「随分遅かったね。あれ? 風太あんた、珠ちゃんと一緒じゃなかったの」
居間に戻ると、おかずを盛った皿を手に台所から出てきた喜世子が、風太の後ろに視線を向ける。
「用事思い出したみたいで部屋に戻ってます。支度、手伝えなくてすいませんって」
答えながら席に着くと、喜世子が眉根を寄せた。こういうことを不満に思うタイプの人ではないだけに、その反応は少し意外だったが、それも一瞬のことですでにいつもの表情へと戻っている。
「そう。あ、ほら、あんたも急がないと。今日はご飯作るの遅くなったから、悪いけどいつもよりおかず少ないからね」
「何かあったんですか」
「いや、ちょっと、お客さんが来てたから。……珠ちゃん、何も言ってなかった?」
窺うような問いに、風太は顏を上げて喜世子を見遣った。
「や、別に。あいつもいたんですか」
「え、ああ。ちょっとね」
客が来ていたと珠恵が言わなかったことにも、どこか曖昧に濁すような喜世子の返事にも、何か少し引っ掛かりを覚える。
「おかみさん」
その正体を確かめようとしたところで人が入ってきた気配がして、風太は一度口を噤んだ。
先に戻っていたはずの翔平が、斜め向かいに腰を下ろし、チラッと風太を見遣る。そのくせ目が合うと、途端に不貞腐れたように顔を逸らす。
ご飯と残りのおかずを盆に乗せた喜世子が、それを食卓へと並べながら、風太に物言いたげな視線を向けた。
「ねえ風太、あんたこの子に何かした? えらく赤い顔して戻って来たと思ったら、なんだかブツブツ言いながら洗面所に向かってったんだけど」
「余計なこと言わなくていいっすから」
ムスッとしている翔平に、笑みを堪えてチラッと目線だけを送ってから「別に、何もしてませんよ」と答える。
睨むように風太を見ている翔平の様子が目の端に映り、今度は正面からじっと見返してみた。と、みるみるうちに顔を赤くするその反応がおかしくて、つい笑ってしまう。
「もしかして……わざとっすか」
「なにが」
「わざとっ……み、見せつけようって」
「んなわけねえだろ。まあ……つい勢いっつうか」
「何がついっすか、あんな、公共の場で」
「公共って……。それより翔平、お前、見たのか」
「なっ、なにがっすか」
無言のうちに、珠恵の顔を見たのかと問い詰める。
「そ、そんなの、見たっつうか見えたっつうか、だいたいあんなとこで、んなこと、して、してるとか」
しどろもどろな翔平の顔が、更に真っ赤になって。
「ちょっと翔平、あんた鼻血」
「へっ? あっ」
喜世子の指摘に間抜けな声を発し、ティッシュを掴んだ翔平は、それを鼻に当てたまま慌てて居間から出て行った。
「何興奮してんの、あの子さっきから。……風太、あんたまさか、何か珠ちゃんに変なことしてたんじゃ」
黙って目を逸らすと、呆れたような溜息が頭上から零れてくる。小言のひとつも言われるかと思ったが、予想に反ししばらく経っても何も聞こえてこない。顔を上げると、怒っているか呆れているのだろうと思っていた喜世子は、そのどちらでもない表情で、お盆を手にしたまま風太を見ていた。
「まあ……、何つうか、気を付けます」
「あ、うん、まあ、ね」
どこかうわの空で返事をした喜世子が、そのまま口を噤む。何かを逡巡するような間を置いて首を横に振るその様子がやはり気にかかり、台所に戻ろうとするのを呼び止めようかと、一瞬迷った。
「ちょっと、お父ちゃん」
すぐに足を止めた喜世子が、テレビの前で茶と菓子を摘まんでいる親方に声を掛ける。
「……ん」
「ん、じゃなくてそれ。食事前だしあんまり食べないでよ」
「ん、ああ……」
「もう」
お気に入りの旅番組の録画撮りを見ていた親方の、聞いていないことがわかる曖昧な返事を耳にしながら、風太は、何気なくその手元に向けた視線を止めた。
テレビに顔を向けたまま、親方が、開けてくれというように手に持った菓子を喜世子へと差し出す。
「ちょっと、私のも残しといてよ」
溜息を吐いた喜世子が、仕方がないね、とでも言いたげにこちらを振り返った。
「――それ」
「え?」
風太は、菓子に向けていた視線を喜世子へと移しながら、口を開いた。
「貰いもん、ですか」
「あ……ああ、うん」
「今日来た客の、ですか」
何かに気がついたのか、難しそうな顔をした喜世子は、少しだけ探るように風太を見返して、問いを肯定するように頷く。
「ねえ風太」
――珠ちゃん、何か泣いた?
