「ただいまぁっす」
威勢のいい声が玄関から聞こえたと思うと、部屋の入口にある暖簾をかき上げて顔を覗かせた若い男の子が、珠恵を見つめて驚いたように目をパチパチさせている。
「あ、あの」
椅子から立ち上がろうとした珠恵を、向かいに腰掛けていた森川が制し、左手に持っていた鉛筆をノートの上に転がすと、後ろを振り向いた。
森川のところへやって来た初日の今日は、珠恵が早番シフトの仕事を終えてからここを訪ねて来たため、勉強を始めて一時間が過ぎる頃には、夕飯が始まるような時間帯になっていた。
利き手を怪我している森川を心配していたが、彼は、あの時独り言のように呟いた言葉のとおり、左手を器用に使って、少し時間をかけながらもノートに鉛筆を滑らせていた。
勉強会用にと借りていた部屋を覗き込んだその人は、珠恵よりも若くて、高校生位に見える。無造作に跳ねさせた茶色い前髪を摘まみながら、「お客さんっすか」と、視線をテーブルの上に落とす。
と、広げられたノートや参考書を目にして、明らかにギョッとした顔をした。
「つか、何して、それっ」
呆れたように溜息を吐いてから、森川がこちらへと向き直る。
「この間抜けな面してんのが、翔平。俺と同じでここで住み込みで働いてる。俺の向かいの部屋の住人」
そう彼のことを紹介され、今度こそ立ち上がり、まだ引き攣った顔をしている翔平に頭を下げた。
「こんばんは。あの、私……」
「しばらく俺の家庭教師してくれることになった福原さんだ」
説明に行き詰まった珠恵の代わりに、森川が紹介をしてくれた。
「カテーキョーシ……ってことは、マジで勉強教えて貰ってるんすか」
「見りゃわかんだろ。悪い、こいつも俺と一緒でバカだから気にしないでくれ」
「ちょっ、風太さん、バカってそりゃ言い過ぎっしょ」
「間違ってねえだろ」
森川の言葉に少しだけ不満そうに口を尖らせた翔平が、再び何かを言いかけたとき、背後から彼を呼ぶ喜世子の大きな声が聞こえて来た。
「翔平っ、あんたも戻ってるんだろ。早いとこ手洗ってこっちを手伝いな。もしかしてあんた風太の邪魔してんじゃないだろうね」
「うわっ、いやいや、してませんって。邪魔なんて……ねえ」
後ろから現れた喜世子にまさに首根っこを掴まれ、身体を仰け反らせながら同意を求めた翔平を、「邪魔してるだろ」と森川がバッサリと切り捨てた。
「えぇっ」というような顔をした翔平が、今度はその矛先を珠恵に変え、目で訴えてくる。
「あ……の、え、っと」
どう答えたものか狼狽えていると、翔平の後ろから顔を出した喜世子が、珠恵に話しかけてきた。
「このバカのことは放っておいて、珠ちゃん。あんたも夕飯食べて帰るだろ」
「え、あっ……あの、私」
「おっ、いいっすね」
「あんたは関係ないだろ。あ、遠慮はいらないからね」
あちこちを交互に相手にする喜世子について行けず、ついオロオロとしてしまう。少し顔を俯けると、下からこちらを見上げた森川が、どこか笑いを噛み殺したような顔をした。
「あ、の、ありがとうございます、でも」
屈託のない誘いに甘えたい気持ちはあったが、流石にそれは図々しいだろうとも思う。それに食事を済ませてくると言って出てこなかったので、家では、母が夕食を作ってくれているだろう。
ハッキリ答えなければ、このままの流れでは、断るタイミングを逃してしまいそうだった。
「あの、でも――すみません」
「ほら、翔平あんたは洗面所。ん、どうしたの?」
翔平を廊下の奥に押しやった喜世子が、珠恵を問うように見遣った。
「家の人が飯、作ってんじゃないのか」
グズグズとしている珠恵に、助け舟を出したのは森川だった。
「え、そうなの?」
「あ、はい、すみません、食べて来るって言ってなかったので。あの、でももしかして、私の分余分に」
「いや、それはねえから気にしなくていい」
気になって口にしかけた問いに返事をくれたのは、また森川だった。その答えに喜世子も頷いている。
「そうそう、うちは大食いの男所帯だからね。いっつも多めに作ってあるんだよ。けどそうか、そうだね。珠ちゃんをうちの娘と一緒にしちゃ駄目だったね。あの子は夕飯いるかいらないかなんて連絡して来やしないもんだからつい」
