十二月も半ばの月曜日。
その日、天気が理由でなくたまたま仕事が休みだという風太と、図書館が休館日の珠恵は、二人で出かける予定になっていた。
実際のところ一緒に暮らしてみると、天候や工期など外的な要素に左右されやすい風太の休みと、月曜以外の休暇は自分の希望を後回しにしがちな珠恵の休みが重なるのは、ごく稀なことだった。
珠恵の勤める図書館も、ここ数年の時流に乗る形で、来年の春からは年末年始と蔵書整理の期間、臨時休館日をのぞき無休になる。それに合わせ、開館時間も延長されることになっていた。だから、月曜日が休日になるのは、もうあと僅かの間だ。
――どっか行きてえとこあるか?
風太にそう聞かれた時、珠恵の頭に思い浮かんだのは、少し前から図書館にポスターを貼り出してあった美術展だった。話題になっているような流行りのスポットは、そういった場所に普段からあまり行くことのない珠恵にとっては、落ち着かずピンとこない。
だからつい、美術館に行きたいと答えてはみたものの、頷いてくれた風太は、本当は興味などなかったんじゃないかと、言ったそばからそのことがずっと気になっている。
天気予報は、午後からはにわか雨。
空は、早朝から生憎寒そうな雲に覆われていたが、それでも、二人でどこかに出掛けることに、夕べからずっとソワソワした気持ちが続いている。
母家の外で待っている風太の元へと向かいながら、珠恵の足が、自然と急いてしまう。
朝からのひと騒動のせいで、予定よりも少しだけ、家を出るのが遅くなってしまっていた。
***
楽しみ過ぎて朝早くに自然と目が覚めた珠恵とは違い、風太は目覚ましが鳴ってからもなかなか目を覚まさず、「出かける三十分前に起こしてくれ」と言いながら、布団に潜り込んでしまっていた。
朝食は母屋でとる予定にしていたので、身支度を整えた珠恵は、風太を置いて先に部屋を出た。
こんな風に、珠恵よりも遅くまで眠る風太の姿を見られるようになったのは、ここ最近のことだ。だから、今日もなるべくゆっくりと眠らせてあげたかった。
しばらく前から、風太が毎朝珠恵の実家を訪ねることは、なくなっていた。師走に入った頃、昌也を通じて、『毎朝家に来なくていい』という父の言葉が伝えられたからだ。
昌也曰く「もっと全然可愛げのない言い方だった」そうだが、やはり転職することにしたらしい父は、父らしく殆ど間を置くことなく新しい会社へと移り、それにより泊まりで出張に出る機会も増えたのだという。
――しつこく家に来たところで無駄だ
――隣近所にも変な噂が立つだけだとわかりそうなものを。あの男にそう言っておけ。
本当のところはそんな言い回しだったと教えてくれた昌也は、「隣近所なんてさ、えっ今更?って感じだろ。そんなのもうとっくだって」と、呆れたように笑っていた。
その話があって以来、風太は、五か月近く殆ど毎日通っていた実家詣のペースを、落とすことに決めたようだった。それでも、まだ時折は訪ねることを続けている。
「俺なら絶対くじけるよ、あのお父さん相手じゃ」
昌也が、ポツリとそう漏らしたことがある。
珠恵の中にも、ずっと葛藤があった。喜世子からは止められたが、もういいと風太に伝えたいと、何度もそう思った。それに、父がまた風太に酷い言葉を投げつけているのではないかということも、気懸かりだった。
ただその懸念については、最初の頃はともかく今は大丈夫だと、昌也が拭ってくれた。「まあ、ひとことも、口もきかないけどね」と、付け加えてはいたけれど。
母のほうは、あれからまた一度、珠恵の元を訪ねて来てくれた。時折、電話が掛かってくるようにもなった。二度目の訪問の時、喜世子と楽しそうに話していた母は、多分父は、母が珠恵と会っていることも、最近は連絡をとっていることも、勘付いていると口にした。