――さっきまで本を読んでて
眉間に力が入る。喜世子が何か言おうとしていたが、構わず立ち上がった。
「ちょっ、風太」
突然険しい顔をして居間を後にしようとする風太を、呼び止める声がする。それに足を止めることなく、廊下に出た。
「風太っ、ちょっと、待ちなって」
喜世子の声が大きくなり、廊下の途中で肘を強く引かれて振り向いた。
「……あんた」
戻って来た翔平が、廊下に佇む二人を見て、居間の入口で足を止めた。何か言いかけて、普通ではない様子に言葉を飲み込んだらしい。鼻の穴にティッシュを詰め込んだ翔平の、訳が分からないという表情に、ざわついた風太の気持ちがほんの少しだけ落ち着く。
「何て顔、してんの」
溜息交じりの声に、視線を向ける。およそろくな表情をしてないことは、風太にもわかっていた。
「客って、誰ですか」
「もう、わかってるんだろ」
親方が口にしていた菓子に、風太は見覚えがあった。珠恵の母親と話をするようになってから、時折、玄関先でお茶や菓子を勧められる。よければ持って帰って食べて、と手に取らされたそれらの中に、さっきの菓子も何度か出されたことがあった。
――珠恵も、好きなのよ。あ、あの、でも……若い人には、あんまりかしら。
珠恵とよく似た彼女の母親。どこか自信なさげに話す口調も、柔らかく微笑むその顔も。
「珠ちゃんからは?」
無言のまま強張った顔を逸らした風太を見つめ、喜世子は小さな溜息を零した。
「やっぱり、まだ話してないんだね」
無言のままの風太を見つめながら、躊躇いを載せた声が落とされる。
「あの子が言ってないのに、私が言うのも気が引けるけど、あんた、そんなだし……」
もう、振り切っては出て行かないだろうと判断したのか、肘を掴んでいた喜世子の手が離れていった。
「確かに今日ね、珠ちゃんのお母さんが、昼間ここにいらしたんだよ」
「……何しに」
「別に、あの子のこと連れ戻しに来たわけでも、説得しに来たわけでもないよ。ただ、娘に会いに来たんだって。それだけだよ」
黙って壁に背を預けた風太は、喜世子の視線を避けるように少し俯いた。身体の力が僅かに抜けるのがわかる。どこかで、確かに安堵していた。
「あんた何度かお母さんとは話してんでしょ。だったら、お母さんがどういう人かは、わかってんじゃないの」
静かに、息を吐き出す。喜世子の言う通りだった。もしも二人のことを非難するような話だったなら、珠恵はきっと、父親が図書館に訪ねて来た時のような、不安定な様子をみせただろう。
確かに今日の珠恵は、いつもとは違っていた。けれど、風太に見せていた表情は、あの時のようなものではなかった。
――だいすき
髪をくしゃりと掴んで、そっと溜息を零す。
「なら……」
「ああ、ばれちゃったよ。珠ちゃん、それ聞いてポロポロ泣き出しちゃってね。まあ……これまでばれなかったのが不思議なぐらいだったんだから、もうちょうどいい頃合いだったんじゃないの」
「そういう、ことか」
泣いていた痕跡、それにさっきの外出も恐らくは、母親を送った帰りだったのだろう。
「あんた、そんな顔して、珠ちゃんになにを言うつもりだった?」
喜世子の問い掛けに、風太は黙ったまま僅かに顔を顰めた。
「もしかして、珠ちゃんがあんたに黙って帰るとでも思った? そんなことする訳ないだろ。そりゃ、家にだって帰れるなら帰りたいに決まってる。お母さんにだって、本当はずっと会いたかったと思うよ。でもね、あの子はどっちかを取らなきゃならないなら、家族より風太、あんたを取るよ。現に今だってそうじゃないか。女はね、ほんとに惚れた男のためなら、それくらいのことをやってのけるんだよ。ほんとは、わかってるんだろ」
問い詰めるというより、言い聞かせるような口調のその言葉が図星過ぎて、何も言い返すことができない。
「あんただってそれがわかってるから、そうさせたくなくて、毎日珠ちゃんちに通ってるんじゃないの」
何も言わない風太に、喜世子が再び呆れたような息を吐いた。
「お母さんがここに来たのは、あんたのその気持ちが少しでも伝わったってことじゃない。なのに、肝心のあんたが狼狽えてどうすんの」
己の動揺も胸の内も全て見透かされたようで、ばつの悪さに自嘲の笑みが漏れた。
「……顔……洗ってきます」
壁に凭れていた身体を起こす。
「そうしな。それでご飯食べて、あんたはさっさと学校。でないとまた、珠ちゃんに怒られるよ」
眉根を寄せていた顔から力を抜いて、わざとだろう軽い口調で発破を掛けるようにそう言った喜世子は、風太の腕を手のひらで軽く叩くと、やはりどこか呆れたような笑みを見せてから、居間へと戻って行った。
洗面所へ向かった風太は、冷たい水で顔を洗い、濡れたまま鏡を見つめた。情けない面をした男が、映っている。目付きの悪いその男から目を逸らして、タオルを手に取った。
珠恵には、家族がいる。引き離したくはない。彼女から戻る場所を奪いたくない。そう思っていた。いや、そう思う気持ちも嘘ではないはずだった。けれど、それが揺らぐ。
珠恵の母親が彼女を訪ねて来たと聞いた時、風太の胸の奥底にある本心が剥き出しになった。
帰る場所など、なくていい。帰る場所がなくなれば、珠恵はずっとそばにいる。風太を見つめるあの瞳に、他のものなど何も映らなければいい。
家族から、珠恵を奪ったのは風太だ。なのに、珠恵を奪われるかもしれない、それを想像するだけで、身体の奥底が冷たくなる。こんな歪んだ感情を、きっと喜世子には見透かされたのだろう。
どうしようもねえな――。
風太を好きだと告げる珠恵の言葉も、その目や唇や心が伝えてくるものにも、嘘などないとわかっている。喜世子の言うとおり、珠恵が一人で帰ってしまうことなどないと、本当は知っている。だから、これは珠恵ではなく風太自身の問題だった。
深く溜息を吐いて、タオルを首にかけると、もう一度冷たい水を手に掬う。そんな気持ちが少しでも水に流れてしまえばいいと、何度も顔を洗った。
喜世子に止められて、きっとよかったのだ。あのまま珠恵の元へ向かっていたら、間違いなく、この汚い感情が伝わってしまっただろう。母親が会いにきたことを、よかったと素直に言ってやることは、きっとできなかった。
顔を拭って、再び居間へと戻る。
ほんの一瞬だけ物言いたげな視線を向けた親方と、急に変わった空気に戸惑っている翔平には気付かないふりをして。夕食を取った風太は、急いで支度を済ませ学校へと向かった。