本編《雨月》

第十九章 雨と外郎7



 椅子に座りじっとしていなければならない時間を苦痛に感じながら、全く集中出来ない授業を終えた風太が家に帰ると、たいていは出迎える珠恵の代わりに、今日は喜世子が居間から顔を覗かせた。
 そのことが、また少し気持ちをざわつかせる。
「お帰り、早かったね。翔平は?」
「俺の方が早く終わったんで」
「あ、そう」
 喜世子が引っ込んだ居間へと足を向ける。そこにも、珠恵の姿は見当たらない。
「珠ちゃんなら、ちょっと前に洗濯物仕舞って来るって部屋に戻ったままだよ。疲れてそうだったし、こっちはもういいって言ってあるから」
 風太が何かを尋ねるより先に、座ったままこちらの様子を伺うように見た喜世子が、僅かに頷いた。
「さっきよりはマシな顔だね」
 気まずさに、苦笑いを浮かべるしかない。
「ご飯、どうする?」
 いつもなら確かめることもなく出される夜食を、今日はどうするか尋ねた喜世子は、きっとその答えもわかっていたのだろう。今日はいらないと答えると、そう、とだけ言って風太に背を向けテレビの続きを見始めた。
 母家を出て、部屋へと向かう。下から見上げると、窓から明かりが漏れていた。それが、もう当たり前のようになってしまっていることに、今更ながら気が付く。珠恵と暮らすようになってから、一人で暗い部屋に戻ることはほとんどなくなっていたのだと。いつの間にか、暗い部屋の中でも、深く眠れるようになっていたのだと。

 部屋へ戻りドアを開けてみたが、人が動く気配が感じられない。少しずつ珠恵の物が増え、カーテンやカーペットが変わり、小さな観葉植物が飾られて。もう風太だけの場所ではなくなったその部屋にも、珠恵の姿は見当たらなかった。
 足早に奥の部屋へと向かうと、半分畳んだ洗濯物の横で、壁に凭れ掛かるような中途半端な格好で、目を閉じている珠恵がいた。ホッと息を吐きながら風太が脇に屈むと、ピクッとその身体が揺れた。
「――えっ」
 目をぱちっと開いて覚醒した珠恵が、風太を認め動揺するのが手に取るようにわかる。
「具合でも悪いのか」
「いえ、あの、私……」
 大きく首を振った珠恵は、どうやら洗濯物を畳みながら、うたた寝をしてしまったようだ。今日の昼間随分と泣いたようだし、喜世子が言ったように疲れているのだろう。
 焦った珠恵が胸元で握りしめているものに気が付き、風太の口元に笑みが浮かぶ。
「え、何……風太さん?」
 身じろごうとする細い肩を掴んで、そのまま床に押し倒した。起き上がろうとする動きを、両肩を押さえて制する。狼狽えた双眸が、風太を見上げて瞬きを繰り返した。
「ただいま」
「……お帰り、なさい。ごめんなさい、すぐ母屋に戻るつもりで、私」
「いや、いい」
「風太さん、あの、手を……」
 離してくれというように、風太の腕に視線を送るのを無視して、珠恵がまだ手に持っていたシャツを、ゆっくりと引き剥がした。
「お前、これ気に入ってんのか」
 目線が届く位置まで持ち上げ揺らしてから、それを洗濯物の山へと放り投げる。
「えっ……」
「握り締めたまま寝てたぞ」
「あ……」
「また着てみるつもりだったのか」
「ちがっ……今日は、ほんとに、た、畳もうと」
 珠恵の頬が、みるみるうちに仄かな赤に染まる。恥ずかしそうに目を逸らすその様子を、風太は、抑え込んだまま上から見つめていた。

 以前、夕方仕事から帰ってみると、その日休みだった珠恵が、風太の洗濯物を畳みながら、気持ちよさそうに眠っていたことがあった。窓から心地よい風が吹き込んでいて、横たわる珠恵は、何故か自分の服の上に、風太の長袖のTシャツを着ていた。
 あの時の珠恵は、目を覚ますと、笑ってしまうくらいに狼狽えながら必死で言い訳をしようとしていた。
――シャツを、あの、風太さんの、買う、あ、買おうと、それで、あの、サイズを
――わざわざ自分で着て、か?
――あの、だから
――首んとこ見りゃ書いてあるだろ
――……そ、それは
――どうした?
 内心の笑みを堪えながら、風太は珠恵を追い詰め、恥ずかしさで泣きそうな様子を堪能しながら、結局最後には白状させた。
 畳んでいるうちについ着てみたくなったのだと。風太に包まれてるみたいで、温かくて気持ちよくてそのまま眠ってしまったのだと。
 そうして結果的に風太に押し倒された珠恵は、大きくダボついたシャツだけでなく、着ているもの全てをその場で脱がされる羽目に陥っていた――。

