改札で母の姿を見えなくなるまで見送ってから、珠恵は一人家路についた。
家を出た時には昼間の明るさが僅かに残っていたのに、帰り道はもう夜が近くなっている。遠くの空には、まだ微かに、淡いオレンジに染まる雲や色を薄めつつある昼の名残の水色が、暮れていく夜の色と混じりあうように残っている。けれど頭上はもう、濃さを増す群青に覆われ始めていた。その濃紺の空を切り取ったように、そこだけが明るい三日月が浮かんでいる。
つい最近までこの時間はまだ明るかった筈なのに――と、頭の片隅で冬の訪れに物寂しさを覚えてしまう。改札を潜り消えていった母の後ろ姿が、その気持ちを更に助長させているのかもしれない。
不意の訪問や、母や喜世子から聞かされた話に、珠恵の気持ちはまだ平静には戻っていなかった。
――また、時々こうやって、あなたに、会いに来ても構わないかしら
お父さんには内緒だけど、と少し苦笑いを浮かべてそう口にした、帰り際の母の言葉を思い出す。母は珠恵に、風太と離れて帰ってこいとは決して言わなかった。
――風太さん、うちに来てるの
夏頃からの風太の言動を思い返してみても、それらしいことは何も思い出せなかった。他の現場を手伝うことはよくある、若いうちはそれも修行のうちだと言われて、珠恵はただそうなのかと思っていた。もっとちゃんと風太の様子を見ていれば気付くことができたのではなかったかと、風太のことを考えるだけで、また、涙腺が緩みそうになる。
ボンヤリと歩いていたからか、珠恵のやけに近くで立て続けにクラクションが鳴り続けていることに気が付かなかった。ようやくふとその音を怪訝に思い足を止めると、後ろから走ってきた軽トラックが、オレンジのライトを点滅させて歩道へと寄り、少し先に止まる。
「……あ」
途端に、心臓がトクッと跳ねた。時計を見ると、確かにもうそんな時間だった。
「珠恵」
名前を呼ばれて、立ち止まった足を動かし車へと近寄ると、助手席の窓に腕を乗せた風太と運転席から身を乗り出した翔平が、笑みを浮かべている。つい今しがた、珠恵の心の中を占めていた人が急に目の前に現れたため、すぐには言葉が出てこない。
「さっきからずうっと鳴らしてんのに、珠ちゃん全然気づかないし」
「あっ、ごめんなさい」
翔平が笑いながら言うのに慌てて謝る。言われてみれば、クラクションの音が、どこかでずっと聞こえていたような気がしてきた。
「どんだけぼやっとしてんの、珠ちゃん」
「あの、そういう訳じゃ」
曖昧に首を振る珠恵の顔を見ていた二人の表情が、少し怪訝なものへと変わる。
「ってか、珠ちゃん、どうかした?」
「え? 何で」
「いや、ちょっとなんか……もしかして泣いてた?」
酷く泣いてしまったから、きっとまだ瞼が腫れているのだと気が付き慌てて笑みを浮かべる。泣いていたことは多分もう誤魔化ようがない。僅かに鋭くなった視線を感じながら、珠恵は咄嗟に探した答えを口にした。
「あ、目……まだ腫れてる? あの、……さっきまで、本を読んでて、それで」
「あーまた? ほんっとよく泣くよね珠ちゃん。あんな難しそうなこまっかい字ばっかの本で」
本を読みながら、感動に泣けることは以前からよくあることだった。それが、風太と出会ってからは、なぜだか涙腺が壊れたみたいに、なんでもないような些細な場面でさえすぐに涙が零れてしまうようになった。愛華にも笑われ、よくバカにされている。
だからだろう、大して疑われることなくその答えに納得した様子の二人に、内心ホッとする。風太の纏う空気も、少し和らいだように感じられた。
「あの、そんなにひどい?」
「あ、いや。そんなこと、ちょっとアレって思ったくらいで。ね、風太さん」
逆に慌てたように首を横に振った翔平の視線を追うように、さっきから視線を向けられなかった風太の方へと顔を向ける。
「……ああ」
口元に笑みを浮かべ、珠恵を柔らかく見つめる双眸と視線が絡み合った途端、ずっと燻り続けている様々な感情が溢れて、瞳の奥の熱をまた呼び起こしそうになる。心臓が鼓動を刻む音が耳の奥を揺らすのに、風太の顔から、視線を外すことが出来ない。
――風太さん、毎日お父さんに頭を下げて
「おい」
風太の声が聞こえて、伸ばされた手が、珠恵を覚醒させるように頬を軽く撫でた。
「……えっ」
途端に、我に返って、瞬きを繰り返す。
「あー、あのさ。俺いるって忘れてない」
風太の顔を見つめてぼうっとしている珠恵を揶揄するような、大げさな溜息交じりの翔平の声に、頬が一瞬で熱くなり慌てて視線を逸らす。
「こんなとこで二人で見つめ合わなくても」
