驚いて顔を横に向けると、ついさっきまで携帯での通話を続けていた男の子が、立ち上がり誰かに掴みかかっている。
――え?
高校生が話していたはずの携帯を何故か手にしている森川が、彼を見下ろし苦笑いを浮かべていた。
「ざけんな、返せ」
「あの漢字、読めるか?」
「ああっ」
「つうわきんし、って読むんだよ」
「っせえ、おっさん、いいから返せよ」
「お前らも。飲食禁止って文字も読めねえほど馬鹿なのか」
椅子に腰かけたまま森川を睨むように見ていた他ののメンバーが、ゆっくりと腰を浮かす。気にする素振りもなく、森川は自分の襟首を掴んでいる男の子の方へと顔を近づけ、耳元で何かを囁きかけた。
「はっ、何ハッタリかましてんだよ」
小馬鹿にするような笑みを浮かべて睨み返してくる相手を、森川は見つめ返している。ただそれだけなのに、その状況に徐々に追い詰められているのは、明らかに男の子の方だった。
呆然と成り行きを見つめている珠恵にも、彼の目に迷いと怯えのようなものが走るのがわかる。仲間の高校生達にもその空気が伝わったのか、僅かに動揺し始めていた。
森川の表情はいつもと変わらないように見えるのに、その目には見たことのないような光が宿っていて、確かに彼らはそれに気圧されているようだった。
「おい、ケント、お前なにびびってんだ」
「うっせぇ、誰がびびってるって? オッサン、返せよいい加減、てめぇ殺すぞ」
もう一度、虚勢を張るように森川を睨みつけたケントと呼ばれた男の子は、けれど何故だかさっきからずっと、襟首に掴みかかったまま、腕を動かせないでいるようだった。
それ程力を入れてるとは思えない森川の手が、彼の手首を片手で握り締めているから、なのだろうか。
その時、フロアの入口からバタバタと足音が聞こえた。振り返ると、真那が警備員と上のフロアにいた男性職員の遠藤を呼んできてくれたようだった。
「福原さんっ」
途端に身体の力が抜けそうになった珠恵の元に、真那が走り寄り手を掴んで引きずるように後ずさった。
「遅くなって、ごめんね」
泣きそうな声色の真那に笑って首を振ろうとするのに、安心したせいか唇も身体も震えて、それを止めることができない。真那の手が温かいことにホッとして、涙が滲んでくる。
「もう大丈夫だから。ごめんね……やっぱり私もここにいればよかった」
そうではない、と首を横に振りながら顔を上げると、一瞬森川と目が合った気がした。
「うぜっ、出てくっつってんだろ」
「離せよじじい」
「ケント行くぞ、誰だよ、いい場所見つけたっつったの」
「ま、待ちなさい」
警備員に掴まれた手を乱暴に振りほどいた彼らは、口ぐちに悪態をつき鞄を手にぞろぞろとフロアから出て行き始めた。明らかに腰が引けながら、形だけは彼らを問い詰めようとしている遠藤達も、彼らを追いかけて、図書館の出口へと向う。
一人残されたケントは、森川が手を離すとよろけるように後ずさり、大きな舌打ちをした。
尖った鋭い視線が、珠恵の方へと向けらる。身体がビクッと動き、手を握っていた真那の指にも力が入った。
「――おい」
低い声が聞こえて、それを発した森川へと視線が集まる。ケントが片側の眉を上げて声の主を見上げた瞬間、突然森川は彼らの座っていた席の奥へと足を向けた。
そこには外に設けられたテラス席に通じる扉があり、内側から簡単に開くようになっている。さすがに冬の最中である今は利用者も殆どいないが、屋外のその席は、気候のよい時季には利用者からの評判もよかった。
「おいっ、てめ何すんっ、待てよ」
扉を開けた森川が、何をするつもりか気が付いたケントが後を追った時にはもう、彼の携帯は、空に向けて放たれていた。その辺りは建物の裏手に当たり、冬でも木々が密生している。人の出入りは殆どなく、ガサガサッと葉を払い落とすような音だけが微かに耳に届いた。