「すみません、あの、お誘い、ありがとうございました」
「いや、謝ることはないよ。こっちこそ悪かったね。でも風太、あんたも気い利かせてちゃんと言っておかないからだよ」
「え、俺ですか」
「そうだよ。ほんと男どもは駄目だね、気が利かない」
珠恵に目線を送った森川が、小さく苦笑いする。
「じゃあ、明日からここへ来る日は夕飯いらないって家の人に言っておいで。大したもんはないけど、一緒に食べて帰りなね」
目の前で頷く森川と、わかったかと確かめるような顔をしてみせる喜世子に、気がつけば頷き返していた。
「はい、あの、ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えて」
満足げに頷き、台所に戻って行った喜世子の翔平を呼ぶ声が、居間の方から聞こえる。
「おかみさん、強引なとこあるから、無理しなくていいからな」
まだ少し口元に笑みを浮かべたまま、森川がそう口にした。
「あ、いえ、無理とかじゃ……でも、やっぱり図々しいですよね」
「いや、そりゃねえよ。あの人があれだけ言うんだから、本当に食べてって欲しいんだ」
「そう、でしょうか」
「毎日ムサイ男ばっかだから、あんたみたいな女の子がいると皆も喜ぶ」
「いえ……あの」
慌てて首を振りながら、珠恵を女の子だと口にした森川の言葉に、顔が赤くなる。何も特別なことを言われたわけでもないのに、そんな言葉だけでもう、恥ずかしくなる。
小さくなってしまった珠恵の耳に、微かに森川の笑う声が聞こえた気がした。顔を上げると、気のせいか思いがけない程優しい笑みを浮かべた森川と目が合って、また頬が熱くなる。
さっきよりも鼓動が早まり、すぐに目を伏せてしまった。
「じゃあ――もうひと踏ん張りするか」
伸びをして、「痛てっ」と顔をしかめてから、もう一度問題の続きに取り組み始めた森川の表情は、もう普段のそれに戻っていた。
それなのに、珠恵の耳の奥には、まだ、胸を打つ鼓動の音が響いていた。
「あの、まだ今日は早いから、本当に一人で大丈夫です」
初日の勉強を終えて、珠恵が帰り支度を整えると、当然のように森川が駅まで送って行くと言う。まだ怪我だって治っておらず、お腹も空いているだろうからと、必死で辞退する珠恵の言葉は、全く聞き入れて貰えそうになかった。
「ちょっと待っててくれ」
そう言って玄関に珠恵を待たせたまま、奥の居間へと入って行った森川が戻ってくると、後ろからゾロゾロと人がついて出て来た。
喜世子、さっき紹介された翔平、それ以外に男性が三名、廊下にひしめき合うように立っている。
「皆が珠ちゃんに会いたいって言うから。もうさっきから、勉強してるとこ覗こうとするの、必死で止めてたんだよ」
視線を痛い程感じて、緊張と恥ずかしさでぎこちなくなりながら頭を下げた。
「あ、あの……初めまして。福原珠恵です」
「ほら、あんたらがジロジロ見てるから、珠ちゃん真っ赤になっちゃったじゃないか」
「いえ、あの、すみません」
頭をペコペコと下げながら、耳まで赤くなっていくのを自覚していた。
「いや、むしろおかみさんのそれが追い打ちかけてるでしょ」
翔平でも森川でもない、少し低音の掠れた声が聞こえて顔を上げる。翔平の後ろから顔を覗かせた、タオルを頭に巻いた男性と目が合った。
「今喋ったのが、俺の先輩の斉藤竜彦さん。竜さんって呼んでる」
いつの間にか玄関に降りて隣に並んだ森川が、少し屈んで珠恵にそう小声で紹介する。手を上げたその人に向って頭を下げると、竜彦が翔平を小突いて後ろへと下がった。入れ替わりに、小柄な、けれど引き締まった体躯の年配の男性が後ろから出てきて、喜世子の隣に並んだ。
「この人が親方」
「はい、あ、あの、初めまして」
一目見ただけで、職人だとわかる独特の強いオーラを持ったその人は、どこか気難しげな表情のまま、珠恵を見つめて小さく頭を下げた。
「お父ちゃん、この子が例の珠ちゃん。今日からしばらく風太の先生して貰ってるんだよ」
愛華の歳を考えてみても、喜世子とは少し年齢が離れているのだろうか。白髪交じりの短い髪をしたその人は、ニッコリ笑う喜世子からもう一度ゆっくりと珠恵に視線を戻した。