「あ、えっ……」
「家に帰りゃずっと一緒なんだし」
「あの、そんなんじゃ」
「珠ちゃんが風太さんを好きなのはよーくわかってっから……って、痛っ、何するんすか」
後ろでまだ何か言おうとしていた翔平が、風太に軽くはたかれた頭を押さえている。
「で、どっか行ってたのか」
苦笑いしている風太に、話の流れを戻すようにそう問われ、少し視線を逸らし早口で答える。
「あ、あの、ちょっと駅前のスーパーに。風太さん達は、お仕事、終わったんですか」
「ああ。で、荷物はどうした」
「え?」
「スーパー行ったんじゃねえのか」
「あっ……はい、あの。……ちょっとしたものだから、この中に」
手に持った小さな布バックを持ち上げる。
「ああ、飯の材料じゃねえのか」
小さく頷きながら、珠恵はこれ以上嘘を続けたくなくて顔を上げた。
「あの、二人とも時間、遅くなるから先に行って下さい」
「あ、うん……でも」
翔平が伺うような視線を風太に送る。ここでいつまでも話している時間もあまりない。二人は、これから学校なのだから。
「あの、私のことは気にしないで。翔平君、いいから」
車から距離を取り歩道を少し後ろに下がってから、珠恵はさっきから逸らしてしまっていた視線を風太へも向けて、小さく頷いた。
「私も、急いで帰るから」
珠恵が立ち止まったままだと、翔平も車を出しにくいだろうと、車が動き出すのを待たずに歩き始める。けれど、数歩も行かないうちにドアが開く音がして、「珠ちゃん」と後ろから呼ばれた。振り返ると、荷物を手にした翔平がこちらへと駆け寄ってくる。
「翔平君?」
「珠ちゃん、風太さんとあの車乗って帰りなよ」
「え……あの、いいよ。私歩いて帰れるから」
「いいから」
「でも、翔平君、仕事してたんだし、それに、これから学校も」
「いいって。もうこっから家までちょっとだし。じゃ俺、先帰ってっから」
「え、翔平君っ」
珠恵の制止を聞くこともなく、翔平が走り去ってしまう。その姿を見送って振り返ると、助手席から運転席へと移った風太が、急かすように小さくクラクションを鳴らした。慌てて車に走り寄り助手席のドアを開けると、風太と視線がまともに合ってしまう。
「あの、翔平君が」
「ああ。いいから乗れ」
頷いてから、さっきまで風太が座っていた温もりが残る助手席に乗り込んだ。
「時間、取ってごめんなさい」
いや、と短く答えた風太は、指示器を点滅させながらすぐに車をスタートさせた。
珠恵は、母が来たことや母から今日聞いた話を、なぜかすぐに口にすることができなかった。話すことに、迷いもあった。風太が内緒にしている以上は、このまま知らない振りを続けた方がいいのだろうか、と。
いずれにせよ、家に帰れば風太はすぐにまた学校へと出かける。話をするにしても、僅かしかない時間で、手短に告げることでもない気がした。
助手席の窓から外を眺め、そんなことを考える一方で、珠恵は風太の顔を見た時からずっと、胸を打つ鼓動がいつもより強いままで、落ち着かなかった。
「ずっと、読んでたのか」
「……え?」
黙っている珠恵に問う声が聞こえて、慌てて顔を運転席へと向ける。
「本」
「あ、はい。あの、でも、お昼過ぎにはスーパーに買い出しにも行きました」
「そん時買い忘れたのか」
「え?」
「今もスーパー行ってたんだろ」
「あ……あの、はい。さっき、買い忘れたのに気が付いて」
「連絡すりゃ買って来てやったのに」
「いえ、そんな……」
「まあ……頼みにくいもんもあるか」
咄嗟についた嘘を重ねるのも苦しく、声が小さくなってくる。けれど風太は、そんな珠恵の様子を、違う意味に捉えたようだった。胸の内で謝りながら、小さく頷く。会話がしばらく途絶えて、前を向いたままの風太のハンドルを回す腕を見つめた。
「……風太、さん」
「ん」
「あの……明日も朝から、一寿さんの現場ですか」
「ああ。何でだ」
「殆どお休みが、ないみたいだから」
「人使い荒えからな、あの人。若いもんは動けって」
クッと小さく笑う風太の横顔を、助手席から見つめる。ライトの先に視線を向けた風太は、珠恵に嘘を答えながら、今、何を思っているのだろう。
「まあ、こっちの現場は休みもあるし、カズさんとこは朝だけの日もあるから、そんなに疲れることはねえしな」
黙って風太を見つめる珠恵の顔をチラッと見遣って、視線を正面に戻した風太の口元に、もう一度微かな笑みが浮かんだ。
「んな、心配すんな」
「……はい」
小さく頷きながら。
風太の横顔を見つめる瞳に、胸の中で膨らんだ感情がつい溢れそうになり、珠恵は手をギュッと握り締めた。