自宅に帰り着いて、鞄から鍵を取り出したタイミングで、玄関に明かりが灯り鍵が開錠された。ドアノブを握りゆっくりと引くと、恐らくは靴音を聞きつけて出て来たのだろう母親が、玄関先で珠恵を出迎える。
「ただいま、帰りました」
「お帰りなさい。随分、遅かったのね」
「職場で、ちょっと問題が起きて。連絡……したよね」
「ええ、でも、こんなに遅いなんて。何度か電話したのよ」
やはり心配していたことがわかる母――美佐子の口調に、申し訳ない気持と微かな煩わしさを覚える。あれから確認した携帯には、やはり数回自宅からの着信があったが、いつもなら折り返すそれに連絡をする気持ちにはならなかった。
「ごめんなさい……色々話してたら、連絡が出来なくて」
答えながら視線を落としたそこに、父の綺麗に磨かれた靴が目に入り、今日は日曜日だったと気が重くなった。
「お父さん、もう帰ってるの?」
答えはわかっていながら、顔を上げて母に確かめる。
「ええ……今日は、ゴルフだったから早く帰られて」
仕事の日は、日付けが変わる頃まで帰って来ないことも多い父は、今日は日曜のため、朝から仕事がらみのゴルフに出掛けて早く帰って来ていた。
「帰ったら、部屋に来るようにって」
「……え?」
「今書斎にいらっしゃるから」
視線を逸らし気味の冴えない母の表情からも、帰宅が遅くなり待たせてしまったことからも、恐らく、父の機嫌がよくはないのだろうとわかる。珠恵が遅くなったために、きっと母も叱られたのだ。
「――わかった」
溜息を吐きたくなるのを堪えて、廊下に上がる。胸の中がザワザワとして落ち着かなかった。
「ごめんね、お母さん」
擦れ違いざまに小さな声で母に詫びると、どこか申し訳なさそうな表情でこちらを見遣った母から、すぐに目を逸らした。そのまま、廊下の奥にある父の書斎のドアをノックする。
「珠恵です。今、帰りました」
「入りなさい」
身体に力を入れるように少し息を吸ってドアを開けると、応接セットのソファに腰かけていた父が、珠恵に視線を向けた。
「遅くなりました」
「どこに行っていた」
「あ……、職場で、ちょっとトラブルがあって」
「八時過ぎには図書館を出ていたと聞いたが」
「え? あ、の」
「美佐子に電話で確かめさせた。それからどこに行ってた、こんな時間まで」
喉の奥が微かに緊張で震えそうになる。決して声を荒げている訳ではないのに、昔から父の話し方には、威圧感を感じて萎縮してしまう。
「何か問題があったのは本当のようだが、遅くなった理由はそれだけではないだろう」
「それ、は……あの、職場の人達と、今日のことでこれからの対応を、自分たちでも話し合ってみようっていう話になって」
「誰とだ」
「職場の……後輩と、先輩です」
手が汗ばむのがわかる。咄嗟についた嘘を誤魔化すために、必死で平静を装っていた。
「なら、そう連絡をするくらいはできただろう。電話も何度か鳴らしていたはずだ」
「真剣な話をしてたから……だから出にくくて……。ごめんなさい。今度から、ちゃんと連絡を入れます」
唇を僅かに上げた父が、呆れたような溜息を吐いた。
「お前がそこにいたところで、何か役に立つことが言えるのか」
お前がいても大したことはできまい――とでも言いた気な表情と言葉に、何も言い返すこともできず口を噤む。
「最近私の職場でも、大して責任のある仕事をしている訳でもない若い職員が、一人前の仕事をしているような勘違いをしていることが多い。お前も、そういう勘違いはしていないだろうな」
「そんな……」
鞄を持つ指に力を入れ、ギュッと握り締めた。
「まあいい、座りなさい」
目の前のソファに父が視線を送った。恐る恐る、というように足を進めてそこに軽く腰を下ろす。
「いつも言っているが。結婚するまでの腰かけに過ぎない職場の人との付き合いは、ほどほどにしておきなさい」
頷くこともできずに、ただ父の視線を避けるように目を伏せる。
最近では、それなりに任される仕事や頼りにされることも増え、元々本が好きな珠恵は、図書館の仕事に遣り甲斐を感じていた。そうやって少しずつ誰かに必要とされたり役に立てることで、あそこは、自分の居場所になってきたのだ。まだまだ全く実感が湧かない結婚なんていう未来よりも、図書館でこの先もずっと働いていることの方が、よほど珠恵にとっては現実味がある未来だった。
「珠恵」
少し鋭くなった父の声に、ビクッとして顔を上げた。
「わかっているな」
喉元に込み上げたものを呑み込むように、僅かに頭を縦に振っていた。そうしてしまう自分が嫌で、胸が重くなる。もう一度深く溜息を吐いた父は、立ち上がり珠恵を見下ろした。
「ならいい。私も明日は早い。もう行きなさい」
冷たささえ感じる口調でそう告げられ、鞄を握る手に力を入れてソファから立ち上がる。
「おやすみ……なさい」
俯いたまま、小さくそう口にした。
「珠恵」
苛立ちを含んだ口調で名前を呼ばれて、顔を上げる。指先が、冷たくなっていた。
「他に何か言う事があるだろう」
「……遅くなって、申し訳ありませんでした」
微かに細めた目で珠恵を見遣った父は、再び溜息を吐いて、先に部屋を出て行ってしまった。
詰めていた息を吐き出す時、それは口元で微かに震える吐息に変わる。しばらく息を整えるように呼吸を繰り返して、珠恵は、いつもここに来ると自然と入ってしまう身体の力を抜いた。
