本編《雨月》

第十九章 雨と外郎2



「じゃあ、私は」
「あ――」
 席を立とうとした喜世子を見上げて、珠恵はつい縋るように見つめてしまう。
「……大丈夫だから。珠ちゃん、お母さんと二人で話を」
 励ますような目で珠恵を見下ろした喜世子が、同意を求めるつもりだったのだろう、母へと顔を向ける。俯きかけた珠恵の耳に、母の、躊躇いがちな言葉が聞こえてきた。
「あ、あの……もし宜しければ、ご一緒に、こちらにいて頂けたら。あの……私どもの家庭の話に、お付き合いさせてしまって申し訳ありませんが」
「……そう、ですか? まあ、私も無関係とはいえませんから、それじゃあ」
 母の顔と珠恵の顔とを交互に見つめた喜世子は、しばらく思案していたが、僅かに苦笑交じりの表情を浮かべそう答えると、浮かせていた腰をもう一度下ろした。けれど、後はお二人でどうぞ、とでも言いたげに、口を噤んでいる、
 暫くの沈黙の後、おずおずと口を開くタイミングが、母と二人して重なる。先を譲るように、母が小さく頷いた。
「あの、お父さんは……お母さんがここに来ること、知って、るの」
 珠恵を見つめた母が、そっと首を横に振る。
「……いいえ」
「どうして、だって、こんな、私に会いに来たってわかったら、お母さんまで」
「珠恵」
 テーブルの上で握り締めていた手が、温かな手のひらに包み込まれる。その感触に、珠恵は少しだけ息を詰めた。珠恵を見つめる母の瞳は、微かながら今迄とは違うどこか強い光を湛えているようにも見えた。視線の先で、その目元が和らぎ、ふっと母の表情が緩む。
「今更、遅いかも、かも、じゃないわね……。本当はもっと早く、こう、できていれば」
 僅かに苦そうな笑みを浮かべた母が、珠恵とその隣にいる喜世子を見遣る。
「お母さんも、少しは……変わらなきゃいけないと思って」
「……え?」
「そうしないと、いつまでも珠恵に……自分の娘に、会うことも……話すことすら、できないでしょ」
「お母さん」

 本当は、父がいない時間になら母に連絡をすることもできた。母もそれはわかっているはずだ。なのにそうしなかったのは珠恵の方だった。そのことに、ずっとどこかで罪悪感を覚えていた。
「お母さんね、自分の娘に会いに行くのに、お父さんに……ビクビクして、迷っているのが、嫌になったの。……でも、そんなことを思っても、なかなか、行動には移せなくて」
 小さな笑みを零した母の口元が微かに震える。力を込めるように口元を引き結んでから、その視線が喜世子へと向けられた。
「情けない……母親ですね。私」
 喜世子が、そっと首を横に振るのがわかる。
「本当なら、お父さんを」
 父のことを口にする時、僅かながら母の口元が固くなるのを感じていた。
「あの人を説得するくらいのことを……駄目なら、家を出ます、というくらいのことを、言えたら、いいんですけど。……でも、きっとあの人にはそんな、私が家を出るくらいのことでは……きっと何の、効果もないんです。だから……ごめんね珠恵。今のお母さんには……お父さんには内緒であなたに会いに来ることが……これくらいが、精一杯で」
 普段、物静かな母が、言葉に何度も詰まりながら、時には声を震わせながら。こんな風に自分の思いを口にするのを耳にしたのは初めてだった。これまでずっと、夫に――父に逆らうなど考えたこともなかっただろう母にとって、この行動がどれ程自分を奮い立たせなければならないか、それは、きっと珠恵や昌也の比ではなかったはずだ。
 唇を噛み締めた珠恵は、黙って、首を横に振った。
「でもね……」
 珠恵の顔を見つめる母の視線が柔らかくなり、口元に笑みが浮かぶ。
「お母さんが、こうやって今日、ここに来ることができたのは、やっぱり……風太さんの、お陰ね」
「……え?」
 唐突に母が口にしたその名前に、戸惑う。
「風太、さん?」
「そう。風太さんが、ああやって毎日」
「あっ」
 なぜか慌てたように喜世子が声を上げた。どこか気まずそうに瞬きを繰り返す喜世子に、問うような眼差しを向けてしまう。溜息めいた苦笑いを零した喜世子は、珠恵の疑問に答えるように一度だけ頷いてから、母へとその視線を移した。
「お母さん。珠ちゃんは、その……知らないんですよ」
「え?」
「私が、知らないって……何のこと、ですか」
 戸惑いを隠せない珠恵の問いには答えず、喜世子は、目を丸くした母に小さく頷いている。母の視線も、珠恵と、喜世子の間を何度か行き来していた。
「あら……そう、だったんですか。あの、じゃあ昌也も、あの子も何も?」
「ええ、まあ。その……風太が、どうやら口止めしてたようですから」
「そうですか……じゃあ」
「ねえお母さん、何のこと」
 顔を見合わせた母と喜世子の表情が、二人だけわかり合っているかのように穏やかなものに変わる。珠恵だけが会話に取り残されたまま、疑問ばかりが膨れ上がり、我慢できずに今度は母へと視線を向けた。
「風太さん、毎日何?」

