どこか、ほかに行きたい場所は本当にないのだろうか――。
気になってはいたものの、さっきまでの騒動がまだ尾を引いているのか、道中いつもより口数の少ない風太に尋ねてみる機会を逸し、当初の予定通り、二人は美術館に来ていた。
江戸後期から明治初期の絵師の絵画や浮世絵を集めたその美術展は、近年になって、再び注目を浴びるようになった絵師の作品が、これまで未公開だったものも含め多数展示されているもので、平日の今日も、比較的多くの人で混み合っている。
年配の人の割合は高かったが、時折学生らしい若い人の姿も見受けられた。
堅苦しいものだけでなく、幽霊画や風刺画、妖怪絵なども展示されていて、昔の時代の想像していたよりも大らかで自由な、ユーモラスでさえあるそれらの作品に、初めは退屈そうだった風太も、思った以上に楽しめた様子だった。
「こんなとこ、来たこともねえから、もっと堅えもんかと思ってたけど、そうでもなかったな」
「本当ですか? よかった……。あの、風太さんずっと退屈だったらどうしようって」
「や、結構エロい絵もあったしな」
「え……」
「昔の奴も、考えてることなんて大して変わんねえな」
「……」
「顔、赤いぞ。どうした」
美術館近くの洋食屋で昼食を取りながら、わざと真面目な顔をしてそんなことを口にする風太は、午前中よりは無口でなくなっていた。今も、顔を俯けてご飯を呑み込んでいる珠恵を見て、内心きっと喜んでいるのだろう。
風太がエロい絵、と言っているのは、平置きタイプのガラスケースに展示されていた春画のことで、慌てて目を逸らし、そそくさと次の展示室に向かった珠恵の反応を揶揄っているのだ。ただ、話している内容はともかく、いずれにせよ珠恵だけでなく風太も退屈しなかったのであれば、ここへ来てよかったのだとホッとした。
食事を終えてから、もう一か所行ってみたい所があると、風太に伝えてみる。
行き先を聞いた風太は、もっと流行りの場所でなくていいのか、と言ったが、それには首を横に振った。勿論全く興味がない訳ではなかったが、なんとなく風太は、そういう場所を余り好きではない気がした。それに本音を言えば。珠恵は、風太と一緒なら、行先はどこでもよかったのだ。
けれど、それを口にするのは、やっぱり少し恥ずかしい。
向かったそこは、歴史的建物として一般にも内部が公開されている、大正時代に建てられた近代和風建築の邸宅だった。震災や戦火を免れた、およそ百年前に建てられたその建物は、保存状態もよく、在りし日の姿をそのまま現在に伝えている。
ここも、図書館で返却された本を整理している際に見つけた書籍で紹介されていた場所で、珠恵はその時から何となく気になっていた。
建物を目にした途端、風太が興味を覚えたことがわかる。中に入ってからも、古い建物から伝わる昔の建築技術や職人達の仕事の痕跡に、長い間見入っている様子だった。途中からは、珠恵の存在も忘れてしまったようで、少し寂しい気もした。けれどそんな風太を見ていると、嬉しくも思えてくる。
随分と長い時間を掛けて見学を終えた風太は、入口付近で、スタッフの男性と話しながら待っていた珠恵の元へと、少し遅れて戻ってきた。
「随分熱心にご覧下さって、ありがとうございました」
そう頭を下げて建物の中へと戻っていこうとしたその人は、彼自身もこの建物に思い入れがあるらしく、風太を待っている間、ここを保存するために先人がどういった苦労をしてきたかなどを、珠恵に語って聞かせていた。
男性スタッフに礼を言って顔を上げると、「どうも」と答えながらその人の後ろ姿を見つめる風太の目が心なしか不機嫌そうだ。
「あの、風太さん?」
「……悪かったな、時間食って」
「いえ」
「ずっと……」
「え?」
「あの男としゃべってたのか」
「あ、いえ。あの、そんなに長くは。あの人がどうかしたんですか?」
「別に」
「あ、もしかして、あの、風太さん何か聞きたいことがあったとか」
珠恵の顔を見つめた風太が、何故か小さな溜息を漏らす。
