本編《雨月》

第三章 雨といちご4



 夕べはあまり様子を気にする余裕がなかったが、森川が住んでいる辺りは、今も古くからの街並みを残す下町だった。珠恵が住んでいる新興住宅地とは、同じ都内であっても随分と様子が違う。
 駅へと向かう人の流れに逆らうように、喜世子に送って貰った道を、記憶を頼りに歩いて行く。途中の交差点で一度迷ったくらいで、見覚えのある場所に辿り着いていた。
 夕べ喜世子達が出て来た家には、『古澤』という表札が掲げられており、すぐ隣に『古澤大工店』と書かれた木製のプレートが並んでいる。
 その前で、珠恵はしばらく躊躇うように立ち尽くしていた。ここまで来ておきながら、急に怖気づく自分が情けなくなる。
 緊張を解すように深呼吸をしてベルに手を伸ばした時、門の奥の引き戸が開き「ほんとまったくあの子は――」と声を上げながら出てきた喜世子が、その動きを止めた。
「あれ?」
「あ……」
「あんた、夕べの子だね」
 驚いた顔をした喜世子に、慌てて頭を下げた。
「お、おはようございます。夕べは、お世話になりました。あの、朝早くにすみません。私……あの」
「あれだろ、風太の見舞い」
 ああ、とどこか納得するように頷いた喜世子に、朝早くから訪ねたことを詫びる。
「うちは仕事柄朝が早いから、全然気にする時間じゃないよ。むしろこの後だと留守にしてることも多いからね」
「あの、夕べ、森川さん随分熱っぽかったので。傷も、先生、麻酔もなさらなかったので」
「ああ、お灸を据えられたんだろ。まあ、風太は身体だけは丈夫だから心配ないよ。それに、あの手の怪我は昔はしょっ中だったからね」
 ケラケラと笑い声を上げるその人の様子に、本当に夕べ森川の体調が悪化するようなことはなかったのだと珠恵は安堵した。
「熱は上がったみたいだけど、薬がきいたのかすぐに寝たようだったし。何かあれば、ここらじゃすぐに吉永先生が来てくれるから」
 ホッと息を吐いて、笑みを浮かべている喜世子に頷いた。
「そう、ですか。良かった。……あ、あの、これ、つまらないものですが。お店がまだあまり開いてなくて」
 言い訳をしながら、駅近くのスーパーで購入した果物を手渡す。
「それじゃあ、あの……。森川さんに、お大事にとお伝え下さい」
 頭を下げ立ち去ろうとした珠恵を、それまでしばらく黙っていた喜世子が引き留めた。
「自分で確かめなくていいの?」
「え」
「せっかく見舞いに来てくれたんだし」
「あの、でも。本当に様子を伺いに寄っただけなので。それにまだお休みだと」
「いや、多分もう起きてるよ。うちの子に様子を見に行かせたら帰って来ないから、ちょうど呼びに行こうと思ってたところ。あんた――ええと、珠ちゃん、だっけ」
 目を丸くして頷く。こんな風にいきなり親しげに、珠ちゃんなどと呼ばれたのは初めてだった。
「あ……は、い」
「丁度いいわ。これ持って行ってやって、朝ごはん。でついでにうちの娘呼んで来てよ。昨日のあのバカ娘」
 強引に話を進める喜世子にオロオロしている間に、玄関口に置かれた朝食の乗ったお盆を手渡された。
「何か口にしないと薬も飲めないしね。あ、頂いたこれは、あとでまた食べさせるから」
「あの、でも私――」
 様子さえわかれば、森川には会わずに帰るつもりでいた。喜世子の連絡先を聞いていなかったから、直接訪ねてみただけなのに。
「そこ、すぐ隣の一階が車庫と倉庫になってる建物の二階。外に階段があるから、それ上がって最初の扉をあけたら中にいくつか部屋があるけど、風太の部屋は一番手前だから」
 早口で説明を終えると、珠恵の返事を待つこともなく、先ほど手渡した土産を持って喜世子は家の中へと戻って行ってしまった。

