顔を上げる間もなく、隠すように愛華に手を引かれて、珠恵はそのまま居間から連れ出されていた。
「何すか、今の」
「まあいいから。それより、珠ちゃんももうご飯済ませたし、あんたもさっさと食べて支度しなきゃね」
首を傾げたまま席についた風太は、すぐに喜世子が運んでくれた朝食を食べ始めた。
「そういや、今日は昼から雨だってね」
「ああ、そうですか」
「せっかくなのにねえ」
喜世子の声に相槌を打ちながら、傘をどうしようかと考える。
「美術館なんだって?」
「え?」
「今日」
「ああ、なんか見たい絵があるって」
「ふうん……あんたが絵ねえ」
斜め前に腰を下ろした喜世子が、嬉しそうな顔をする。
「……何ですか」
「あんた達、二人で出かけるの久しぶりだね」
「そうでもないですけど」
「いつもはその辺うろちょろしてるだけでしょうが」
「まあ……」
「いいねえ、デートって」
「や、今更、デートってのも」
「こら風太。あんた珠ちゃんにこれはデートじゃねえ。とか言うんじゃないよ」
「……わざわざんなこと、言いませんって」
つい、苦笑いする。
「ならいいけど。だいたい考えてみりゃ、あんた珠ちゃんをさっさとうちに引っ張り込んじゃって、夏に旅行と祭りに連れて行った以外、ほとんどまともにデートなんて連れてってやってないじゃない」
耳に痛い言葉に、風太は黙って味噌汁を啜った。
「珠ちゃんは女の子なんだし、デートだって楽しみにしてるんだから、あんたもそのつもりでいなきゃダメだよ」
二人で出掛けるだけで、朝から騒がしいのに少しうんざりとする。けれど、喜世子の言っていることも確かに本当で、言い返すことも出来ない。
珠恵とは、結局全てをすっ飛ばして生活を始めてしまっただけに、まともに遊びに連れて行ってやったことはないに等しい。出掛けるのも、日常的な買い物やせいぜいここの最寄り駅や図書館近くの駅で待ち合わせて、夕飯を食べて帰るくらいだ。
珠恵がそれに不満を言うことはなかったが、本心では、どこかに出掛けたり、洒落た店に食事に行くような付き合いをしたいと思っていても、何も不思議ではない。
ましてや、珠恵は何もかもが、風太が初めてなのだ。
――どっか、行くか?
休みが合うと分かった時、特に深く考えずそう問い掛けた風太に、頷きながら嬉しそうにはにかんだ珠恵の反応を目にして、もう少しそういう時間を作ってやればよかったのだろうか、と感じていたのも確かだった。
「あ、戻って来たみたいだね」
喜世子が呟くのとほぼ同時に、廊下から足音が聞こえ、珠恵を伴った愛華が居間の入口に現れた。
「じゃーん、ほら風太、どう?」
顔を上げて、なぜか勝ち誇ったような顔をしている愛華から、視線をその後ろに隠れるようにしている珠恵へと動かして――。箸を持つ手が止まる。
「ちょっと珠ちゃん、顔あげなって」
「愛華ちゃん、あの、やっぱり」
愛華に小突かれて顔を上げた珠恵は、一瞬だけ風太を見て、すぐに視線を逸らしてしまった。
恐らく借り物だろう服は、決して派手ではなく、普段愛華が着ているものの中でも比較的大人っぽいワンピース。手に持っているのは、暖かそうな白いフード付きのコートのようだ。
何がどう違うのかはわからないが、いつもより更に柔らかい、ともすれば甘くさえ感じられるいつもとは少しだけ違ったメイクを施した珠恵が、頬を微かに赤く染めて、立っている。風太は、しばらくの間そこから視線を動かせずにいた。
「あ、の」
じっと見ていると、珠恵が、恥ずかしそうに眼を泳がせた。唇も、いつもよりふっくらとして艶めいている。
「ちょっと、何かないの」
鼻を鳴らすようにはしゃいで笑う愛華の声が、耳障りに響く。
「……何が」
答えた声色は、不機嫌さを隠しきれておらず、皆の戸惑う空気が伝わってくる。珠恵から顔を逸らし残りのご飯を一気に掻き込む風太を、向かいに座る喜世子の目が、責めるように見ていた。
「は? え、なにそれ?」
「ごっそさんです」
箸を下ろし、おざなりに手を合わせる。
「ちょっ、風太、何がってなに? 何怒ってんの。せっかく珠ちゃん可愛くしたのに、何その態度」
「るせえ」
愛華の声を遮り、珠恵を見遣ると、ばつが悪そうに赤くした顔を俯けてしまった。
「あの……愛華ちゃん、わ、私やっぱり」
「珠ちゃん、あんなの気にする必要ないって。絶っっっ対かわいいもん」
珠恵の声が消え入りそうに震えたことに、流石に気まずさを覚える。二人から注がれるあからさまな非難の視線を無視して、風太は立ち上がり廊下へと足を向けた。
「ちょっ、風太っ」
「愛華、余計なことすんな。ほら、行くぞ」
一瞬、驚いたように目を丸くした愛華の顔色が変わる。
「はあ? 何それ全っ然意味わかんないんですけど。てかその態度、有り得なくない? 珠ちゃんそんな男ほっぽって、もう浮気してやれっ」
足を止め一瞥すると、風太の視線に怯んだ愛華が一瞬口を噤んだ。強張った珠恵の手を取り、無言のまま居間を後にする。
「え? うそ、信じらんない……さいってーっ、そんな奴って思わなかった、バカ風太っ」
罵声を浴びせる愛華の後ろで、見透かすように呆れた苦笑を浮かべる喜世子の顔が、最後に見えた。