「あの」
「いや……じゃ、行くか」
どうかしたのだろうか、と思いながら、その後に続いて歩き始めると、門の手前まで来て、風太が不意に立ち止まり振り返った。
「ありがとな」
「え?」
今出てきたばかりの建物をもう一度じっと見つめてから、その視線を珠恵へと向けた風太に礼を言われた理由がわかり、嬉しくて照れ臭くなる。
「いえ、そんな」
俯き加減で小さく首を横に振り顔を上げると、風太の口元に微かに笑みが浮かんでいた。
「でも、よかった」
隣に並んで駅へと向かいながら呟くように口にした珠恵の声に、風太が顔をこちらへと向ける。
「夏に、あの、旅行に行った時に、風太さん旅館の古い建物を熱心に見てたから」
「ああ」
「さっきの建物も、図書館で写真を見て、もしかしたら興味あるかなって、気になってて」
「そうか」
「はい。でも」
中での様子を思い出して、少しだけ笑う。
「何だ」
「やっぱり、見る場所が普通の人とは違ってたから、見学してた他の人が、風太さんのこと、何を見てるのかって気にしてました。同じ場所を、あとから覗いて見たりして、それで不思議そうな顔をして」
建てる者の目線で見るからだろうが、風太が見ていた場所は、通常の見物客は気にしないような場所だったようだ。
――そういうお仕事をされてる方ですか?
風太が出てくる間際に話していたスタッフだけでなく、別の見学者を案内していたスタッフにもそう尋ねられた。そういった職業の人も、結構見学に来るのだという。
苦笑いした風太が、可笑しそうに笑う珠恵を見遣るその表情は、和らかなものだった。
「でも、真那ちゃんには、笑われました」
「何をだ」
「もっと、楽しそうな場所に行けって」
「なんだそれ」
「熟年夫婦か、って……あ……の」
――まあ、珠ちゃんらしいっちゃらしいけど
最後は真那にそう言われたと伝える前に、何も考えず夫婦と口にしたことに、急に恥ずかしさが募り顔を伏せてしまう。それくらいの言葉を、いちいちこんな風に意識してしまう方がどうかしてる。狼狽えているのは勿論珠恵ひとりで、風太は特に気にするでもなく真那の言葉に苦笑しているだけのようだ。
動揺を抑えるように小さく息を吐いて、風太へと向けた視線を正面に戻したその途端、右手に持っていた傘が抜き取られ、代わりに大きくて温かな手が珠恵の手を包み込む。
「冷てえな」
風太が眉根を寄せた。
「あ……、すみません」
建物が傷むからだろう、先ほどの場所はそれ程暖房もきいておらず、確かに身体が少し冷えてしまっていた。慌てて引き離そうとしたその手を、風太がもっと強く握り締める。指が、少しでも温もりを移そうとするかのように、手の甲を撫でた。
「温かいです」
その手を握り返し風太を見上げた頬に、ポツリと雫が落ちる感触があった。
「あ……雨」
空を見上げると、同じようにグレーがかった空を見上げた風太も「降ってきたな」と呟く。朝、喜世子が口にしたように、午後からはいつ降り出してもおかしくない程、厚くなった雲に空が覆われていた。傘を差すほどではない小降りの雨も、恐らくすぐに本降りになりそうだ。
「あそこ、入るか」
視線を巡らせた風太がそう示した場所は、レンガ造りのマンションの一階にある小さな喫茶店だった。
カウベルの音がカランコロンと響く店の中は、コーヒーのいい香りが漂っていた。
「いらっしゃいませ」
風太より少し年上くらいだろうか。店の雰囲気からすればやや若い、けれど落ち着きのある物腰の柔らかそうな店員が、カウンターの中から笑顔を向ける。
窓際にテーブル席が三席、カウンター席が中心の小ぢんまりとした店内には、常連らしい客が二人程カウンターの離れた場所に座り、テーブル席は一席だけが埋まっていた。
窓際の席に腰を下ろして、コーヒーとカフェオレをオーダーすると、しばらくして目の前にそれが静かに置かれる。
「結構、降ってきましたね」
そう声をかけられて、珠恵は店員へと顔を向けた。
「はい。天気予報、当たってました」
