珠恵を先に乗せたタクシーの後部座席に素早く乗り込んだ森川は、腕を隠すように鞄を身体の前に回すと、近くて悪い、と言いながら、ふた駅ほど隣にある神社の名前を運転手に告げた。
返事もなく車が走り始めた直後、不意に森川の身体がこちらに傾き耳元に顔を寄せられた。驚いて顔を向けようとする珠恵の耳に、ごく小さな囁きが届く。
「悪いけど、怪しまれないように身体を寄せてて貰えないか」
目を見開いて咄嗟に見つめた森川の顔が本当にすぐそばにあって、慌てて目を逸らす。
「車に乗ってる間だけでいい」
確かにこの怪我に気付かれるとややこしい事態になりかねない。小さく頷いた珠恵は、傷を負った腕を運転手の視界から隠すように、森川の方へと身体を寄せた。
触れている左側から、鼓動が伝わってしまいそうだった。シャツ越しでも感じる森川の体温や、すぐそばで感じる彼の匂いに、頭の中がクラクラとする。不意に、ゆっくりと顔を傾けた森川が、珠恵の肩口に軽く額を乗せた。
「気持ち悪いだろうが、少し、肩貸しててくれ」
首筋に掛かる息が妙に熱い。どこか息苦しげな声に様子を確かめようとしたが、肩口には森川の頭が寄せられていて、顔を動かすことができない。それでも、彼が出来るだけ珠恵に体重を預けないようにしているのがわかった。気持ちが悪い、なんて思いもしなかった。
「あの……もしかして、熱が……」
「ああ、かもな。まあ、大丈夫だ」
ボソボソと話しながら深く吐きだした森川の息は、単に体温が高いというものでなく明らかに熱っぽい。
視線を上げると、ミラー越しに僅かに怪訝そうな顔を向けた運転手と目が合った。ぎこちない空気を、疑われているだろうか。視線を下げてみると、座席に落とした森川の手の甲に、血の跡がいく筋か残っているのが目に入る。唾を呑み込んだ珠恵は、手を延ばし何も言わずその手を握り締めた。身体の熱さとは裏腹に、指先の体温は低く感じる。
驚いたのか、咄嗟に手を引こうとした森川の気配を感じて、意図を伝えるように指に力を込めた。運転席から聞こえた舌を打つ小さな音に、森川の動きが止まる。人前でベタベタとするカップルに呆れてくれたのであれば、その方がいい。
森川が運転手に告げた目的地である神社に到着するまでの、およそ十分程の間。自分の心臓の存在をこんなにもずっと意識していたのはきっと初めてだった。
神社のそばのコンビニでタクシーを止めた森川に続いて、頼まれた珠恵が料金を払い降車する。さっきまですぐそばにあった温もりが離れてしまったことに、肩の力が抜けると同時に、その軽さにどこか寂しさを覚えた。
「助かったよ。悪かったな、あんなことさせて」
そう口にした森川は、珠恵が何かを答える間もなく、神社の脇の路地を歩き始めた。ポツポツと街灯が灯り民家が立ち並ぶその道をしばらく進むと、一軒の古めかしい木造の建物へと続く門をくぐっていく。
『吉永医院』と書かれた看板の文字を見て、ここがどうやら目的の病院なのだと気が付いた。タクシーに乗り込む直前に掛けていた電話は、多分この病院へのものだったのだろう。森川が入口のブザーを押してしばらくすると、中に明かりが灯りカーテンが乱暴に開かれた。
はぁ――と、文字に出来そうな程はっきりと溜息を吐いた森川を見上げる。
「できれば世話になりたくねえけど、仕方ねえな」
「え?」
呟きに問い返そうとした時、診療所の扉が開いた。
「吉永先生、どうもすいま」
「入れ」
ボソッと口を開いたその人は、鋭い目つきで森川と後ろにいる珠恵を一瞥すると、背を向けて診療所の中へと戻っていく。大きな体躯の五十代位に見えたその医師は、正直なところ、白衣を着ていなければそれこそその筋の人ではないかと思えるほど、目付きの鋭い男性だった。
もう一度溜息を吐いてから診療所に入る森川に続いて、珠恵も中に上がり込む。慣れた様子で診察室へと入って行く後ろ姿を見ながら、どうしたものかと入口で躊躇っていると「あんた、ここへ来て手伝え」と、腹の底に響くような声が珠恵にそう命じた。
「あ、はい」
慌てて返事を返し、診察室に入り周囲を見渡して、森川がリュックを下ろした籠の中に自分の鞄を入れた。
「あのさ、この人は助けてくれただけの人だから」
「だから何だ。どうせここまで来たならついでだ。看護師もいないし、まあ猫よりは役に立つだろうが」
森川が、ばつが悪そうに珠恵を見上げる。視線を追ってこちらを見たクマのような容貌の医師が、顎をしゃくった。
「あそこで、手をよく洗って消毒して来い」
「はい」
急ぎ示された洗面台に向かい、念入りに手を洗ってから、横に置かれた消毒液で指の先までくまなく消毒する。
「どうりでいつもと違うタイプだと思ったら……お前のコレじゃなかったのか」