「……ほんと、しょうがないね」
そう呟いた喜世子へと、愛華が、怒りを抑えきれない形相のまま顔を向ける。
「は? てか、あれ酷くない? 珠ちゃん可哀想すぎ」
「まあ、さすがにあの態度はどうかとは思うけど」
「じゃ、何で笑ってんの? やっぱムカつく。ちょっと言ってくる」
「やめときな」
「なんで」
「ほっときゃいいって。どうせ、風太が謝ることになんだから」
「でも」
「はあ、それにしても、ほんと馬鹿だね男は。ほら愛華、あんたも早くご飯食べちゃいな」
「意味わかんないんだけど」
怒りが収まりそうにない愛華を宥めながら、喜世子は、もう一度呆れたように苦笑を浮かべて、台所へと戻って行った。
部屋に戻ってきたものの、珠恵は、入口で立ち止ったまま動こうとしなかった。
何も言わずに手を放し、奥の部屋で着替えを済ませた風太が戻ってくると、顔を逸らしたままの珠恵が、入れ違いに奥の部屋へと向かおうとする。
「珠恵」
「着替えてきます」
後ろから腕を取って引き止める。強張った顔をしたまま、風太を見ようともしない珠恵の様子に、それも当然かと、自分の狭量さに我ながら呆れてしまう。
「いい」
「離して、下さい」
「……珠恵」
「だって……風太さん怒ってる」
小さく呟いた珠恵は、せっかくふっくらと綺麗に口紅を塗って貰った唇を、固く結んでしまった。
「……気に、入ってんだろ」
自分の気持ちにどうにか折合いをつけ、風太は、辛うじてそう口にした。
「いいです。余計なこと、したから。わ、私なんかに、似合わないですよねこんなの。それに……風太さんが、気にいらなければ、意味なんて」
「――……じゃねえ」
ばつの悪さに、溜息を吐きたくなる。
「顔も洗ってきます」
「珠恵」
「嬉しくて、調子に乗って……だから、すみませ」
「違う」
さっきから一度も風太を見ようとしない珠恵の足元で、水滴が畳に落ちる音がした。
「似合わないとか、思ってねえから」
「もう……いいです」
せっかく二人で出掛ける前にこの状態では、もうどんな言葉で取り繕っても手遅れだろう。こうなったら、本当のことを口にするしかない――。
風太は、諦めて小さく息を吐き出した。自業自得とはいえ、ひどく苦々しい気持ちを呑み込む。
「連れて……出たくねえって思ったんだよ」
「……ひどっ」
顔を上げた珠恵の両肩に、風太を拒むように力が入る。それを無理やり引き寄せて、胸元に頭を抱き込み顔を見せないようにしてから、天井の方へと視線を向けた。
「離して、下さ」
「他の野郎が見んだろ」
自棄にも聞こえる大きな声で風太が口にした言葉の内容が、頭に届くのに時間が掛かったのだろう。しばらくしてから、不意に、腕の中の身体から力が抜ける。
「……へ」
「だから……他の、奴も見んのかと思ったら」
「あ、の……え?」
「なんか、凄えムカついて」
「ふう、た、さん?」
「くそっ……んでこんな」
珠恵の、ゆったりと巻かれた髪の隙間から見える耳が、赤くなっている。ようやく、風太の言い訳を理解したらしい。
「……も……いい、です」
「お前今、俺のことバカみてえって思ってんだろ」
「思って……ません」
「嘘つけ」
「ほ、ほんとです。でも……」
呟くような声からは、いつの間にか固さが消えていた。先を促すように、そっと髪に触れてみる。小さく珠恵の身体が揺れて、やがてクスっと笑みが漏れる。風太の身体からも、少し力が抜けた。
「心配しなくても、誰も……私なんかにそんな、関心持たないです」
「んなの、わかるか」
そっと顔を上げた珠恵の表情は、さっきのものとは違う恥ずかしそうな見慣れた顔で、自分で蒔いた種ではあったが、内心ホッとしていた。いつもより少し長い睫毛の先が、まだ僅かに濡れている。緩やかな弧を描く艶めいた唇に、視線が吸い寄せられる。
風太は、再び零れそうになった溜息を、今度は何とか堪えた。
「出かける前に、もういっぺん愛華になおして貰え」
「……でも」
「このままにしてみろ。俺は、当分飯も食わして貰えなくなる」
先程の喜世子と愛華を思い出すだけで、うんざりする。正直、当分は顔を合わせたくないくらいだ。
苦笑いして、誘うような色をした唇に親指でそっと触れた。粘度のある仄かに光るピンクが、指先に移る。
「いいから、行ってこい。ただ……」
その指を、珠恵に向ける。
「これは、違うのにしてくれねえか」
「え?」
「なんつうか……気になって落ち着かねえ」
風太の指先を何ともいえない表情で見つめてから、小さく頷いて、珠恵が腕の中から離れていく。
もっとずっと――派手な化粧や、妖艶ともいえる色に濡れた唇を知っている。それを、特別な感情で見たことなど、風太はこれまで一度もなかった。
ほんの少し風太を見つめてから、珠恵が、鞄を手に取りドアへと向かう。その後ろ姿に、声を掛ける。
「珠恵」
立ち止まり振り返る珠恵の髪が、柔らかそうに肩口で跳ねた。
「はい」
「急がなくていい。表で、待ってっから」
笑みを浮かべて頷いた珠恵の姿が、視界から消える。ドアの閉まる音を聞いてから、さっきより確かに和らいだ部屋の空気に、風太はそれまで堪えていた溜息をそっと吐き出した。