傷口から流れ出た赤い血の色とも、人の肌の色とも違う、鮮やかな色彩――。
足を止めてしまった珠恵の視線に気が付いた森川が、微かに苦笑するのがわかった。
「びっくりしたか。そりゃまあ、そうだろうな」
「あ……あの」
「悪いけど、少し手を貸してくれ。タオルを巻くだけでいい」
「え、あ……」
我に返り、慌てて地面に膝をついた。
「ごめんなさい」「足、汚れるぞ」
声が重なり、上げた視線が交差する。頬を窪ませるいつもの笑みを浮かべた森川が、珠恵の膝を顎の先で指し示した。
足が汚れることも地面の冷たさも、そんなことは今、気になどなるはずがない。首を横に振って、意思を伝えるようにタオルを広げ、森川をもう一度見つめた。
「じゃあ、俺が手を離したら、傷周りをそれで覆って、ハンカチと同じように思いきり強く縛ってくれ」
頷くと、軽く腕を持ち上げた森川の脇の下からタオルを通す。視線が、どうしてもそこにある絵柄を捉えてしまう。
――花?
今は血で赤く染った鮮やかな花びらは、その形からいってどうやら桜のようだ。そして波打つような模様の、濃紺の色彩。
引き剥がした視線をそこから逸らし顔を上げると、珠恵を見ていたのだろう森川と目が合って、気まずさに目線を僅かにずらす。
「すみませ――」
「手、離すぞ」
「はい」
そっと森川が手を離すと、皮膚に走った赤い一筋の傷口から、また血が流れ落ちていく。珠恵はそれを素早くタオルで覆うと、できるだけ力を入れて縛っていった。
「……謝らなくていい」
静かな声が聞こえ、顔を上げた拍子につい緩みそうになった手元にもう一度力を込める。
「こんなもん、普通、目にすることないだろうからな。特にあんたのようなちゃんとした人間は」
「……いえ」
自嘲めいた言葉にただ小さく首を横に振り、手元に意識を集中しようとしながら、やはり頭の中はまだ動揺していた。
「どうでもいいだろうけど」
――ヤクザ……なのだろうか
けれど、不思議と森川自身に怖さを感じることはなかった。目の前で起きている現実が余りにもいつもの穏やかな日常とはかけ離れていて、感覚がどこか麻痺しているのかもしれない。
「一応、その筋のモンじゃねえから、心配しなくていい」
何を、心配しなくていいのだろうか。返事のしようもなくて、自分が結びつけたタオルを見つめながら、詰めていた息をそっと吐きだした。
タオルには薄っすらと血が滲んでいる。
落としていたパーカーを左手で拾い上げ、裂けた右腕のあたりを確かめた森川は、溜息を一つ漏らしてから、それを羽織るような動きを見せた。幸いパーカーは黒色だったため、破れてはいるが血が付着している事まではわからないようだ。
立ち上がり背後に回ろうとした珠恵の足元に、血の付いたナイフが落ちていてギョッとする。
目を逸らし伸ばした手でパーカーを掴むと、「悪いな」と言いながら、森川が手を離した。引き寄せたパーカーからは、森川の匂いがした。
広げたそれを背中から回して、着るのを手伝う。自由になる左手を通し、右側は上からただ羽織っただけの森川が珠恵を見上げた。
「助かった。もう、行ってくれ」
そう口にした森川を見つめ返して、首を小さく横に振る。
「あの、図書館に、多分まだ人が残っています。連絡して病院に」
「いや、いい」
「でも、こんな怪我、病院だけじゃなく警察にだって」
「病院は今から行く。警察はいい。人も呼ぶ必要ない。あんたも黙っててくれ」
「でも、これっ……昼間の、あの高校生に」
微かに眉を顰めた森川の、珠恵を見つめる目が少し鋭くなる。
「見たのか」
「え……あ、だって……さっきここから」
「あいつらと顔合わせたのか」
問い詰めるような口調に小さく頷くと、舌打ちが聞こえた。
「余計なことに巻き込まれたくなきゃ、口を噤んでろ。あいつらも放っておけば、わざわざ蒸し返しには来ない。警察になんか行けば、あんたが告げ口したと余計な恨みを買うだけだ」
「でも、森川さん……これで、さ、刺されたん、ですよね」