「違いますよ、世話んなっただけで」
リアクションに困り目を伏せた珠恵を見ながら、吉永と呼ばれた医師がニヤリと笑った。
「えらく趣旨変えしたもんだと思ったが。あんたも――」
あんた、が誰のことを指しているのかに気が付いて、視線を上げた。
「こういう馬鹿な男に引っかからないように、気をつけろ」
「え?」
「近付くと孕ませられっぞ」
「――えっ」
「余計なこと言ってねえで、いいから早く治療しろよ」
吉永の笑い声と、不機嫌そうな森川の声が静かな診療所に響く。頭の中に吉永の言葉の意味が浸透する頃には、不貞腐れた顔をした森川の腕から、吉永がタオルとハンカチを解き始めていた。
「お、このくらいで顔を赤くするなんて、新鮮な反応だな」
「おい、おっさん、いい加減にしろよ。この人は、ちゃんとしたとこの人なんだから、いちいちからかうな」
おっさん、と呼ばれたところで、意に介さぬ風の吉永は、森川が何かを言う度にその倍は憎まれ口を叩いている。けれどその目と指先は、素早い動きで傷口を確認してきぱきと治療を進めていく。
「あ、あの、私は、何をすれば」
何も出来ずにただからかわれているだけでは、ここまでついて来た意味がない。気持ちを切り替えるようにそう尋ねて、吉永に指示されるままに棚から薬を持って来たり、器具を袋から取り出したりした。
手渡したハサミで、残っていた袖を肩口でザクザクと切り落とした吉永が、小さく舌打ちをする。
「天女が傷もんになってるぞ。嫁に行けねえな、ったく。最近大人しくしてると思ったらいきなりこんな物騒な傷作りやがって」
「……すんません」
「あの、でも」
怪我の原因を口にしようとした珠恵を、森川の視線が遮った。
「どこで誰とどうした、ってことを話すつもりはないんだろ。その辺の病院に行かず、うちに来たってことは」
さっきまでより明らかに不機嫌な声で、吉永がぼそりとそう口にした。問いというより断定的な物言いに、森川は何も答えなかった。
「ヤバイ筋に関わってんじゃないだろうな」
「違いますよ、そういうのとは」
――ヤバイ筋……
吉永という医師は、最初から刺青の存在を知っていた。二人の遣り取りからも、森川のことをよく知っていて親しいのだろうことがわかる。
「ふうん、まあ、ならいい。ただし、縫うのに麻酔使わねえからな」
「えっ」
傷口から血が流れ落ちる程の出血は、もう止まっていたが、何針かは縫っておいた方がいいだろうということになった。けれど、麻酔を使わないという言葉に驚き、珠恵はつい声を上げてしまった。
動揺する珠恵を尻目に、憮然とした表情を浮かべた森川は、何も言わずに吉永に腕を差し出している。
「あの、待って下さい、でも」
「風太よ、お前そんなもん一丁前に背負ってんだ。数針縫うぐらい、平気なもんだろ」
「――早くやれよ藪医者」
「偉そうにそんな口が叩ける位だ。女の前なら、みっともなくベソをかく事もないだろう。何なら口も縫ってやろうか」
「……うるせえ」
顔を横に向けた森川から視線を上げた吉永は、未だ戸惑ったまま非難するような眼差しを向けている珠恵を、手のかかる子どもだな、とでも言いたげな笑みで見つめた。
「ってなわけだ。馬鹿な男のやせ我慢ってやつを見て笑ってやれ。お嬢ちゃん、あんたはそっちへ回ってこいつの手を押さえててくれ」
「いい」
「お前は黙ってろ。いいからほら。勝手に腕が動くことがあるからな。片手で肘の辺りと、もう片方は手を握っててやれ」
じっと、吉永の目を見つめ返す。無茶を言っているようだが、それでもこの人の目は確かに医者のそれだと感じた。いい加減な治療をすることはないのだろう。頷いて、森川の正面に回り込む。
「悪いな。結局こんなことまで付き合わせて」
「いえ、あの……すみません、押さえますね」
診察台の上に置かれた森川の肘の手前辺りを手で押さえると、やはり熱のためか熱い。珠恵の腕とは明らかに異質の、少し血管の浮き出た男らしい腕を手のひらに感じて、森川の熱を移し取るように、自分の手が熱くなった気がした。
少し視線を上げて傷の辺りに目をやると、確かにそこに、飛翔する天女が彫り込まれている。その天女の額から頬にかけ、傷が伸びているのが痛々しい。じっと見ていると、傷のない天女の瞳が、慈愛に満ちた眼差しで珠恵を見つめているような気がしてくる。
「もっと思いきり押さえておけ。そんな力じゃ跳ね返されるぞ」
「はい、すみません。大丈夫ですか」
我に返り、腕に力を入れようとすると、森川が珠恵の手に自分の手を重ねて、上から更に力を込めた。
「これくらいしても、平気だ」
躊躇を捨て、手により力を込めて腕を押さえ込む。もう一方の手で、森川の右の手のひらを強く握り締めた。
