それから、まるで以前から顔なじみだったかのように、喜世子のお喋りに釣られて口数は少ないながらも閑談して過ごした母は、夕方、もう日も暮れ掛けた時間に家へと帰っていった。
喜世子と話す時の母は、珠恵達の母親でも父の妻でもない、今まで家の中では殆ど見たことがなかった、ただの福原美佐子という人の顔を見せていたように思う。
今の生活の様子を互いにポツポツと尋ね合い、駅までの道のりを並んで歩きながら、こんな風に母親と二人きりでゆっくりと話すことも、最近は余りなくなっていたことに珠恵は気が付いた。
会話が少し途切れ、ずっと気に掛かっていながら口にするのを躊躇っていたことを――門倉との件で、父の仕事に何か影響がなかったのかを、尋ねてみた。
「昌也から、何も、聞いていない?」
逆に確かめるように問い返される。何も聞いていないと答えるように首を横に振ると、珠恵を見つめ返した母は、少し躊躇ってから口を開いた。
「もしかしたら、お父さん、近々ね、転職されるかもしれないの」
「え……」
強張った顔で立ち止まった珠恵を、母は、穏やかな顔で見つめた。
「以前から何度か声を掛けて頂いていたみたいなんだけど、一旦はお断りしたお話だったみたいで」
言葉を区切った母は、続きを待つ珠恵から顔を逸らすと、前を見つめて再び口を開いた。
「もちろんね、話しては貰えないけど、お父さん、お見合のお話がなくなった後しばらくは、多分ね……お仕事にも、少しは影響があったみたいで。……でも」
母の言葉に、一瞬何も考えられなくなる。珠恵の青ざめた表情を見て、母が慌てたように首を横に振った。
「違うのよ、珠恵」
まだショックを受けている珠恵には、母の声はすぐには届かなかった。けれど、本当に言いたいことを伝え切れないもどかしさを、何度もつかえながら口にしようとする母のその表情を見ているうちに、珠恵が気に病むとわかっていることを母が易々と話すことはないような気もして、ほんの少しだけ、身体の力が抜けた。
「あれから……、あの、門倉議員のニュースが、あったでしょ」
「え……あぁ」
不意に出された名前に、戸惑いながら頷く。母が口にしたニュースとは、夏の終わりにしばらく世間を賑わせていた、門倉の叔父である門倉議員の、大手建設会社との癒着疑惑のことだろう。一時は連日のように報道されていたその話題も、次第に下火になり、最近は耳にすることもあまりなくなった。だからといって疑惑が消えたわけでもなく、議員辞職にまでは至っていないが、世間を騒がせたとして門倉議員は党役員を辞職していた。
そのニュースを耳にした時、珠恵の脳裏に門倉の冷たい表情が浮かんだ。あの人はきっとショックなど受けてはいないだろうと、確信めいた思いを抱いた。門倉なら、たとえ身内であろうとも、自身の役に立たないとなれば切り捨ててしまうだけのような気がした。
いずれにせよ、珠恵には、もう関係がない人のことだ。
「ちょうどあの頃、お父さんがそのニュースを見ている時に昌也が家に帰って来たことがあって。気が付いたら、お父さんと昌也が言い争いを始めて」
「え?」
「ホッとしてるんじゃないのかって、そう、昌也が……言ったみたいで」
「……どうしてそんな」
「昌也ね、知ってたみたい。あなたと、門倉さんとの縁談を持って来られたのが、お父さんの、上司にあたる高梨副頭取だったって。そういうことも、その方が門倉議員のお身内だっていうことも。いつからかは、わからないんだけれど。珠恵は……知ってたの?」
「あの……お父さんから」
「そう」
珠恵の返事に頷くと、母は話を続けた。
「それで、お父さんの顔色が変わって……」
***
「どういう意味だ」
「今の人って、姉さんの見合い相手の身内の誰かなんだろ」
「だから何だ」
「こんなことになって、あの見合い、駄目になってて良かったって、どこかで思ってる んじゃないの」
「……勝手な憶測で物を言うな」
「見合いを勧めてきた副頭取だって、どこかに飛ばされたんだろ。銀行はスキャンダルを嫌うから」
「何でお前がそんな事を知っている」
「姉さんのお見合の話、副頭取からの話だって、お父さん珍しく嬉しそうに話してたよね」
「美佐子、お前か」
「お母さんは関係ない」
「なら誰がお前に」
「誰でもいいだろそんなの。あれ聞いた時さ、正直言ってお父さんにがっかりした」
「何が、いいたい」
「お父さんて、姉さんを出世の道具にしてその人に取り入らないとやっていけない程度の人なのかって」
「くだらないことを。あれは珠恵にとってこれ以上ないお話だった。それだけのことだ」
