎこちない珠恵の仕草に応えるように、傘を持つ左手を上げた森川に、もう一度頭を下げた。
手にした傘を何度も見遣りながら、エスカレーターに乗る直前にもう一度改札口に視線を向けた。そこにはもう森川の姿はなくて、少しだけがっかりしながら、ホームへと続くエスカレーターに乗り込む。
右手に握ったグリーンの綺麗な傘。折り畳みのピンク色の傘は、修理してみるからと森川が持って帰ってしまった。
胸がトクトクと鼓動を刻んでいる。電車に乗り込んでからも、絶対に忘れたりしないようにと、傘を握った手に力を込めていた。
今まで、雨が好きだなんて思ったことはなかった。けれど森川と出会ってからは、雨の日は珠恵にとって少しずつ特別な日になっていた。
電車の窓ガラスを濡らす雨を見つめながら、買ってもらった傘を差してみたくて、この雨が家に帰り着くまでずっと降り続いていて欲しいと、心の中で願っていた。