 しばらく躊躇った後、確かめるような視線を送った母に、喜世子が頷くのがわかった。
「七月の……終わり頃からだったかしら」
 静かに。穏やかな声色で、母が答え始めた。
「珠恵の職場に……お父さんが、訪ねて行ったことがあったでしょ」
 硬い表情で、声を出さずに頷く。
「それから、少し経ったくらいの頃からだから、もう、四か月近くね……風太さん、ほとんど毎朝、うちに来てるの」
「……え?」
 言葉はちゃんと耳に入ってきているのに、意味がすぐには理解できない。
「うちにって……なんで」
「今朝も、来てくれて」
「……だって、風太さん、朝から、仕事に行って……」
 今朝も、早朝から起き出して一寿の現場へと向かったはずだ。風太は、確かに夏頃から殆ど休みなく、毎日いつもより早い時間から仕事に出ていた。
 ――かずさんのとこの現場は、施工主が細かい注文が多くて、ちょっと厄介なんだ。
 古澤の現場が休みの日でも、雨の日や台風の朝でも仕事に行く風太に、休みではないのかと尋ねたことは何度かあった。けれど、現場のチェックだけはしておかないと、だとか、今日は資材の確認だとか、そんな答えが返ってきて、珠恵もそういうものなのかと思っていたのだ。
 喜世子や親方、一寿や翔平や竜彦、それに愛華の態度からも、そうやって一寿の現場に毎日向かう風太の様子を、疑ったことなどなかった。
「ずっと……か、一寿さんの、仕事、手伝ってるって……」
 隣に腰を下ろしている喜世子が、珠恵の方へと視線を向けた。
「ごめんね、珠ちゃん」
 眉根を寄せて、どこか困った子どもを見るような顔で、喜世子がごめん、ともう一度口にするのを呆然と見ていた。
「あんたを皆で騙したみたいになって。あれもね、本当は全部、嘘なのよ」
「……うそ」
「風太に頼まれて」
「……頼まれ、て?」
「うん。珠ちゃんが、家に帰れるようにって。それをね、認めて貰うまではって。まあ、ね……ずっと黙ってるなんて無理だって言ったんだけど、風太、聞かなくて。お父ちゃんも、気が済むまでやらせろって言うし」
 喜世子の顔が、ボンヤリと霞んで揺れる。
「昌也にね、お父さんの出勤時間を聞いて、風太さん、その時間にうちに来て。話を、聞いて欲しいって……。でも……お父さんは、全く取り合おうとしなくて。それでも、毎日、目を合わそうともしないお父さんに、頭を下げ続けて。自分のことをね……受け入れなくてもいいから、あなたとの縁は、切らないでくれって、そう……」
 そう続ける母の方へと向けた視界も霞んでいて、テーブルの上に落ちた滴を追うように、珠恵は視線を落とした。
「だっ……しご……って」

 仕事だと言っていた。いつからだっただろう。そうだ。母が言った通り、確かにあれは、珠恵が父に自宅の鍵を返したすぐあとだったように思う。
 毎日毎日休みなく朝早くから働いて、夏休みが終わると、夜は学校で帰りも遅くて。それでも、殆ど疲れたとは口にしない風太が、最近時々、道具の手入れをしたまま眠ってしまっているのを見かけていた。疲れているのだと心配するだけで、何も気付かなかった。
 何かを口にしようとするのに、咽元に込み上げてきた熱い塊が嗚咽になって零れてしまい、言葉にならない。背中に当てられた喜世子の手のひらが、優しく何度も背を撫で下ろしてゆく。伏せた顔の先に、母が差し出したハンカチが見えて、それを手に取り顔を押し付けた。
「週末なんかは、いつお父さんが出てくるかもわからないから、訪ねて来たメモを残して帰ったり。どうしても来られない日には、昌也を通してそれをわざわざ連絡して来てくれて……そういえば、お土産だって、お酒を持って、来てくれたりもね、して」
 夏に、旅先で土産にと風太が買っていた数本の日本酒。いつの間にかなくなっていたそれは、現場で誰かに渡したのだとばかり思っていた。
 聞きたいことはたくさんあるのに、上手く話すことができずしゃくりあげてしまう。母と喜世子が、よく似た眼差しで、珠恵を見つめていた。
「お父さん……はじめは警察を呼ぶとか、そんなことまで言ってたんだけど」
 警察という言葉に、身体がピクッと動きハンカチで顔を覆ったまま母を見つめた。大丈夫だと言い聞かせるように、母がそっと頷いてみせる。
「昌也がいたからそうはならなかったけど。でも多分風太さんは、それ位の覚悟……してきてたような気がするの」
「そんな……」
 母は言わないけれど、父は、風太に何か酷い言葉を投げつけたのではないだろうか。風太を、傷つけるような言動をしたのではないか。それを思うと、胸が苦しくなる。けれど、父に何を言われていたとしても、風太がそれを珠恵に話すことはきっとないのだろう。
「本当のことを言うとね……今も」
 ほんの少し、苦笑いを浮かべた母が、珠恵を見つめて小さく首を横に振った。
「お父さん、風太さんとは口もきかなければ目も合わせないのは、変わりがないんだけど」
 傷みに似た苦いものが、胸の中に込み上げる。
「でもね……」