「多分……気が付いてて、知らない、振りをしてるように思うの」
そう伏し目がちに笑みを浮かべてから、母は、珠恵の目を見つめて言った。
「お母さんね、もし、お父さんに聞かれたら……そうです、って、ちゃんと答えるつもり」
いつもと変わらない穏やかで静かな母の声は、けれど、どこか自分を鼓舞しているようにも聞こえるものだった。
「もし出て行けって言われたらさ、美佐子さんもうちに来りゃいいよ」
喜世子のいたずらっぽい笑顔と、そんな言葉につられて、母の顔にも、自然と柔らかな笑みが浮かんでいた。
「おはようございます」
朝食をとりに母屋へ上がると、親方は週に一度の診察のため朝から吉永医院に行っているらしく、もう居間には姿が見当たらなかった。
「どうせ起きてきたら、さっとかき込むんだから、待ってなくていいよ」
風太がまだ眠っていることを喜世子に伝えると、そんな返事が返ってくる。結局、支度をして二人で、先に朝食を食べ始めることにした。
今日の予定を話したりしながら、殆ど食事を終えようとする頃、廊下をドスドスと鳴らす足音が聞こえてきた。その音に喜世子が顔を顰めるのがわかる。
「あー、くそねみっ」
大きな欠伸をしながら居間に入ってきたのは、試験休みのためいつもより遅く起きてきた愛華だった。
「ったく、もっと静かに歩けないのあんたは。だいたい朝から下品な言葉遣いするんじゃないよ」
喜世子の小言はすっかり聞いていない様子の愛華に、おはようと挨拶をする。すると、こちらへと顔を向けた愛華は、なぜか渋い表情を浮かべて上から珠恵をじっと見下ろした。
「ねえ、珠ちゃんさあ、今日ってデートじゃないの」
「え?……うん」
仏頂面の愛華に、何か気に入らないことがあるのだろうかと戸惑いながら頷く。
「もしかしてさあ、それで行くの」
「え? それ、って」
「だってさあ、いつもと全っ然変わんなくない? メイクとか服とか」
「うん……」
さんざん迷った末に、珠恵は、結局普段仕事に行く時と変わらない格好をしていた。どうやら、愛華はそれがお気に召さないらしい。
「あのさあ、毎日一緒にいるからって、そういうの手ぇ抜いてたらすぐ飽きられんじゃないの」
「そ、そうかな」
「ちょっと愛華っ、あんたは珠ちゃんにまたそういう余計なこと言って」
気持ちよく食べ進んでいた箸を持つ手を止めて、喜世子が娘を振り仰いだ。
「珠ちゃんは、これでいいの。あんたみたいに高校生なのにケバいのより、こういう清楚なのがいいんだよ」
面倒臭そうな顔を隠そうともせず、愛華も負けじと言い返してくる。
「んな訳ないし。ってかいちいち口挟んでくんのマジうざっ。今、珠ちゃんにしゃべって」
「親に向かってうざいとか」
「あーあーあーもううっさいな。連れて歩くなら絶対、綺麗にしてる女の方がいいに決まってるし」
「あ、愛華ちゃん、あの、私、お化粧してもそんなに変わらないし。それに流行の服とかも似合わないから」
どんどんエスカレートしそうな遣り取りに慌てて口を挟むと、話を止めた二人が、なぜか、どこか似たような顔をして珠恵を見つめた。
「だ……から、あの、いつもと同じ方が落ち着くし。あの……あ、私、そろそろ風太さん、起こして来ます」
突き刺さるような二人の視線から目を逸らし、残りのご飯を急ぎ口へ運ぶ。そうして、食べ終わった食器を片づけようと立ち上がりかけた時――。
「そうだっ、待って待って」
愛華の大きな声に、珠恵は半端に腰を浮かしかけたまま、止まってしまった。
「ね、ちょーっとだけ、やったげる」
「え?」
「愛華」
「だあぃじょーぶだって。超可愛くしたげるし」
