夜半過ぎに目が覚めた風太が隣を見ると、いつの間にか風呂から戻っていた珠恵はもうそこで眠っていて、途中で止まっていた洗濯物も、畳まれて部屋の隅に置かれていた。
微睡んでいただけのつもりが、しばらくしっかり寝てしまっていたようだ。一度目が冴えてしまったその後はほとんど眠れず、風太は、朝方までごく浅い眠りを繰り返した。新聞配達のバイクの音が聞こえる頃にはもう、眠気が襲ってくる気配もなく、隣で静かに眠っている珠恵から天井へと視線を移して、まだ薄暗いそこをただぼんやりと眺めていた。
肌のあちこちに珠恵を抱いていた余韻が残っている気がして、そのことに確かに安らぎを感じながらも、同時に、身体の奥に擦り傷を負ったような微かな痛みを覚える。
――珠恵の世界が、俺だけになればいい。
心の奥底に隠された本音は、自分勝手な思いに過ぎないものだ。そんな気持ちを抱えてるからといって、父親が会いに来たあの日のように泣く珠恵を、見たいとは決して思ってはいない。
冷えた部屋の空気に向けて、静かに息を吐き出す。そうして、目覚まし時計が鳴る前にスイッチを止めて、眠る珠恵を起こさないように、そっと布団を抜け出した。
僅かに身じろいだ珠恵は、けれど目を覚ますことなく布団に沈み込むように眠っている。
畳んで置かれたままの洗濯物の中から、夕べ珠恵が抱き締めていたシャツを手に取り、袖を通す。手早く着替えを済ませると、もう随分と使い込んだイニシャル入りのタオルを手に、もう一度だけ規則正しく上下する布団を見つめてから、風太は部屋を後にした。
勝手口から母家に入り、顔を洗ってから、もう明かりが灯りいい匂いが漂い始めてる居間へと顔を覗かせる。
「親方、おはようございます」
「ああ」
もう起きていた親方は、広げた新聞から顔を上げて、一言だけ答えると視線をまたそこへと戻した。
「おはよ、風太」
台所から出て来た喜世子にも挨拶を返すと、昨日までと同じように、風太の前にだけ早目の朝食が並べられる。毎日別にするのは不経済だからと、珠恵の仕事が休みの日だけは部屋で、それ以外はこれまでと同様に母家で、朝食をとる習慣が出来上がっていた。
いつもの席につき、いただきますと声を掛けてから箸を手に取り黙々と食べ始める。
今日も行くのか、と、二人とも風太に尋ねることはなかった。
「お父ちゃん、今日やっぱり夕方から雨だって」
「……ああ」
テレビの天気予報を横目で見ながら、喜世子が親方に声をかけている。
「そうそう、そういえば昨日聞いたんだけどね、皆川さんとこの雅ちゃん、結局会社辞めちゃったんだって」
「……ん」
「ほら、海外でボランティアするやつ、あれに行くんだって。二年位は帰って来ないって言ってたけど、あそこの篠塚さんの知り合いの人がね――」
朝から饒舌な喜世子に、新聞に視線を落としたままの親方は生返事で。後ろで交わされる二人の会話になっていないやり取りを聞きながら、いつもと変わらない朝の時間が過ぎていく。
食事を終えた風太を、喜世子が玄関まで見送りに出てくる。珠恵がまだ姿を見せないことにも互いに触れないまま、靴を履いて振り返った。
「じゃあ、行ってきます」
「ああ行っといで」
いつもと変わりない口調で喜世子が返すのを聞きながら、背を向けた風太は、玄関の扉へ手を掛けた。
「あ、風太、今日の現場は玉井町だからね」
その背を追いかけてくる威勢のいい喜世子の声を聞きながら、玄関の外へと足を踏み出す。一日の始まりを告げるように、もう夜は明けていた。
ぼんやりと目を開けた珠恵は、手に触れた布団の冷たさに、もうとっくに風太がそこを出てしまっていることに気が付いて飛び起きた。
昨日、風太が帰ってきたら、昼間母が来ていたことを話さなければならないと思っていたはずだった。なのに、いつもより更に強引な風太に押されて、結局は殆ど済し崩しのように抱き合ってしまっていた。
朝の光の中で我に返る度にいつも珠恵は、風太と身体を重ね翻弄されていた時のことは、恥ずかしすぎて思い出したくないと思う。今も、夕べのことを思い返してしまって、独りでに頬が熱くなる。
昨日は、珠恵の中で想いが深まっていたこともあり、あっという間にまともな思考能力は奪われて、頭も心もそして身体も、風太でいっぱいになった。他のことが、何も、考えられなくなってしまうくらいに。
それに――。夕べの風太は、いつもより少しだけ優しくなくて、珠恵に何度も言葉を乞う瞳からは、なにか切迫したような、思い詰めたものさえ感じられるような気がした。
時計を見ると、いつも風太が出て行く時間はもう過ぎてしまっていたが、珠恵は簡単に身支度を整え髪を止めてから急いで母家へと向かった。
「あのっ、おはようございます」
パタパタと走り込んできた珠恵に、居間にいた親方と台所から出てきた喜世子が、顔を向ける。
「ああ……おはよう」
「おはよう珠ちゃん」
「あの、風太さんは」
二人が少し顔を見合わせて、喜世子から返事が返ってきた。
「もう出かけたよ」
「……あの、それって」
「うん、珠ちゃんの家」
予想してはいたものの、訊ねる前に返ってきたその答えに、一瞬言葉を失くしてしまう。