 夏の暑さが和らぎ始めたある秋の日の朝。その日も珠恵の実家を訪ねていた風太は、突然降り始めた雨の中、傘を持っていなかったため随分と濡れていたのだという。その日、母は初めて、インターホン越しではなく外へ出て、風太に中に入るよう声を掛けたらしかった。
 母がいくら家に入るように言っても拒もうとする風太に、何をどう言い聞かせたのか。最後は母曰く――ほとんど無理やり脅すようにして――玄関までは上がらせたのだと。
 そして、それからは時折、父の姿が見えなくなったあと風太を家に招き入れているのだという母の話にも、珠恵はとても驚いた。大人しく、自分から積極的に話をするタイプでない母と、複雑な立場にある風太が、二人でいったい何をどんな風に話しているのか、想像もつかない。
「今でもどこか居心地悪そうで、それに……玄関から先へは、絶対入ろうとしないんです」
 微かに呆れたような笑みを浮かべた母に、喜世子が何度か頷いた。
 短い日にはほんの五分程度。仕事が休みの日や、昌也の在宅時には、もう少し長い時間、そうやって顔を合せて、少しずつ母と風太は、話をする時間を重ねているのだという。そして風太は、自身のことも、母に話したのだと。
「正直な、気持ちを言うとね……それを聞いた時、お母さん……何も言えなかった。風太さんが、珠恵を大切に思ってくれていることはわかっても、やっぱり……戸惑いも大きかったし、本当に、この人でいいのかって……迷いもしたの」
「私はっ」
 やはり、母もそうなのかと頭の中が熱くなる。つい、声を上げて反論しようとした珠恵に、母が静かに首を横に振った。
「今でも、お母さんには、わからなくて。でもね……じゃあ、親の望む人と結婚して、世間の人から見れば立派な夫で、何の不安も不自由もない暮らしをさせて貰って……けれど、お母さんは幸せなのって聞かれたら……きっと心から、頷くことはできないって、そう思ったの。昌也に、私自身はいったいどこにいるのって、そう聞かれた時も……お母さん何も、答えられなかった。それが……とても堪えて。今までずっと、お母さんの意志は全部お父さんの意志で。お父さんに従っていればそれで良くて。……そうやってずっと暮らしているうちにね。お母さん……何も、自分の言葉で、話すことができなくなっていたの。違う、わね……。ずっと昔から、お母さんには、自分の言葉なんてなかった。そんなことに、気がついたの」
 ほんの少しの笑みを浮かべながら、とつとつと語る母の言葉が、珠恵自身にも重なって、何も言えなくなる。
「だからね……お母さん、こんな風に自分の意志を貫こうとしているあなたが、少し……羨ましい。昌也にも、言われたの。珠恵は、自分の意志で風太さんを選んだんだから。その先に、何があっても……何もせずに後悔するよりずっといいって。もしも、この先、珠恵が何か……辛い目に、合うようなことがあったら」
 強く首を横に振った珠恵を見つめながら、母が柔和な笑みを浮かべて頷いた。
「そんなことになったら、その時、手を貸してやればいい。それが家族だろって」
「おかあ……さん」
「それに、風太さんね。……お母さんに頭を下げて言ったの。珠恵から、家族を奪うようなことはしたくない。けれど、返してやることはできません。って」
 思わず、顔に血が上る。母が貸してくれたハンカチを握り締めたまま、珠恵は顔を俯けた。
「そんな風に言われたら、もう、何も言えないでしょ」
 どこか楽しそうに口にした母の声と、喜世子の静かな笑い声が重なり、耳の奥に心地よく響いた。


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