本編《雨月》

第十九章 雨と外郎5



 車は、ほんの五分程度で家へと到着し、風太は先に帰りついていたバンの横に軽トラックを停めた。親方や竜彦の乗ったバンも、軽トラより先に珠恵にクラクションを鳴らし通り過ぎたらしいが、全く気が付かなかった。
 エンジンが止まると、不意に車内に静寂が訪れる。
「あの……ありがとう、ございました」
 ハンドルから手を離した風太に声を掛け、シートベルトを外しながら時計を見る。いつもより少し遅い時間だと気がついて、慌てて車から降りようと風太に背を向けたその時、後ろから伸びてきた腕が珠恵の身体を引き戻した。
「風太さ――」
 運転席から身を乗り出すようにして、珠恵を助手席に押し付けた風太が、顔を寄せてくる。狼狽えたのは一瞬で、頬に添えられた風太の腕にしがみつくように掴まり、目を閉じてそれを受け止めた。幾度重ねても、未だに珠恵をドキドキとさせる風太とのキスが、今日はいつもよりもっと胸を震わせる。
 余韻を残すようにゆっくりと唇と身体が離れていく気配に、そっと目を開く。交わる瞳の奥に小さな火種を宿したまま、風太の頬に、小さなエクボが浮かんだ。
「やっぱ、学校行く前にするもんじゃねえな」
 苦笑交じりに呟いて、指が、珠恵の頬をそっとなぞり離れていく。そのまま背を向けようとした風太が、途中で動きを止めた。何かいいたそうに、視線が下へと向けられる。
「え、あっ……違い、ます」
 まるで引き留めるみたいに、珠恵の手が、風太の腕をまだ掴んでいたことに気が付いた。
「違うって、何が」
 面白がっているような口調に気恥ずかしさが込み上げて、慌てて手を離した珠恵は、今度こそ助手席側のドアを開けた。

 コンクリートの地面に足を下ろしても、まだ、速くなったままの鼓動が落ち着かない。バタンと音がして、運転席から降りた風太は、珠恵に視線を送ってから鍵を手に倉庫の入口へと向かっていく。その背を見つめながら、鼻の奥がツンとして不意に視界が滲んだ。
 足音がしないことに気が付いたのか、立ち止まった風太が振り返る。慌てて瞬きを繰り返した珠恵が、足を早めて近付くと、風太が眉根を寄せるのがわかった。
「どうした」
 頭ではなく心に導かれるように、珠恵は、そのまま風太の胸にしがみついていた。
「珠恵?」
 馴染んだ体温や匂いに包まれながら、心の奥から、何かが溢れ出しそうになる。
 好きになったのは――。
 何かを失くしてでも一緒にいたいと願ったのは、珠恵の方だった。それなのにこの人は、珠恵のために、自分を蔑む相手に――父に、毎日のように頭を下げ続けてくれている。そのことが、泣きたいくらいに嬉しくて、泣きたいくらいに苦しかった。
 風太の身体が小さく揺れる。腕をとられ胸元から引き離されると、険しさを増した瞳が珠恵を見つめた。
「何かあったのか」
 警戒と不安とを宿したその目を真っ直ぐに見つめ返し、笑みを浮かべた。風太の表情が、僅かに戸惑いを含んだものへと変わる。静かに首を横に振った珠恵は、もう一度作業着の胸元に顔を寄せた。
「おい……汚れる」
「構いません」
 しがみつく珠恵を咄嗟に引き離そうとした風太の胸元で、首を横に振る。諦めたのか、力を抜いた大きな手のひらが、珠恵の髪をそっと撫でおろした。
 風太の腕の中で、その温もりを感じながら。さっきからずっと、胸の中にあった自分では捉えようのない感情が何だったのか、ストンと胸に落ちるようにそれが鮮明になる。
 今までよりも、もっとずっと深い場所にある、風太への想い。
 好きだという言葉だけでは、伝えきれないくらい大切で。誰よりも、何よりも大切で、愛おしい。
「……珠恵?」
「どう」「さっき」
 どうした、ともう一度聞こうとしたのだろう風太の問いを遮り、口を開いた。
「私……歩きながら、ずっと、風太さんのこと、考えてました。そうしたら、目の前に風太さんが現れて。だから……嬉しかった」
「毎日会ってんだろ」
 クッっと、呆れたように小さく笑う振動が直に伝わってくる。
「でも……会いたいって通じたみたいで、やっぱり、とっても、嬉しかったんです」
 無言のまま、風太の手の動きが止まった。
「変なこと……言ってますよね」
「いや……そうじゃ、ねえけど……つか、お前今日、なんか……」
 深く溜息を零したであろうことが、風太の胸の動きでわかる。口にしてしまったことを改めて思い返し、急に恥ずかしさが込み上げた。顔を上げることもできず胸元にもっと深く沈み込むと、風太の鼓動が、少し早くなったような気がした。
 何か呟くような声を耳と振動で感じると同時に、珠恵の身体がフッと浮き上がる。
「っ、え……あ」