「姉さんの意志も無視して?」
「珠恵は、何もわかっていないだけだ。お前もだ」
「でも、実際見合いを断ったくらいで、仕事もうまくいかなくなってたんだろ」
「……関係ない」
「そんな会社もどうかと思うけど」
「二流以下の大学で、ただ土いじりをしているようなお前が、偉そうに言えることか」
「そう……、かもしれないけど。でも、少なくとも、俺、お父さんってもっと凄い人かと思ってたよ。人を見下すのはどうかと思うけど、少なくとも見下せるだけの能力があって、そのための努力だってしてきた人だってそう思ってた。だから、俺達も、何も言い返すことができなかったんだ。なのに、あんなこと」
「もういい。これ以上お前と話す気はない。不愉快だ」
***
「そんな感じでね、そのままお父さんは書斎に引き上げてしまって、昌也も、ずっと不機嫌で。食事だけ済ませてすぐに、先輩の家に行くってまた出て行ってしまったの。お母さんは、やっぱり一人でオロオロするだけで」
自嘲するような母の笑顔が、胸に痛い。
「お父さん、今度の人事異動で、系列会社のかなり上のポジションを打診されたみたい。それも、とてもいい条件のお話だったみたいなんだけど、同じ時期に、他の会社の方からお声が掛かったみたいで」
「大きな、会社なの?」
「いいえ。今はまだ小さいけれど。一流の人たちが集まって立ち上げた会社らしいの。皆さん、かなり大手の名のある企業を退職されて、数年前に設立した会社みたいで。以前のお父さんなら、絶対にお断りしていたんでしょうけど……」
名前も知られていないような企業へと移ることを、あの父が考えているというだけでも、驚きだった。それはやはり、珠恵が見合いを駄目にしたことも影響しているのだろう。
「私の、せい、だよね」
「どう……かしらね。私に、何か相談があるわけじゃないから、どうされるかも、まだわからないのよ」
笑みを浮かべた母の顔は、少し悲しげに見えた。
「でも……昌也に言われたことは、少しは、影響しているのかもしれないわね」
二人ともが口を噤んだままでいるうちに、もう今の珠恵の日常に馴染んだ駅が、見えてきた。
「随分駅から遠いお宅だって思ったけど、あなたが一緒だと、そうでもなかったわね」
構内へと入り、人混みを避けるようにしながら足を止めて、喜世子から渡されていた紙袋を母へと手渡す。
「これ、あの、喜世子さんから。喜世子さんが漬けたお漬物。とても、美味しいから」
「気を遣わせてしまったわね。でも……嬉しい。お礼を、言っておいてね」
本当に嬉しそうに笑った母が、珠恵をじっと見つめながら頷いた。
「お母さんも、やっと、……少しだけ安心したわ」
「え」
「昌也から聞いていたけど。とても、いいお宅で」
「あ……う、ん」
はっきりと頷くことは、自分の家を否定するみたいで、曖昧にしか返事ができなかった。
「お母さん、私――」
「また。時々こうやって、あなたに、会いに来ても構わないかしら」
ごめんなさいと、口にしようとした言葉を遮り、母の手が珠恵の手を握り締めた。その温もりに、また唇が震えそうになる。俯きながら、ただ頷いた。心配を掛けていることも、母があの家できっと息が詰まりそうになっていたことも知っていたのに。自分のことに精一杯で目を逸らしてきた。
「お母さんね、本当は、お父さん、知ってるような気がするのよ」
母の穏やかな声に、視線を上げる。
「……何?」
「私が、時々風太さんを、家に入れて、色々話をしていること」
「……そんなはず」
信じられず、小さく首を横に振る。けれど、母は半ば確信めいた口調で、言葉を続けた。
「初めにね。風太さんが傘も差さずに雨に濡れてるって、それを知らせてくれたのは、お父さんだったのよ。確かに、言い方はとても辛辣なものではあったけど。でも、わざわざそんな電話をしてきたのも、あの時だけだったから」
母の言葉に、期待してはいけないと思いながらも、心が揺れる。
「いい風に考えすぎかもしれないけれど、何となく、そんな気がするのよ。だからといって、お父さんの気持が簡単に変わることは、期待できないけれど」
「……それは、わかってる」
気遣いが浮かぶ母の眼差しを、見つめ返す。
「それじゃあ、あなたも、身体には気をつけて」
「お母さんも……」
帰ってしまうと思うと、寂しさが込み上げてくる。けれど、母とはまた会えるのだと、珠恵はそう自分に言い聞かせた。そうしなければ、止まったはずの涙がまた零れそうになってしまう。
小さく笑みを浮かべて頷いた母が、改札へ向かう。その背を見つめながら、噛み締めた唇をそっと開いて、ありがとうと口にした。