 今もまた同じように組み伏せられた珠恵は、黙ってしまった風太に、どうすべきかわからず戸惑ったような顔をして、目を逸らしたまま口を開いた。
「あの、私、台所の手伝いを」
「いい。おかみさんにも、今日はもういいって言われただろ」
「でも」
「珠恵」
 目を逸らしたまま身体を起こそうとする珠恵の名を、引き留めるように呼ぶ。
 まだ少し赤らんでいる頬をそっと指で撫でると、揺れ動いた瞳が、僅かに間を置いて、迷いを断ち切るように風太を真っ直ぐに見上げた。
「風太さん、あの……。私、話したいことが」
「来てたんだろ、お袋さん」
 恐らく、そのことを告げようとしたのだろう珠恵の言葉を遮ると、眼下にある瞳が僅かに揺らぎ、また伏せられる。
「はい。……あの」
「なんで、言わなかった」
「ごめん、なさい。風太さんが、学校から戻って来てからの方が、いいかもしれないとか色々……迷ってしまって」
 言えなかった理由はわかる気がした。わかっていながら、何に迷うのだと問い詰めたくなる自分がいて、そのことに嫌気がさす。
「風太さん、私」
「珠恵」
 再び、何かを言いかけた珠恵を見つめながら、僅かに首を横に振った。
 胸の奥底にある自分の本音に気が付いたからといって、珠恵の家に通うことを、やめるつもりはない。珠恵が何を言ったとしても。
 言葉を遮った風太の意図を珠恵がどう捉えたのかはわからない。迷うように、何度か口を開こうとする唇を指でなぞりながら、じっと、その目を見つめた。
「よかったな……会いに、来てくれて」
 そう口にする自分の表情から、本心が、零れていなければいい――。
 黙って風太を見上げた珠恵の睫毛が震え、瞳が潤みを帯びてゆく。唇を結んで小さく頷いた珠恵の眦から、涙が伝い落ちた。それをそっと唇で拭うと、瞳がくすぐったそうに細められる。
「私は――」
 何かを否定するような言葉は、珠恵に言わせたくはなかった。帰りたいという本音も、ましてや礼のような言葉も聞きたくない。
「なあ珠恵」
「……は、い」
 言いたいことを話せていない困惑を僅かに滲ませて、珠恵の視線が風太に向けられる。
「続き、やらせろ」
「……え?」
 その目が、驚いたように丸くなる様子がおかしくてクッと笑った。
「まっ、あの、風太さ」
「嫌は聞かねえっつったよな」
「あの、でも」
「お前も、早く帰ってこいって言っただろが」
「え……? あ……」
 途端に、目に見えて狼狽えた珠恵の耳元が赤く染まる。
「会いたかったって、そうも言ったよな」
「あ、あれ、は」
「なんだ、嘘だったのか」
「違いまっ……嘘なんて、ほんとに、私……ただ」
 ムキになって風太の揶揄を否定してみせる珠恵は、それでも、話をうやむやにしてしまうことへの迷いを言葉の端に滲ませている。珠恵に何も言わせない自分を胸の内では嘲笑しながら、風太は、その口元に違う形の笑みを浮かべてみせた。
「まだ、認めて貰ったわけじゃねえ」
「それ、は……」
「お袋さんが、お前に会いに来てくれた。今は、それでいい」
「風太さん、でも」
 珠恵がそれ以上何かを口にする前に、その唇を塞いだ。

 火種ならずっと燻っていたから、すぐに熱が灯る。息が継げない程に深く舌を絡めながら、強引に片手で珠恵の肌を露わにし、すぐに柔らかな膨らみに触れその感触を弄び始めた。初めのうちは抗うように込められていた力が珠恵の身体から少しずつ抜けて、代わりに体温が上がり、肌が緋色に染まっていく。珠恵の中にも、途切れさせた熱が戻ってきたようだった。
 袖口を掴んでいた手が、やがておずおずと、風太の肩に廻される。唇が胸元に落とされ、舌と唇がその尖りを散々に食んでから、肌を下へと辿り始める頃には、その両手は、しっかりと風太にしがみ付いていた。
 さっきまで胸の中に浮かんでいた矛盾や苛立ち、葛藤が全て、解けて溶けていくような気がした。今この時だけは、頭も身体も、珠恵だけで満たされて、腕の中にある存在だけが風太の全てになっていく。
「ふ、た……さっ」
 吐息交じりの甘い声で風太を呼ぶ珠恵の熱い体内に入ると、小さくその身体が震えた。繋がったままゆっくりと顔を近付けて、頭を腕で囲い込む。
「なあ……たまえ」
 もう呼び慣れたはずのその音は、口にする風太の身体の奥に、欲望や熱だけではない、ほんの微かな温もりに似た何かを生み出した。
「俺が……好きか」
 与えられた快感に酔ったようにぼんやりと潤んだ瞳が、確かに風太を見つめた。
「……き」
 答えた唇を塞ぎ、風太を抱き締める柔い身体を揺さぶりながら。何度もその言葉を乞う。
「すき……た、さ…」
「まだ、もっとだ」
「……うた、さっ、ん……すき……」
 恥じらいながら。蕩けるような瞳を向けながら。風太の望む答えが、何度でも躊躇うことなく返って来る。
 胸の奥底に沈んだ澱からは目を逸らしたままで。次第に譫言のようになっていくその言葉に煽られ、腕の中にある珠恵の温もりを逃さぬように、ただ執拗に求め続ける自分を、風太は止めることができなかった。


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