 お盆を手にしたまま、半ば気圧されるように「はい」と、返事をしたが、恐らく聞こえてはいないだろう。立ち尽くしたまま、玄関と喜世子が説明した建物とを交互に見ていた珠恵は、本当に喜世子が戻ってこないとわかり、意を決して隣の建物へと足を向けた。
 両手にお盆を持ったまま恐々と二階まで階段を上がると、小さな踊り場の横にある扉に手を掛ける。恐らく、喜世子が最初の扉と言っていたのがこれなのだろう。一応ノックをしてみて、何も返答がないので扉を引いてみた。
 中は玄関のようになっていて、何足かの男性の靴に混じって、女性ものの黒いローファーが脱ぎ捨てられている。愛華のものだろうか。
 靴を脱いで、「おじゃま、します」と呟きおずおずと玄関から廊下に上がると、狭い通路の両側に、二部屋ずつ扉があるのがわかる。一番手前の部屋の前に立って、少し息を整えてから軽くドアをノックしたが全く反応がない。もう一度、さっきよりも力を入れてドアを叩くと、中からドタドタと音が聞こえて、突然扉が内側に向けて開かれた。
「あ……」
「え……あれ、何であんたがここに」
 愛華の腕を引いたままドアに手を掛けた森川が、そう言って目を見開いた。
「あ、あの、おはようございます」
「え、ああ、おはよう」
「あれ、昨日風太と一緒にいた女じゃん。なんでこんなとこにいんの、何か用?」
 珠恵が、夕べの女性だと気が付いたらしい愛華が、昨日と同じように値踏みするような眼差しを向けてくる。
「お前が偉そうに聞くな」
 腕を握った手で、ドアの外に身体を押し出そうとする森川を見上げ、愛華が声を上げる。
「痛いってば」
「お前はいいからガッコ行け、もう始まってんだろ」
「今日は、臨時休校」
「んなわけあるか。ったく」
「人命救助っつったら、オッケーだって」
「馬鹿言ってねえで」
「介護してあげるっつってんじゃん」
「何が介護だ、それ言うなら看病だろ。だいたい人の布団に入り込んで」
 ――えっ……
 声にこそ出さなかったが、思わず顔を上げた珠恵を見て、森川がしまったというように顔を顰めた。
「あ、いや、何もしてねえから」
 どこか焦ったような声は聞こえていたが、自分の頬が熱くなってくるのを感じて、視線を逸らしてしまう。
「あ、すみません。私、あのこれを……持っていくようにって」
「あ、飯か」
「……はい」
 森川がお盆を受け取ろうと手を解いた途端、愛華が先にそれを珠恵から奪ってしまった。
「どうも。後は私がやるから、もう帰っていいよ。じゃあね」
「え……あ」
 どこか勝ち誇ったような笑みを浮かべながら珠恵を見た愛華が、そう言って扉を閉めようとするのを、森川の手が止めた。半袖のTシャツから覗く傷を負った方の腕は、今は包帯が巻かれていて、その肌に刻まれた絵は見えない。
「だから、お前は学校」
「えー、いいじゃん今日は。愛する風太の看病するんだからさ」
「下らないこと言ってねえで、早く行け。おかみさんが呼びに来るぞ。それ、置いて」
「学校行けって風太には言われたくない。てゆっか、わかるよね、ったるくって行ってらんないって」
 愛華の手からお盆を取り上げた森川の声色が、少しだけ真剣なものになる。
「わかってるから言ってんだ。後でちゃんと行っときゃよかったって思うってな」
 その口調にたじろいだように、一瞬愛華が口を噤む。手にしたお盆を持って、部屋の奥へと森川が消えた途端、不満の矛先が珠恵へと向けられた。
「いいとこだったのに、あんたが邪魔するから」
 唇を尖らせたまま仁王立ちで睨むように珠恵を見据えた愛華の、短いスカートから伸びた長くてスラリとした素足が視界に入り、思わず顔を伏せてしまう。