「ざけんなっ」
怒りに青ざめたケントが振り上げた拳が森川に向かう。上げそうになった悲鳴は、けれど途中で止まった。その手をいとも簡単に掴んだ森川が、腕をねじ上げていたからだ。
「さっさと探しに行った方がいいんじゃねえのか。こんなとこで話すくらい、よっぽど大事な用があるんだろ」
背を向けている森川の表情はこちらからは伺うことはできない。ただその声色は、恫喝めいたものでなく、揶揄しているかのような響きをもつものだった。
突き放すように前に押し出され解放されたケントは、大きく舌を鳴らすと、本当に典型的な捨て台詞を吐き、仲間から遅れて最後にその場を後にした。
入れ替わるように戻って来た遠藤と、他のフロアから一階に駆け付けてきた職員が、こちらに走り寄って来た。周囲からパラパラと拍手が沸き起こり、驚いたように目を開いた森川が、心地悪そうに頭を下げる。
その視線が珠恵の方に向けられた瞬間、詰めていた息を吐き出した唇が震えて、目尻に溜まっていた涙が一滴胸元に落ちた。
泣いている場合じゃない。彼らがそのままにしていった机の上を片付けて、業務に戻らなければ。それに、上に報告する必要もあるだろう。フロアにはまだ利用者もいるのだ。震える息をどうにか抑えて、頬を拭ってから森川に頭を下げた。
真那は、まだ背中を支えてくれている。こちらに近付いて来た森川が、目の前で立ち止まった。
「すみ、ません……あの、ありがとう、ございました」
「いや……」
どこか気まずそうな顔をした森川の視線が、僅かに下がる。その先には、まだ少しだけ震えている珠恵の指があった。誤魔化すように、手のひらを握り締める。
「……そりゃ怖えよな」
小さく溜息を吐いた森川は、そのまま口を噤んでしまった。
逃げられてしまったが何があったのかと、戸惑い気味に視線を向けてくる遠藤達は、関わり合いになるのを恐れたのだろう、本気で彼らを追いかけた様子はなかった。
簡単な事情説明を聞くと、後で館長に報告するように、との指示を残し業務へと戻っていく。
「全く、今日みたいな日に限って」
と、ぶつくさと愚痴を言いながら。
「今日に限ってはこっちのセリフだっつうのっ。ごめんね、よりによって頼りになんない遠藤さんしかすぐには見つかんなくて」
呆れたような視線を遠藤の背に向けて、真那が不満気に口を開く。
「あ、真那ちゃん、あの、カウンター」
「大丈夫、三階から廣瀬さんも来てくれたから」
「じゃ、すぐに片付け」
「あ、それ私がします。福原さんは先にカウンターに戻ってて下さい。もう、大丈夫?」
もう一度心配そうに向けられた視線に笑って頷く。ホッと笑みを返した真那は、今度は森川へと顔を向けた。
「あの、本当に有難うございました。森川さん強いんですね。お陰であいつらあれ以上何も出来ずに出てってくれました。ほんと、ここはあんな奴らが遊ぶとこじゃないっつうの」
「や、まあ……。仕事柄あいつらより確かに腕力はあるけど、別に大して強いわけじゃねえよ。それに実際のとこ――」
真那がブツブツ言うのに苦笑いしながら、森川は少しだけ言葉を切った。
「俺は、あいつらよりもっとひでえガキだったからな。ほんとは偉そうなことは言えねえし」
そう続けられた言葉に、僅かの間真那と視線が絡む。中学の勉強をしている森川を知っているだけに、彼の過去にある程度は想像がついていて、その言葉にさほどの驚きはなかった。
「でも今は立派に更生してるじゃないですか。それに、助けてもらったことに変わりないです」