 数歩足を進めて、小さな作業台らしき場所に珠恵を下ろした風太は、囲い込むように両手をその両脇についた。顔が、ほんの目の前まで寄せられる。少し視線を上げると、同じ高さにある風太の怖いくらい真剣な目が、珠恵を見つめていた。
 風太の指が珠恵の耳に触れたことで、そこが赤くなっているのだろうことがわかる。目を伏せようとすると顎に手が掛かり、指先が珠恵の顔を持ち上げた。
 視線が、まるで抱き合うみたいに絡み合う。
「お前、わかってやってんのか」
 揶揄うような、けれど僅かに不機嫌そうな口調で、問うでもなくそう口にした風太の瞳を、瞬きをして見つめ返す。何が、と聞き返さない代わりに、珠恵は別のことを口にしていた。
「ふ、風太さんだって、わかってません」
「何が?」
「学校、行く前にあんなこと……しないで下さい」
「……何のことだ」
「わ、私にだって、スイッチあるのに」
「…………」
「な、何でも、ありませ……んっ」
 目を丸くする風太にいったい何を口走ってしまったのかと、慌てて取り消そうとした言葉は、唇で遮られた。息を吐く間もないほど、咬みつくように激しく、そして時折慰めるように優しくなるキスに、思考が溶けて何も考えられなくなってしまう。
 話さなければならない、聞かなければならないことがあると、頭のどこかではちゃんとわかっていた。けれど今は――
「ふ、たさん……」
「……ん」
「すき……」
 どうしようもなく、気持ちが溢れてしまう。驚くほど甘やかな声が、吐息と共に零れ出る。僅かに息を飲んだ風太が、額を寄せ、呼吸を落ち着かせるように、そっと珠恵の鼻や目元をくすぐるように唇で触れる。熱を宿した瞳に吸い込まれそうになりながら、もう一度口を開いた。
「だい、すき」

 瞳が震えて、滴が頬を伝い落ちる。本当はもっと言いたいことがあるはずなのに、上手く言葉で伝えきれない。目を眇めた風太の手に力が入り、顔を引き寄せられて再び、食べられるような激しいキスが始まった。ここがどこで、今がいつで、そんなことは何も考えられなくなっていく。
「……んっ」
 抱き合う身体の体温が上がり、吐息が漏れる。それに気を取られている間に、風太の熱い手のひらが、珠恵の身体を首筋から下へと向かい辿り始めていた。
 その時――
「あれぇ、まだこっち誰かいるんっすかー」
 シャッターの上がった入口から、中に向かい問い掛けるどこか間延びした声が聞こえた。
「……っ」
 驚いて漏れそうになった声は、風太の手のひらで塞がれた。我に返り慌てて腕の中で大きく身じろぐ。小さく舌打ちをした風太が、珠恵の身体を隠すように腕の中に封じ込めた。
「えっ……あっ、うわっ、おっ、オレっ……す、すす、すっすんませんっ」
 慌てて走り出て行く足音が遠ざかり、我に返った恥ずかしさで、何も言えずに俯いてしまう。頭上で大きな溜息を吐いた風太が、ククッっと笑うのを珠恵は腕の中で聞いていた。
「あのバカ……ったく、いいとこで」
「……あ、あの」
「なあ……がっこ、休んでいいか」
「駄目っ……です」
 学校があることさえ忘れそうになっていたと思い出し、珠恵は慌てて首を横にふった。
「やっぱダメか……っそ、翔平の馬鹿のせいでやり損ねた」
 真剣に舌打ちする風太に、何とも言えず、顔が熱くなる。
「仕方ねえな……まあ、ここじゃ流石に、ばれたら親方に怒鳴られるか」
 ひとりごちる声を聞きながら、珠恵は熱くなった顔を手で覆った。ここであのまま流されていたらと思うと、羞恥の余り死にたくなる。風太のことを考えすぎて、今日の自分はどこかおかしい。
「お前、俺らが学校行くまで、部屋にいろ」
「え?」
 顔を上げて、けれど風太の目をまともに見ていられず、すぐに顔を俯けた。
「顔合わせんの、気まずいだろ」
「でも、あのご飯の支度」
「おかみさんには、うまく言っとく。いいからそうしろ」
 苦笑いした風太が、もう一度屈みこんで珠恵の耳元に唇を落とした。
「のかわり、わかってんな。今日は駄目は聞かねえからな」
 赤くなった耳を押さえた珠恵を、風太が台から下ろす。足元がフワフワとして覚束ない。おぶってやろうか、と笑う風太に慌てて首を振って、息を整え二人で倉庫から外へと出た。

 日も落ちて寒いくらいの筈なのに、余りそう感じないのは、身体にまだ熱が残っているせいだろう。
 いったん部屋に戻り、着替えと学校の支度を手に一人部屋から出ていく風太を、ドアのところで見送る。
「じゃ、まあ……行くわ」
「行って、らっしゃい」
 名残惜しそうに部屋を出て行った風太が、どこか遠くに行ってしまうわけでもないのに、珠恵も、今日は特に離れがたさを感じて、一度閉まったドアを再び開けた。
「どうした」
 外へと続く扉の手前で、靴を履いた風太が振り返る。
「あの……は、早く……帰って来て、下さいね」
 珠恵にしてみれば、もうそれを口にしただけでいっぱいいっぱいで、とてもまともに風太の顔を見ていられず、返事も聞かずにそのまま扉を閉めた。
 後に残された風太が、大きな溜息を吐いているのも知らないままで。


タイトルとURLをコピーしました