「ばーか、何がいいとこだ、ったく」
 戻って来た森川が愛華の頭を軽く小突くと、そのまま視線を珠恵に向けた。
「福原さん、仕事、大丈夫なのか」
「福原さんっだって」
 何が可笑しいのかケタケタと笑う愛華を、森川がうるさいと嗜める。
「あ、の……今日は月曜日で、図書館はお休みなので」
「ああ、そっか」
「あ……森川さん、熱は」
「もりかわさん、って」
 いちいち口を挟もうとする愛華をスルーして森川が口を開いた。
「昨日よりは随分マシになった」
 確かに、夕べより顔色もよく、なによりこうして普通に元気に話している姿を見て、ホッと肩の力が抜ける。
「もしかして、気にしてわざわざ」
「あ、いえ、あの……ついでが、あったので」
「ついでって、この辺にか」
「嘘ってモロばれー」
 小馬鹿にするような愛華の嘲笑に、頭に血が上ってしまう。
「お前なあ……そろそろいい加減にしとけ。お前がいると余計に熱が上がる」
 溜息混じりに愛華を諭す森川の口調が、さっきまでより少し強いものに変わった。
「あっそ。わ、か、り、ま、し、た」
 これ以上は怒りを買うと感じたのか、不貞腐れた表情で面倒臭そうに答えた愛華が、珠恵を押しのけるように森川の部屋から出てくる。靴に足を入れると、振り向きざま隠す気のない不満を浮かべた目が、珠恵を見遣った。
「あのさ、風太病人だから。残念ながら、部屋に押しかけてもエッチ出来ないよ」
「愛華っ」
 ツンっと顔を背けた愛華の背中が扉の向こうに消えて、階段を下りるカンカンという足音が遠ざかって行く。恥ずかしさと動揺で居た堪れない気持ちのまま、珠恵は何を口にすればいいのかもわからず、ただ立ち尽くしてしまっていた。

「あのエロガキ……ほんと、変なことばっか言って、悪いな」
 深い溜息が耳に届き、首を小さく振る。あんな冗談をいちいち意識していると思われたくない。なのに、何か言おうと口を開くと、いつもより妙に高くて大きな声が出てしまう。
「本当は、あの……ついでとかじゃ、ないです。私、ただどうしても、怪我のことが気になって、それで。……でも、本当にこちらにまで伺うつもりじゃなくて、あの、様子だけお聞きして帰るつもりで……でも、ご飯をってそう――」
「ああ、おかみさんに強引に渡されたんだろ」
「あの、朝からご迷惑を掛けて、すみませんでした」
「いや、迷惑なんかじゃねえけど」
「突然お邪魔してすみません。あの、ゆっくり……休んで下さい。もう帰ります。あの、でも少しだけ、安心しました。あ、でも……ちゃんと食べてお薬は飲んで下さいね。あ、でも無理は、なさらないで下さいね」
 思いつくまま次々と口にしながら、全くスマートに話せないことが情けなくなる。言葉を切って息を継いだ拍子に、森川がフッと笑うのを感じた。
「でも、ばっかだな。でも、心配してくれてありがとな……あ、俺もか」
 その笑みは、珠恵を馬鹿にしているものではないと不思議とわかる。俺もか、と可笑しそうに笑う森川と目が合って、珠恵もついクスッと笑った。ようやく少しだけ、緊張が解れた気がした。
「あのな、あんたが、責任感じることはねえから」
 責任を感じているのは確かで、だから見舞いにだって来たのだ。なのに、森川が口にした責任という言葉に含まれる距離に、ほんの僅かに寂しさのようなものを感じてしまう。顔を上げ、どこか申し訳なさそうな表情をした森川を見上げた。
「あの、じゃあ……私」
「ん、悪かったな」
 森川に背を向けて玄関口で靴を履きながら、ふと懸念が浮かび、後ろを振り返った。部屋のドアに凭れてこちらを見ていた森川が、問うような眼差しを向けてくる。
