本編《雨月》

第三章 雨といちご6



「感心感心、ちゃんと消毒に来たんだな」
 夕方近くに目が覚めた風太は、母家の風呂でシャワーを浴びてから吉永医院に向かった。熱はもう殆ど下がったようで身体の気怠さは抜けていたが、やはり昨日の今日では、縫合した傷はじくじくとした痛みを訴えている。
「仕事、いつまでも休んでらんねえし」
「ほお、お前の口からそんな言葉が聞けるなんてなあ」
「麻酔なしで縫われた傷、すっげえ痛えんだけど」
「先生、そんなことなさったんですか」
 そう言って呆れ顔で吉永を見遣ったのは、ベテラン看護師の斉藤だった。腕に巻かれた包帯を外し、傷の具合を見ている吉永の動きを捉えて、指示されずとも、治療に必要な器具や薬を浸したガーゼをテキパキと手渡していく。
 夕べの臨時看護師とはずいぶん違うな――そんなことを考えた風太の口元に笑みが浮かぶと、すかさずチェックが入る。
「あら、何か思い出し笑い?」
「え、ああ……いや」
「そういえば風ちゃん、仕事以外のこういう怪我は、ほんと久しぶりよねえ。昔はしょっちゅう――」
 斉藤が間断なく話しかけてくるのを受け流しているうちに、再び包帯が巻かれ治療は終了していた。
「熱も殆ど平熱近くまで下がってるから、もう解熱剤もいらんな」
 何語なのか全く判読出来ない文字をカルテに書き込んだ吉永から、それを受け取った斉藤が、受付へと持っていく。
「そういや俺、昨日金払わず帰ったんで、今日精算していきます」
「いや、それがなあ……」
 珍しくどこか奥歯に物が挟まったような口調で言葉を濁した吉永は、戸惑いを滲ませた顔を風太に向けた。
「夕べのあのほら、お前と一緒に来てたあの子がな、今朝やって来て置いてったんだ」
「置いて?」
「お前の治療費」
「福原さんが?」
「ああそうそう、そんな名前だったな、あのお嬢ちゃんは。お前が払うからいいって断ったんだが、怪我はこちらのせいだからって、頑として引き下がらんでな。まあ、どうしたもんかと、取り敢えずは預かってあるんだが」
 困惑気味の吉永から、彼女が置いていった金を返してもらい、風太は自分で治療費を払って医院を後にした。

 いったん母家に戻り、喜世子に病院での診察結果だけを告げてから、自分の部屋へと引き上げる。
 冷蔵庫から取り出した水を手に、ローテーブルの側に腰を下ろした風太は、薬と金が入った封筒をその上に並べ置いた。
 どこか不格好な小さな木製のテーブルは、ここで働き始めてしばらく経った頃、兄弟子に教わりながら初めて風太が自分の手で作ったものだった。
 ――何て言って返そうか……
 封筒をぼんやりと見つめそんなことを考えていた時、もうひとつ返さなければならないものがあることを思い出した。
 面倒事を先に片付けるため、リュックの中から携帯を取り出す。もう一つの返さなければならないもの――自分のものではない携帯の電源を入れてみたところ、どうやらロックは掛かっていないようで、容易く着信履歴を表示させることができた。
 直近の着信に電話を掛けてみると、すぐに呼び出し音が途切れた。繋がっているらしい気配はあるのに、警戒しているのか何の応答もない。仕方なく、風太の方から声を掛けた。
「あー、この電話、拾ったもんだけど」
「……ああ、どうも。それツレのなんで、返して貰えません?」
 僅かな間を置いて、面倒臭そうな声が返ってきた。この携帯を探すのに協力していた、あの中にあっては比較的冷静そうな男の声のようだ。
「そうだな、じゃあケントに、ここに電話かけて来いって言って貰えるか」
「はっ? ……てめえ誰だ」
「公園では世話んなったな」
 途端に、電話の向こうから軽く息を飲むような音が聞こえた。
「俺が持っててもしょうがねえから、返すって言っとけ」
「ちょ……あんた」
 まだ声は聞こえていたが、通話を切った風太は携帯を放り投げ、部屋の端に寄せただけの布団に頭をのせ横になった。いつも寝癖がついている方向には腕が痛くて身体を曲げられないため、逆向きになってぼんやりとテレビを見て時間を潰す。
 やがて、そう間もないうちにケントの携帯から着信音が聞こえた。すぐに応答するが、こちらの出方を窺っているのか、電話の向こうは無言のままだった。