人好きのする笑みを浮かべた店員は、「どうぞ、ごゆっくりなさって下さい」と、珠恵と風太へ交互に視線を向けてから、カウンターへと戻って行った。
静かな店内に、邪魔にならない程度の音量で音楽が流れている。初めて入ったのに、どこか落ち着く空間がそこにあった。
カフェオレボウルに手を添えて冷えた指先を温めながら、珠恵は、大きな手で白いカップを持ち上げ、ブラックのコーヒーを口にして微かに目を細める風太をそっと見つめる。
当たり前のようにこうして二人で向き合っていることに、安らぎのようなものを覚える。同時に、なぜだか少しだけ泣きたくなった。風太といると、時々こんな感情に見舞われる。そして未だに、胸を打つ自分の鼓動を、意識してしまう。
風太に向けていた視線をゆっくりと外して、窓の外へと向けた。大きな木枠のガラス窓を、雨粒が濡らし始めていた。
「雨……結構降ってきましたね」
口にしてから、さっきの店員と同じことを言っていると気が付く。
「ああ、でも、この感じじゃそう長くは降らねえだろうな」
「そう……ですか」
「何だ、やまない方がいいのか?」
珠恵の答えに滲む残念な気持ちが伝わったのか、風太が不思議そうに尋ねる。首を小さく横に振って、少しだけ砂糖を加えたカフェオレを口に含んだ。
雨の日は、好きだった。
風太と出会って、雨の日が嫌ではなくなった。
雨が、風太を連れてきてくれる。もう雨が降らなくても、いつでも風太といられる今でも、どこかにそんな気持ちが住み着いてしまっていた。
風太と知り合ってからは、珠恵にとって、雨の日は特別なものになっていたのだ。
「雨が降った日は、風太さん、図書館に来てました」
「そう、だな」
カップを置く音がして、釣られるように顔を上げる。珠恵を見つめる風太の瞳は、どこか、不思議な色をしていた。その奥にある感情を全て覗いてみたいけれど、覗くのがとても怖いような、そんな何かをそこに宿している気がした。
「風太、さん」
黙っている風太に、呼びかけてみる。ずっと、ずっと言いたくて言えなかったことを、今なら口にしてもいいような気がした。
「ん?」
問い返すように眉を上げた風太に向けて、そっと息を吸い込み、口を開く。
「私……あの……私。風太さんが、ずっと内緒で、家に……私の家に行ってくれてたこと、本当にとても嬉しかった」
沈黙に促されるように、言葉を紡ぎ出した。
「嬉しかったのも、感謝してるのも、ちゃんと本当の気持ちです」
何を言うつもりなのかまるで警戒するみたいに、風太の眉根が僅かに寄せられる。
「でも……」
温かなカフェオレボウルから手を放して、もう一度、真っ直ぐに風太を見つめた。
「でも私は。家に……帰る時は、風太さんと一緒がいいです。……ずっと、そう思ってました」
口を閉ざしたまま、風太の視線が、じっと珠恵に注がれている。
「だから、もしも私だけ、戻ってもいいって言われても……戻るつもりは、ありません」
その目が伏せるように逸らされて、窓の外へと向けられた。カウンター越しに話す客と店員の声が、静かに耳に届く。
「私は、風太さんといるって決めたから……だから」
風太が父に向かい頭を下げ続けてくれた気持ちを、無駄にしているのかもしれない。それでも、風太に告げたことは、今の珠恵の本心だった。
父に向けては、長い手紙を書いた。けれど、それを父が手に取り読んでくれることがあるのか、わかってくれる日が来るのか、それはわからない。手紙を書きながら、珠恵自身、初めて気がついた気持ちもあった。
風太とのことを、父にわかって欲しいと思いながら。風太と共にあることが珠恵を不幸にすると決めつけた父の言葉や、風太に向けられた蔑むような表情を、珠恵もまた、どこかで許すことができずにいるのだと。
しばらくの間、黙って雨空を見上げていた視線が、珠恵へと向けられる。
「……そうか」
ポツリと、溜息のようにそう呟いたきり、風太はまた口を閉ざしてしまった。
コーヒーカップを洗う音と、緩やかに流れる音楽の合間に、静かな雨音が聞こえていた。