森川の口調の鋭さに、返す声も小さくなっていく。珠恵の視線を追ってナイフを見つめた森川は、疲れたように溜息を吐き出した。
「俺のことは問題ない。とにかく、あんたは何も見てないし知らない。それでいい」
片手を付いて立ち上がった森川は、血の付いた服の袖をポケットにねじ込み左手で尻をはたくと、珠恵が持っていたリュックを左肩に掛けた。そうして、もう一度屈み込むと、足元のナイフを拾い上げた。
軽く手首を捻るような動きと、カシャカシャと金属が触れ合う音と共に、まるで森川の手に吸い込まれるようにナイフが折り畳まれていく。
ほんの一瞬の、目にも止まらぬ程滑らかなナイフの捌き方は、初めて触れた者のそれではなかった。
恐らくあの男の子達の誰かの持ち物だったのだろうそれは、バタフライナイフと呼ばれる種類のもののようだ。以前この手のナイフを使った事件が起きた時、ニュースで取り上げられていたものによく似ていた。けれど、今日のこれはテレビの画面の中の出来事ではない。
身動きもできずに、ただ、森川が鞄にそれを仕舞うのを見ていた。
「ハンカチ、汚して悪かったな」
珠恵の視線に苦笑を浮かべながら、森川がそう口にする。自分は怪我を負いながら、さっきからハンカチや足が汚れることを気にする森川に、胸のどこかに、悲しいのか腹が立つのかわからない小さな痛みのようなものを感じて、大きく首を横に振った。
「いえ……」
「気をつけて、早く帰れよ」
背を向けた森川が去っていく足音が、少しずつ小さくなる。
吸い込まれるように鞘に収まったナイフの切っ先が描く残像。肌を彩る鮮やかな色。それらが、目の奥に浮かぶ。
動揺を鎮めるように小さく息を吐き出し、地面に放り出していた鞄を取ろうと伸ばしかけた手を、珠恵はそこで止めた。手のひらに、赤い血がついている。
見つめていたその手を握り締め、息を吸い込んで、珠恵は鞄を手に取り走り出した。
「待って、ください」
ひと気のない道を選んでいるのだろう、公園から細い裏道に抜ける出口へと、森川は向かっていた。少ししか遅れていないはずなのに、もう随分先に行ってしまっている。
必死で追いかけると、足音に気が付いたのか振り返った森川が、いつになく険しい怪訝な表情を浮かべた。
「病院までっ」
切れた息を整えて、森川を見上げる。
「病院まで、一緒に行きます」
「いい。一人で行ける」
「わかっています。でもっ、やっぱり心配で」
「大丈夫だ。いいから帰れ」
「いや、です……。警察に、話すなと言うなら黙っています。人を、呼ぶなと言うなら呼びません。でも、それなら……っ、び、病院には一緒に行きます」
迷惑そうに顰められた顔にも、深い溜息にも、怯んだり引き下がったりするつもりはなかった。ただ、森川の怪我が心配だった。
警察に言わないという森川が、果たして本当に病院に行くのかさえ疑わしい。
「駄目って言われても、ついて行きます」
寄せられた眉根が微かに緩み、少し目を見開いた森川が、もう一度小さく溜息を吐いた。
「あんたって……」
口元に苦笑いが浮かぶ。
「思ったより、強引で頑固だな」
森川の言葉に驚いて顔を上げると、それ以上は何も言わず歩き始めてしまった背を見つめる。
――強引で、頑固
自分のことを言っているとはとても思えないその言葉に、しばらくしてから、顔から火が出る程の羞恥が込み上げる。
確かに森川と関わるようになってから、今まで知らなかった自分の一面に自分で驚くことは多かった。
もうついて来るなとは言わない森川を追って、すぐ後ろをついて歩きながら、心配する気持ちも本当なのに、それだけではないどこか浮足立つような、ふわふわとした気持ちが胸の片隅に湧き上がってくる。
けれど相反するように、拭いきれない動揺と戸惑いも確かに存在した。
森川の肌を彩るもの。
あれは、外国や最近は日本でも時折見かけるようになった、ファッションの一部のように彫り込まれている所謂タトゥーといった感じの代物ではなかった。
恐らく、あの腕から背中にかけて施されているのであろう色彩、あれは――。
刺青だった。