「――ケントか」
「……どういうつもりだ」
 ピリピリした緊張感と怒り、そして不安がこちらに伝わってくる。はっきり言えば、こっちは携帯を返せさえすればあんなガキに用があるわけではない。だが、風太をヤクザだと思っているケントは、恐らく報復を恐れているのだろう。
「どういうもこういうも。携帯預かってっから、返すぞって話だ」
「そんな嘘に騙されるかよ」
 苦笑いしながら、小さく溜息を吐いた。
「こっちもガキにやられたってのは都合がよくねえんだ。てめえみてえなガキ今更どうにかするぐらいなら、あん時にやってるよ。東京湾に沈める気も、漁船に乗せるつもりもねえから、ビビッてねえで取りに来いよ」
「誰がビビッてんだ」
 案の定の食いつきっぷりに、口元に笑いが浮かんだ。
「サツにも行ってねえぞ。それはわかってんだろ。場所はてめえが決めろ。そこまで持ってってやる。ビビッてねえなら、てめえも一人で来いよ」
 どうせ明日からしばらくは、現場での仕事はさせて貰えない。せいぜい留守番として、母家兼事務所に掛かってくる仕事がらみの電話に対応するくらいしか、やることがなかった。
 ケントとの待ち合わせは夕方。ここから電車で三駅程の、比較的大きな駅の改札の外と決めて、通話を終える。人通りの多い駅を選んだケントは、やはりまだ風太のことを、ヤクザだと信じているようだった。そう思わせておいた方が、都合がいい。その方が図書館へも無闇に近付かなくなるだろう
 今でも、はっきり言って面倒はごめんだと思っている。いや、面倒事はこの腕の怪我だけでもう十分だ。
 携帯をケントに返して、さっさとあいつらとは縁を切ってしまいたい。それが風太の一番の本音だった。

 仕事を終えた親方達が戻ってくると、今日は風太も母家で夕食を共にした。
 利き手の右腕が使えないのはそれなりに不自由ではあったが、日ごろから練習していたお蔭で、食事や文字を書くことは左手でできなくもない。それでも、慣れない手を使っての食事を終え部屋に戻る頃には、いつもとは違う種類の疲れを感じていた。
 テーブルの上に置かれた封筒が目に入り、登録した連絡先から『福原たまえ』を選んで、初めてその番号に電話を入れてみた。
「あの……もしもし」
 電話越し、微かな緊張が伝わってくる彼女の声は、普段話している時よりも少しだけ幼く聞こえる。
「森川だけど」
「はい……」
「今朝は、わざわざすまなかったな。そういや、見舞いも持ってきてくれたみたいで」
「あ、いえ、あの、大したものでなくて」
「いや、旨かったよ」
「あの……嫌いでなかったですか?」
「ん、何が?」
「……いちご」
「ああ、ってか、イチゴ嫌いな奴なんているのか」
 笑って答えると、よかった、と小さく呟く声が聞こえる。少しの間会話が途絶え、静かな空気が流れた。当然だが、ケントと話していた時の沈黙とは違って煩わしさは感じない。
「――あの、な」
「はい」
「今日、病院行ってきたんだけど」
「どう、でしたか? 傷」
「ん、ああ、まあ消毒だけだし、熱も殆ど下がったから」
「そうですか……よかった」
 本当にホッとしたかのような、溜息が耳に届く。
「それで。治療費なんだけど」
「あ、はい」
 何を言われるか予想できたのか、返事に少し硬さが混じるのがわかった。
 できるだけきつい口調にならないように気をつけながら、そこまでする必要はないと告げる。電話では、向こうでそれを聞いている彼女が、どんな表情をしているのかはわからなかった。
「……でも、そういうわけには」
「だいたいあれ、あんたが個人的に払ってんだろ」
「え……あ」
 図星なのだろう、途端に彼女が口ごもるのがわかる。
「だから、あんたが今日先生に預けた金は、勉強教えて貰う時に返す」
「すみません、でも私」
 責任を感じているのであろう彼女の気持ちもわかる。それに一度出したものを引っ込めるのは難しいだろう。消え入りそうな声で謝罪する彼女の声を聞きながら、考えていたことを口にした。
「福原さんには、勉強みてもらうだろ」
「あ……はい」
「どうしても気が済まないっていうなら、あれは家庭教師代ってことにして貰えねえか」
 それでチャラにしないかという提案に、まだ躊躇いがあるのかしばらく沈黙が続いた。
「その方が、教えて貰う俺も気が楽だ」
 重ねて告げると、納得したのかようやく「わかりました」との答えが返ってきた。
「じゃあ早速だけど、熱も下がったし、明日からでも都合つく日にお願いできるか」
 もう金の話は終わりだと切り替えるように、話を変えて尋ねてみる。
「あ、はい。わかりました」
 今度はすぐに、返事が返ってきた。今日初めて躊躇なく戻ってきた彼女の返事に、微かに笑みが浮かぶ。
 明日の時間や勉強する内容を詰めて、彼女――福原珠恵と交わしたその日の通話を終えた。


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