部屋に戻りながら、冷たくなっていた手に、微かに引き攣るような痛みを感じて視線を落とす。カーディガンの袖に隠れていたそこに、森川がつけた傷跡が赤く浮かび上がっていた。
傷のついた手を、もう一方の手で抱えるように胸元で握り締める。この手が触れていた人のことが脳裏に浮かんで、強張ってた胸が、柔らかく解けていくのがわかった。
いつもなら父と話をした後は、しばらく胸が何かに押されたように苦しくなる。それなのに、今日部屋に戻ってからもずっと考えていたのは、非日常的な今日一日の出来事と森川のことばかりだった。
森川の身体に彫り込まれた刺青や、血を流す腕、扱い慣れたナイフ捌き。
――俺はあいつらよりもっとひでえガキだったからな
そう言っていた森川の過去を考えていたはずの頭は、いつしか、熱で苦しんでいるかもしれない、傷が痛んで眠れないかもしれない、もし傷が悪化して腕が使えなくなったら――。そんな風に、森川を心配する気持ちばかりに占められていた。
その筋の者じゃない、と言っていた。けれど、本当はヤクザだったのかもしれない人だ。
もっとあの人のことを知りたいと感じるこの気持ちは、きっとただの好奇心だ。そう、どこかで言い聞かせようとしている自分に気が付いて、胸の内で苦笑する。
知ったところで、どうなるわけでもないことは、わかっているだろう――と。
翌日の月曜は、図書館の休館日だった。
朝、いつもの時間に起きた珠恵が階下に降りた時には、もう父は出勤した後で、顔を合せずに済んだことにホッとする。
「あれ? まあ君」
リビングで、久しぶりに弟の昌也と鉢合わせた。
「おはよ」
「夕べ、帰って来てたの?」
「いや、さっき来たとこ。姉さんが仕事に行く前に、頼んでた資料を受け取ろうと思って」
夕べロッカールームに本を取りに戻ったときに、弟にメッセージを送っていたことを思い出した。
「あ、すぐ持ってくるね」
「姉さんが休みって知ってたらもっとゆっくり来たんだけど。でも、休みの日でも早いね」
「あ、うん、ちょっと……今日は出かけるから」
「へえ、珍しい。いつも休みは本ばっかり読んでるのに」
曖昧な笑みを浮かべる珠恵に、少し迷ったような顔を見せてから、昌也が小声になる。
「あの、さ。昨日お父さんに叱られたって」
「え?」
「いや、さっきお母さんが。夕べ姉さんが珍しく帰りが遅くて、お父さんが……ってチラッとそんなこと言ってたから」
「あ……う、ん」
昌也が、苦笑いを浮かべる。
「相変わらず、だな」
穏やかで優しい昌也は、父とはそりが合わなかった。日本最高峰の大学を出て、誰でも名前を知っているような一流と呼ばれる企業に勤めている父は、昌也に自分の後に続くような所謂エリートコースを歩ませたがっていた。けれど、人と競争することが苦手な昌也には、それに従うことが苦痛だったようだ。
中学受験の際、都内でも有数の進学校の試験当日、プレッシャーに耐えきれず体調を崩した昌也は、受験に失敗した。今、彼が進んでいるのは、親に内緒で受験した父に言わせれば二流の大学の、考古学研究の道だった。
――体裁が悪いから俺を勘当しないだけだよ。あの人は
昌也がそう口にするように、父と昌也は、最近では口をきくことさえ稀だった。できるだけ顔を合さないようにしている、という方が正しい。
まだ何か言いたそうな昌也に笑みを向けて、珠恵は急ぎ資料を取りに部屋へと戻った。手渡した文献を鞄にしまった昌也は、キッチンに立つ母親に「お母さん、朝ごはんごちそうさま」そう声を掛けて、早々にリビングを後にする。いつもよりどこか少しだけ嬉しそうな顔を見せた母も、珠恵と共に玄関まで昌也を見送りに出てきた。
「もう少し、家に帰って来なさい」
「ん―ああ、ちょっと色々忙しくて」
母の言葉に、そんな風に誤魔化すような返事を返す昌也のその答えが、本当のことではないと皆が知っていた。
「じゃ、姉さん、これ、図書館に直接返しに行くから。ありがとう」
「うん。二週間だから」
「わかってる」
「行ってらっしゃい」
「姉さんも。あんまり……気にするなよ」
最後にそう言い残して、笑みを見せてから昌也がドアを開けて出て行く。珠恵の気持ちをきっと唯一共感できる弟の言葉に、胸が少しだけ軽くなるのを感じた。
――職場の人と会って来る。今日は、遅くはならないから。
朝食を終え、何か言いたげな母にそれだけを告げると、珠恵は出掛ける支度を始めた。家を出て、春のような暖かな日和の中を、駅までの道のりを通勤の人波に紛れて歩いて行く。
いつも図書館に向かうのと同じ方面の電車に乗って、乗換の駅で降り、そしていつもとは違う方面に向かう電車に乗り換えた。
夕べから何度も迷った末、今日もう一度、森川の様子を見に行ってみることに決めた。
怪我をした森川をみつけたのは自分だから、ちゃんと確かめる義務がある。怪我を負ったのは図書館での出来事が原因だから、職員として責任があるはずだ。だから、訪ねる理由がちゃんとある。
まるで誰かに言い訳をするみたいに、何度も同じことを考えていなければ、すぐに不安が込み上げる。
迷惑だと思われたら――
それを打ち消すようにまた、自分に言い聞かせる。これは、ただのお見舞いだ。おかみさんと呼ばれていた女性、喜世子を訪ねて、様子さえ聞ければそれでいい。
胸がとてもドキドキしているのは。きっと、慣れない人に会う緊張のせいだ。