縫合糸を針に引っ掻けた吉永が、ほんの一瞬だけ森川に視線を送ると、そのまま予告もなく本当に麻酔もせずに傷を縫い付けていく。その瞬間森川の指が、珠恵の手の甲を強く掴んだ。押さえつけている腕に力が籠り、筋肉が固くなるのを感じる。流石に傷口をじっと見ていることはできず、そっと森川を見上げると、噛みしめた唇が微かに震えるのがわかった。
額に、玉のような汗が浮かぶ。初めのうちは森川も、珠恵の手を握る指に力を入れ過ぎないよう気遣おうとしていたようだった。だが、加減がきかないのだろう、時折その手が骨を軋ませるような強さで珠恵の手を握る。その痛みが、今森川が感じているであろう痛みを珠恵にも伝えていた。
黙々と傷を縫い上げていく吉永の表情も、もう軽口はなく、さっきまでよりも真剣なものに変わっている。珠恵はただ黙って、森川の手を強く握り締め、一刻も早くこの時間が過ぎ去ることを願っていた。
「――ふぅっ、よし……終わったぞ」
微かに唸るような声を上げた森川は、詰めていた息を深く吐き出し大きく呼吸を繰り返した。
「おい、お嬢ちゃん終わったぞ。おいっ」
何度か呼ばれて、ようやく瞬きをする。ゆっくりと息を吐き出しながら、自分が殆ど息を止めてしまっていたことに、その時になってようやく気が付いた。
繋いだ手を離そうとしても、指が強張ってすぐには解けない。戸惑っていると、森川の怪我をしていない方の手が伸びてきて、握り締めた珠恵の指を剥がしてくれた。
「力、加減できずに、悪かった」
「いえ」
「泣かなかっただけ、偉かったぞ」
「っせえ」
言い返す森川の声に、さっきまでの勢いはなくて、珠恵は吉永に確認してからタオルを手に戻って来ると、その額や顔から流れ落ちた汗を拭った。
「……悪い。自分でする」
「自分を大事にしない奴を、甘やかすことはないぞ」
使用した器具をトレーに放り込みながら、怒りを滲ませた声色で吉永がそう口にする。
「あんたはこっちを手伝え」
と呼ばれ、珠恵は森川にタオルを預けて、その指示に従った。言われるがままに動きながら、しばらく躊躇ってから、頼りない小声で告げた。
「あの……。森川さんのあの怪我は……もともとの原因を、森川さんが作った訳じゃありません」
「お嬢ちゃん、その薬品――そう、その茶色の瓶の、それを取ってくれ。今は……もう理由もなく喧嘩しないってことは、わかってる。だけどな、お嬢ちゃん。そんなことはどうでもいいんだ。大方やった奴を庇ってるか、事が大きくなるのが面倒だからなんだろうが、もしあれがもっと酷い傷だったらどうだ? 俺にゃあそれでもあいつが、救急車を呼んだり、近くの病院に駆け込んだとはとても思えない。そういうことだ」
顔を見ることもなく淡々と答える吉永の言葉に、珠恵も、森川にただ従うのではなくもっと他に適切な処置があっただろうと、そう言われている気がした。確かにもしも取り返しのつかない大怪我だったら、と思うと今頃になって怖くなる。
「まあ、そもそも。自分を大事にするやつは、あんなもんを背負ったりしてないだろうがな。だいたい、最近になってやっとだ」
「……やっと?」
「あいつが、まともな人間になったのは」
「え……」
「ここに来た頃は、いつ死んでもいいってな目をしたガキだったからな」
「余計なこと言うな」
二人の会話を止めた森川の声に振り返る。タオルを顔に載せたままの森川の表情は、伺うことはできなかった。
「あの……」
「何だ」
「森川さん、多分熱が」
「ああ、そりゃ熱も出るわな。今夜は多分もっと上がる。まあ、あいつは体力だけはあるから、大して心配する必要はない。ああそうだ風太」
珠恵に答えてから、後ろを振り向いた吉永が声を掛けるのに、森川は何も返事を返さなかった。
「明日から抜糸まで毎日消毒に来い。炎症止めと解熱剤は出しておいてやる。それから、少なくとも一週間仕事は休め」
「は? んな無茶な」
「何が無茶だ馬鹿もんが。利き腕を怪我して役にも立たないだろうが。とにかく駄目だ。お前が言わないなら、俺から親方と喜世子さんに言うぞ」
「わかったよ……自分で言う」
疑問が顔に出ていたのだろう。珠恵の顔を見た吉永がなぜか嬉しそうに笑う。
「あいつが大工だって知ってるか」
「はい」
「最近じゃめっきり少なくなったが、あいつのとこはまだ徒弟制でな。風太も親方の家の離れに住んでる。で、まあ……親方はともかく、そのカミさんの喜世子さんがな。これがなかなか手ごわい女で。なあ風太、お前も頭上がんないだろあの人には。ま、せいぜい叱られとけ」
今度こそはっきりと声に出して笑った吉永に、顔に乗せていたタオルが滑り落ち、不貞腐れた表情を浮かべた森川がもう一度大きな溜息を吐いた。
「今から、もういちラウンドかよ」
「心配するな。すぐKOされる」