「あの――この度は、森川さんに、この様な怪我を負わせてしまって、本当に……申し訳ありませんでした」
「あ、いや、それはもういいって」
困惑したような森川の言葉を聞きながら、目の前で厳しい表情で珠恵を見つめる男性に頭を下げた。
「珠ちゃん、もういいから。この子がドジ踏んだだけなんだし」
喜世子が口にしたその時、頭を下げている珠恵の目の前に、黒く日に焼けた、あちこちに小さな傷跡が残る手が伸ばされた。ずっと、自分の腕を頼りに仕事をしてきた人の、存在感のあるゴツゴツとした手が、微かに震えて見える。
咄嗟に顔を上げると、さっきまで鋭い顔をしていたその人の目が、どこか優しげな笑みを浮かべた気がした。ほら、というように、珠恵に延ばされた手が上下に動く。
喜世子を見上げると、笑って頷き返される。手を伸ばして、分厚いその人の手をそっと握った。
「ふうた、を……よろしく」
しゃがれた声はどこか少し舌足らずで、見上げた珠恵が手を離す瞬間、僅かにその人の耳が赤くなっているのに気が付いた。そのことに、自分の緊張が少し解れるのがわかる。
「あんた、耳真っ赤だよ」
ケラケラと笑う喜世子に「うるさい」と言いながら、居間へと戻って行く親方が、僅かに足を引きずっていることに、その後ろ姿を見ていて気がついた。
「じゃあ珠ちゃん、明日は夕飯一緒だからね。風太、責任持ってちゃんと送ってくんだよ」
珠恵と風太にそう声を掛けた喜世子も、親方に続いて居間へと戻っていった。
「や、だからおかみさん、親方にまで余計なこと指摘しすぎだって」
苦笑いしながら竜彦がボソリと呟いた。
「あ、へえ、明日から飯一緒なの、ふうん……風太に勉強をねえ」
恐らくこの場に居る中では一番年長と思われる、顎に髭を生やしたガッシリとした体格の男性が、珠恵に声を掛けながら翔平からの説明に相槌を打っている。
「親方の一番弟子の南方一寿さん。カズさんはもう独立してるんだけど、今回は助っ人で来て貰ってる」
「あ……もしかして、森川さんの怪我で」
「ああ」
頷いた森川から、カズさん、と呼ばれた人へともう一度視線を戻した。ニッと唇の片側を上げて笑うその人の横から顔だけを出した翔平が、人懐っこい笑顔で珠恵に問い掛けた。
「じゃあ、しばらくメシ食って帰れんの」
「あ、はい。あの、お邪魔でなければ」
「邪魔なわけねえじゃん。最近メシ時愛華ちゃん居ないし、ヤローばっかで何か潤いがなかったんだよなー」
笑いながら答えた翔平に、すかさず一寿が突っ込む。
「おい翔平、お前それおかみさんに失礼だろ」
「お前今ヤローばっかって言ったよな」
「いや、いやいや、そりゃ言いましたけど。だっておかみさんは、ほら」
「なんだよ、女じゃねえとでもいうのか」
「えぇ、いや、そうじゃないけど、あ、てか、おかみさんに余計なこと吹き込まないで下さいよ、頼んますから」
「どうすっかなあ」
「カズさん、ちょっと今度可愛い子紹介しますから」
「お、マジで」
「いいんすかーカズさん、美和ちゃんに言いつけますよ。つか翔平お前、人に紹介してる場合かよ。てめえのことが先だろうが」
「おっ、俺は作ろうと思えばいつでも」
目の前で繰り広げられる会話にあっけにとられていると、「美和さんってのは、カズさんの奥さんな」珠恵にそう小声で説明をした森川が、まだじゃれ合うように口をきいている三人を見て、軽く溜息を吐くのが聞こえた。
「この馬鹿達は置いといて、行くか」
「え……あ、の……」
言葉尻を濁していると、馬鹿と呼ばれた三人がピタリと会話を止め森川を睨みつけた。
「お前、先輩に向かって馬鹿とはなんだ」
「そうっすよ、さっきも俺のことバカって言ったし」
「いや、お前は馬鹿だからしょうがねえだろ」
「ひどっ、ちょっとひどいって思わねえ? たまちゃん」
翔平が珠恵のことを『珠ちゃん』と呼んだ途端、口が止まった皆の視線がこちらを向くのがわかり、また狼狽えてしまう。
「お前が珠ちゃん言うな」
そして、珠恵から翔平へと視線を移した三人の兄弟子から、一斉に翔平に向けて軽いパンチが飛んでいた。