「なーんか知らない間に、福原さんって、森川さんと仲良くなってません?」
休憩が久しぶりに一緒になった真那が、大きく開いた口にデニッシュを頬張りながら、突然そんなことを言い出した。
森川の名前を聞くだけで小さく跳ねる鼓動を誤魔化すように、珠恵はゆっくりとお茶を飲み込んだ。
「仲良く……って」
「福原さんの名前とか、何気に聞かれたことありますし」
――カウンターにいたの、真那ちゃんだったんだ
軽く唇を尖らせて、下から珠恵の顔を覗き込むように見てくる真那の視線から、少しだけ目を逸らす。
「同じ、先生に習ってたことがわかって」
「え?」
「学校の先生が、たまたま同じだったことがわかったから、だから……それだけで」
「あ、そうなんだ、へえー」
語尾を伸ばしながら頷いた真那が、ニッコリと笑う。
「でも最近ほら、なんかあれでしょ。勉強教えてるって」
「そ、れは……あの、ちょっと聞かれて何度かだけ、そんな、仲が良いとかそんなんじゃ」
「まあ、あの人殆ど雨の日限定だもんね。会えるチャンスは少ないかあ。でも、ここ最近は雨じゃない日も時々来てますよね」
「チ、チャンスって、そんな……。春にはテストがあるから、だから、あの、仕事の休みの日には、時間があれば来るようにしてるって」
「へえ……そうなんだ」
平静を装い答えたつもりでも、動揺しているのが丸わかりで、益々笑みを深くした真那の視線が痛い。
あれから――顔を合せると森川は時々、問題を解いていく中で生じた疑問などを、珠恵に尋ねてくるようになっていた。
最近は、雨の日以外でも時折顔を見せるようになっていた森川に、勤務中には難しいからと、昼休みや早番の日の仕事上がりの時間を使って、問題の解き方を教えたことが確かに何度かあった。
「いいんじゃないですか」
「へ? 何が」
「森川さん。福原さんって今彼氏いないんでしょ」
「そんなっ、じゃ……ないから」
慌てて首を横に振りながら、もう顔が熱くなってくるのを止められない。
「結構いい雰囲気に見えますけど」
「そんな訳、ないから」
「そうかなあ……あ、でもそっか。彼女持ちかもですよね。どう見てもモテそうなタイプだし」
多分きっと存在するのだろう、彼と共にいる見知らぬ誰かの存在を思うと、胸の奥に小さな棘が刺さったような痛みを覚える。それを振り払うように、誤魔化すように、珠恵は静かに笑みを浮かべた。
「ちょっと頼まれて、少し教えただけだから。ほんとにそんなんじゃ」
「まあ、福原さんて、他の女を押しのけてでもってタイプじゃないですもんね。惜しいなあ、私なら絶対行っちゃうけど」
「あの、真那ちゃん? 森川さんは彼氏にはちょっとって、言ってなかった?」
「私じゃなくて、私が福原さんならって意味です。これでも私、今カレ愛しちゃってますし」
「そう……なんだ」
相変わらずの臆面の無い発言に、言った本人より珠恵の方がよっぽど赤面している。
「それに多分私って、どっちかっていうと、どエスなんです」
「あ、の、真那ちゃん?」
目を白黒させて狼狽える珠恵を、どこか楽しそうに見ている真那の顔は、今の言葉を裏付けているようにみえなくもない。
「森川さんだとどうみても被りそうじゃないですか。だからまあ、あの人は見て楽しむ観賞用なんです」
見た目がとても可愛いらしい真那の口から発せられる言葉に、彼女より年上のくせにいちいち動揺する自分が情けなくなる。
「そうそう、聞いて下さい。うちのそのお馬鹿な彼氏ってばこないだね――」
お構いなしに真那は、それから自分の彼氏がどれだけ情けなくて可愛いか、という珠恵にはよく理解できない話を、昼休憩の終わりまで、延々と話し続けていた。
午後の業務が始まり、三時を回った頃、窓から見える空が重い鉛色の雲に覆われ始めた。ポツポツと降り出した雨が、しっかりとした本降りになるまでそう時間はかからなかった。
「やっぱり。今日夕方から雨って言ってたけど、もう降り出しちゃいましたね。けど、こんな時間だし来ないかなあ」
真那が振り返りながら珠恵に声を掛ける。きっとそんなつもりではないだろうに、勝手に意味深に捉えてしまう。
「あ……うん」
曖昧に応じながら、窓の外を見上げそうになる視線を手元に落とした。
真那は裏表のない子だと思ってはいても、どこかで身の程知らずだと笑われている気がして、意識していると思われたくない自分がいる。
身体の向きを元に戻した真那は、外線で掛かって来た電話に対応し始めていた。
そっと視線を窓の外に向けると、大粒の雨が風にあおられ、窓ガラスを濡らしていた。
最近、雨の日は少し苦手だ。いつもより集中力が散漫になり、そして少しだけ、胸が苦しい。
真那とのそんな遣り取りの後からは、周りの目を勝手に意識してしまい、珠恵は森川とも自然に接することができなくなってしまっていた。
数日が過ぎた頃、夕方の配架を終えてカウンターに戻って来たところで、図書館に入ってきた森川と鉢合わせた。
「あ……」
「ああ、ちょうどよかった」
気軽に声を掛けてきた森川に、うまく視線を合わせられなくて、ただ会釈を返す。話すことにも慣れてきていたのに、これではまた逆戻りだ。
「この雨で仕事途中で切り上げになったんだ。で、ちょっと昨日わかんねえとこがあって」
「あ……」
「悪いけど、今日終わってから一問だけ教えて貰えないか」
「あの、今日……」
こちらに視線を送ってくる真那と目が合い、顔が熱くなるのがわかる。視線を半ば逸らしたまま「今日は、用事が」と、つい嘘をついてしまった。
「ああ、そうか。悪い、都合だってあるのにな。あんた教えるの上手いからつい」
「――私、すみ、ません」
森川に謝られていることに、居た堪れなくなる。どうして嘘をついてしまったのだろうと、言ったそばから苦い気持ちが込み上げていた。気まずく思いながら顔を上げると、森川はいつも通りの笑みを浮かべていた。
「いや、もういっぺん自力でやってみるよ」
そう口にして、軽く手をあげると席を探すために背を向けて去っていく。
後ろ姿を見つめながら、珠恵は馬鹿みたいな自分に泣きたくなった。森川は、珠恵だけに特別親し気な態度をみせている訳ではない。
最近では、他の職員とも挨拶を交わしたり、たまに立ち話をしているのも見掛ける。その誰に対しても、同じ態度で接している常連の一人に過ぎないのだ。
自分だけが勝手に意識して、勝手に避けるような真似をして、でもきっと避けたことにさえ気付かれていない。
カウンターに戻ってからも、何か聞きたそうな真那から離れた場所で業務に打ち込んでいる振りをしながら、ずっと、自分のついた嘘に後悔ばかりを募らせていた。