「あの、でも」
自分の提案に浮かれたように笑った愛華は、首を横に振ろうとする珠恵にはお構いなしに、勢いよく居間を出て行った。どうしたものかと喜世子を見ると、苦笑いを浮かべるだけで、何も言わずに止めた箸を動かし始めてしまう。
すぐに、大きな足音を立ててもう一度居間へと戻って来た愛華は、立ち損ねていた珠恵の隣に「よいしょ」と、胡坐を組んで座り込んだ。何を言っても無駄だと思っているのか、手を合わせてから立ち上がった喜世子が、食べ終えた二人分の食器をさっさと片づけ始める。
「ちょっと、顔こっち」
気になって喜世子を目で追っていた珠恵は、殆ど命令口調の愛華の声に、慌てて顔を振り向けた。珠恵が持っているよりもずっと多くの化粧品が入った籠の蓋を開けて、愛華は、ブツブツと何か呟きながら、その中身を取り出してテーブルに並べていく。
「あの愛華ちゃ」
「黙って」
ぴしゃりと言われて、勢いに呑まれ口を噤む。前髪をクリップで挟み、珠恵の顔をいじり始めた愛華の目は、思ったよりもずっと真剣なものだった。
化粧をしなくても綺麗にカールしている愛華のまつ毛が、目の前で時折瞬く。その様に気を取られながら、珠恵は、後はもうただされるがままになっていた。
中身は変わらないのに、こんなに真剣になって貰って却って申し訳ないな――と思いながら、言われるままに唇や瞳を閉じたり開いたりする。そうして、最後に淡いピンクの艶のある口紅を唇に塗り終えた愛華が、「うん」と、ひと声頷いた。
「いいじゃん」
唇の端を上げて得意気に笑った愛華が、前髪を止めていたクリップを外す。続けて、毛先に巻いていたホットカーラーを外し手櫛を入れてから、電車の中や図書館で女の子達が持っているのを見かける、可愛くデコレートされた鏡を珠恵に手渡たした。
「見て見て」
急かされて、おずおずと視線を動かしてみる。
「あ……」
全体的にほんのりとした薄いピンクで纏められたメイクは、いつもよりも珠恵の顔を柔らかく女性らしく見せていて、思わず鏡に見入ってしまう。
「なんか……違う人、みたい」
「んなめちゃくちゃいじってないって。でも、さっきよりイイっしょ」
ケラケラと笑う愛華を見上げるまつ毛の存在感が、いつもよりしっかりと感じられる。瞬きする一瞬、感じたことのない不思議な感覚があった。
「あの……ありがとう、愛華ちゃん」
二人のやり取りが気になっていたのだろう、洗い物の手を途中で止めた喜世子が、こちらへとにじり寄ってくる。
「ちょっとちょっと、私にも見せてよ」
恥ずかしく思いながら顔を上げると、珠恵を見つめた喜世子が、少し目を丸くして、満面の笑みを浮かべた。
「へえー愛華、あんたなかなかやるねえ。ちょっと見直したよ、いいじゃない珠ちゃん」
「あ、あの……すみま、せん」
「ウケる、なんで謝ってんの」
愛華が、また可笑しそうに声を上げて笑う。
「でもあれだねえ、あんたも無駄に自分の顏ばっかりいじってんじゃなかったんだね」
「うっさいなあ」
「うん……いつものも自然でいいけど、たまにはこういうのもいいね。風太、きっと惚れ直すよ」
「え……あの、いえ」
注目されているのが恥ずかしくなって、つい目を逸らしてしまう。
「俺が何っすか」
その時、風太が、シャツの裾から手を入れてお腹を掻きながら、居間の中へと入ってきた。不意をつかれ、珠恵は思わず慌てて顔を伏せた。
「あれ、なに風太、あんたもう起きてきたの」
「起きてきちゃ、マズイことでもあるんですか」
「や、そうじゃないけどね」
そんな遣り取りを余所にひとり狼狽えている珠恵の耳元で、愛華がこそっと囁いた。
「珠ちゃん、次、服」
「え?」
「風太、珠ちゃん、ちょっと借りるから」