「私……やっぱり」
必死で言葉を探す珠恵に、二人の視線が向けられた。
「ちゃんと、風太さんに、言わなくちゃいけないって、思って、でも」
「うん、珠ちゃん」
わかっているというように頷いてから、「でもね」と、喜世子は続けた。
「昨日もちょっと言ったけどね。多分、珠ちゃんがもういいって言っても、風太は聞きやしないから」
「でも、やっぱり風太さんひとりに」
そっと首を横に振った喜世子の目には、昨日母と会った時の珠恵に向けられていたような、優しい笑みが浮かんでいる。
母の来訪に風太が気付いたことは、夕べのうちに喜世子から聞かされていた。その時、ならば風太と一緒に自分も父の所に行くと言った珠恵の言葉を、喜世子は、少し何かを考えこむような顔を見せてから、否定していた。
「だったら、私も一緒に」
「一緒にって言うけど……ねえ、珠ちゃん。多分風太は、うんとは言わないよ」
「……でも」
「それにね、多分だけど、あんたには見られたくないんじゃないかって思うよ」
「……え?」
「あんたのお父さんが、風太にどんなことを言ったのかは知らないけど、そういうことを、もしかしたらまた言われてるのかもしれない。そうでなくても、相手にもされてない人間に、無視されても頭を下げ続けてる姿とか、そういうの。あの子だってプライドがあるだろうし――」
二階から愛華が下りてきたために途切れてしまった昨夜のそんな会話を続けるように、喜世子は、珠恵を見つめたまま口を開いた。
「夕べも言ったけどね、あんたが何もしなくていいとは言わないけど、今二人して一緒にお父さんを説得しようとしても、却って逆効果な気もするんだよ」
思いがけない言葉に、喜世子の顔をじっと見つめてしまう。
「……逆」
「失礼を承知で言うけど、珠ちゃんのお父さんは、相当プライドの高そうな人だろ。そうでなくても、だいたい男親なんて、大概娘の相手なんかにはややこしい感情を持つもんだしね」
「え……」
あの父に。いつも冷静で厳しくて温かみなど感じさせなかった父に、そんな感情があるとは俄かには理解し難い。けれど、喜世子に言われると、風太を否定する父の気持ちの全てとは決して思えないが、もしかしたら、本当にほんの僅かであっても、世間の父親が持つようなごく普通の人間らしい感情が潜んでいるのかもしれないと、そう思えてくるから不思議だった。
「今はまだお互い冷静になんてなれないだろうし、少し時間を置いて、珠ちゃんは珠ちゃんにできることを考えてみるのもひとつの遣り方だと思うよ。すぐに変わるのは難しくても、もしかしたら時間が、何かを変えてくれることだってあるかもしれない。まあ、所詮は無責任な他人の言うことだけどね」
「いえ……そんな」
「それに、お母さんは、また会いに来てくれるんだから」
黙って頷く。
「なら、お母さんに会えるようになっただけでも、取り敢えずは風太のやってることも無駄じゃなかったってことじゃない」
「……はい」
「どうせ止めても無駄なんだし」
そう言って笑った喜世子に、珠恵は泣き笑いのような顔を向けた。
「だったら珠ちゃんは、笑って風太をお帰りって迎えてやりな。ねえ、お父ちゃん」
喜世子の問いを受けた親方が、珠恵を見上げて、ゆっくりと頷いた。
「あいつ、の……好きに、やらせて、やればいい」
「ほら、ね。お父ちゃんもああ言ってるし」
「喜世子、さん」
「だから、あんたももう泣いてないで」
気が付けば流れてしまっていた涙を、手のひらで拭う。
「はい」
「あんた達が、お父さんに堂々と見せつけてやれるくらい、幸せになればいいんだよ」
「……は、い」
「じゃあ、ほら、今日は朝食の支度手伝ってくれるんだろ」
「……はい」
涙を拭って頷くと、それでいい。というように喜世子が笑みを浮かべた。
「それにしても……」
そうして、何故か呆れたような顔を見せながら、珠恵の服の襟元に手を伸ばしてくる。
「まったく、あの子は」
慌てて飛び出してきたせいで留め忘れていたのだろうボタンを、喜世子が留めてくれた。
「あ、すみませ」
「珠ちゃん、あんた今日はあんまり襟元の空いた服着ちゃ駄目だよ」
「……え?」
「ほんと、何も考えてないんだからあの野生児は」
「あっ……」
親方に届かない程の小声でそう告げて、悪戯っぽい顔をして笑った喜世子を見て、すぐに顔がどんどん赤くなるのがわかった。
「私っあの、か、顔を、顔洗ってきます」
喜世子の視線から逃れるように、慌てて居間を飛び出して、洗面所へと向かう。
――もう
ここにはいない風太に、今すぐ、そう言いたい気持ちだった。けれどそう言ったところで、きっと風太は、悪びれずに嬉しそうに笑うのだろう。
恥ずかしさと、泣きたい気持ちと、笑いたいような気持ちが混じり合って、けれどその全部の気持ちは、今、珠恵の家に向かっているであろう風太へ繋がるものだった。
顔を洗うために手で掬った水の冷たさが、指先を痺れさせる。火照った顔には、ちょうどいい冷たさだった。
冬がもう、すぐそこまで来ている。
風太と知り合ってから、二度目の冬を迎えようとしていた。