「あの……森川さん、また、図書館に来られますか」
 もしかしたら、もう森川は図書館の利用を止めてしまうのではないだろうか。自分の中に浮かび上がったその疑念に、思わず問い掛けてしまっていた。
「ああ、まあ……しばらくは近寄らない方がいいかとは思ってる。でも、ま、どっちにしろこの手じゃ、行っても勉強ははかどらねえな。左手、使えねえことはないけど利き手やってるし。そっか……どうすっかな」
 最後は、独り言のように呟いた森川が、きっと少し強張ってしまっているのだろう珠恵の顔を見て、小さく笑った。
「だから、あんたのせいじゃねえって。ま、あそこ、結構気に入ってるし、ほとぼりが冷めたら多分また行くこともあるだろ」
 ――多分、行くことも
「そん時は、また宜しくな」
「……」
「福原、さん?」
 返事をしない珠恵を、森川が少し怪訝そうな声で呼んだ。
「――あっ、いえ」
 慌てて頭を下げて、かみ合わない返事をしたまま、森川を見つめた。
「森川、さん?」
「ん?」
「あの……試験って、いつですか」
「ああ、来週の木曜」
「あと、十日」 
「まあ、大してできなくても受かるらしいから、何とかなるだろ」
「私に」
 森川が、問い返すように瞬きをする。
「私に、手伝わせて貰えませんか」

「……え?」
「あの、やっぱり……その怪我は、図書館でのことが原因だし……せめてそれくらい、お願いします」
「や、あのな、お願いって」
「あの、偉そうに言える程、私、教えられることは少ないですけど……でも、少しくらいなら、お役に立てるかもしれないし……だから、お願いします」
「でも、あんた、あいや、福原さんも仕事があるだろう」
 シフトを思い返してみれば、来週の木曜日までには三日の休みがある。それに、ずっと取っていない有給を一日ぐらい足すこともできるはずだ。早番の日であれば、仕事の後、一、二時間程度は時間も取れる。考えながら、毎日は無理だが休みと早番の日が結構あるのだと、そんな風に告げると、森川はしばらく考え込んでしまった。
 やはり出過ぎた真似をしてしまっただろうか。珠恵をじっと見つめたまま、黙って思案している様子の森川に、だんだん居た堪れない気持ちになってくる。その時、不意に森川はまだ熱が引いていないのだということを思い出した。
「あ……身体、こんな時にすみませんでした。あの、もし、何か必要になったら、電話で――」
「そう、だな。じゃあ悪いけど、少し付き合って貰えるか」
 電話で――と続けようとした言葉に、森川の声が重なった。
「せっかくだし、やるだけのことはやっとくよ」
「……は、はい」
 自分で言い出したくせに、いざそう言われると、途端に胸が跳ねて緊張が込み上げる。
「あの、それじゃあ……体調をみて、連絡を下さい。あ……私の番号は」
「電話はこないだ聞いたけど、一応それ以外も登録しといて構わないか」
「はい」
 慌てて鞄から携帯を取り出すと、森川も部屋から自分のそれを手に戻って来る。
「よけりゃ、貸して」
 操作に手間取っている珠恵の手から携帯を受け取った森川の指が、少し画面を見ただけで滑らかに動き出した。こんなことにさえ、慣れていないと思われることにまた恥ずかしくなって少し目を伏せると、ちょうど視線の先に携帯を操作する森川の手が映る。
 大きくてしっかりした男の人の手。いつも珠恵が触れている携帯が、小さく見える。
 パステルカラーの似合わない、日に焼けた森川の指の動きをボンヤリと見ながら、珠恵は、胸の奥がくすぐったくなるような不思議な感覚を覚えていた。



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