何か言わなければ、と珠恵が思っている間に、真那が何の躊躇もなくスラスラとそう口にした。
「立派に更生……どうだろな」
もう、いつもの見慣れた表情に戻った森川が、ふと珠恵を見つめた。
「今日は、やめた方がよさそうだな」
「え……?」
一瞬、何を言われているのかわからず戸惑う。
「いや、ほら問題」
「あっ、あの、でも」
「あんた……いや、福原さんも大変だったし、それどこじゃ」
「それは、でも」
二人のやり取りが始まると、真那はその場を離れ先に机を片付けに行ってしまった。
私は構いません――と返そうとして、珠恵はふと自分がしなければならないことを思い出した。
「そう、ですね。今日は、今の事を、上の者に報告する必要があるので、帰り、遅くなるかもしれませんし」
「ああ」
頷いた森川は、思案顔で口元に手を当てた。
「もし俺のしたことになんか問題があるなら、俺も、説明した方がいいか」
「あ、いえ、そこまでは。あの、ただ、助けて下さったので、お名前くらいは必要があれば、報告させて頂くかもしれません」
「それはまあ、できれば誰だかわからない、って言っといて貰う方がありがたいけどな。ただもし。ここに迷惑かけることになりそうなら、いつでも言ってくれ」
真剣な表情から、彼の真摯な気持ちが伝わってくる。珠恵はできるだけ森川に迷惑がかからない形で、報告をしなければならないと考えていた。
乱入してきた彼らの言動に対して、森川からは怒りのようなものを一切感じなかった。それなのに、ケントと呼ばれた男子生徒の携帯を投げ捨てた森川は、もしかしたら、矛先を自分に向ける為にあんな行動をとったのではないだろうか。
少し落ち着いてきてのか、そんなことに遅れて気がつく。
「じゃあ」
「あ、森川さん」
立ち去ろうとする森川の名前を咄嗟に呼ぶ。そのことに、呼んだ珠恵自身が驚いていた。
振り向いた森川との距離を少しだけ詰めて、ポケットからメモとボールペンを取り出す。けれど文字を書こうとした手が微かに震えて、上手くペンが進まない。すると、珠恵の手元からペンとメモが抜き取られた。
「俺が書くから、何?」
「あ……はい」
少しだけ残る躊躇いを振り切って、口にしたのは珠恵の携帯の番号だった。戸惑ったような視線を見つめ返すと、少しの間を置いて、珠恵が口にする数字を、森川の手がメモに書きこんだ。
「あの、それ……何かわからない問題とか、何かあれば、遅くても構いません。ここに電話して下さい」
「あ……いや、そんなことまで」
「約束してたから。それに、助けて頂いて、せめてそれ位は。あの、でも」
きっと御礼の気持ちだと心から思っていたから、臆することなく、普段では考えられないこんな大胆な行動を取ることができたのだろう。
「それ、必要でなければ……捨てて下さって、構いません」
森川から受け取ったメモ帳を一枚だけ剥がして、半ば押し付けるように手渡す。
「……じゃあ、何かあれば遠慮なく」
珠恵に視線を送って、メモを持ち上げてみせた森川に、もう一度深く頭を下げた。
顔を上げた時にはもう、彼は背を向けて、フロアの奥へと戻っていった。
そっと吐き出す息が熱い。今頃になって、自分が取った行動に自分で狼狽えていた。
こんな風に、男の人に電話番号を渡すなんて、初めてのことだった。電話が鳴る可能性は、殆どないだろうと思っている。けれど、助けてもらったのだから、少しだけでも何か役に立てることがあるなら、力になりたい。
さっきまで感じていた恐怖心がいつの間にか少しずつ薄らいで、変わりに違う緊張が今頃になって込み上げてきた。
片付けをしていた真那が、顔を上げこちらを見ている。
珠恵は、メモ帳とペンをポケットに仕舞うと、業務に戻るためにカウンターへと向かった。