秋も深まり、少しずつ色を変えていた木々も、もうその葉を散らし始めていた。このところ、朝晩は特に冬の気配が色濃くなってきたように感じられる。
その日、仕事が休みだった珠恵は、朝早くから起きて朝食を用意し、早くから仕事に出掛ける風太を見送った後、いつの間にか二度寝をしてしまっていた。
夏場からずっと、一寿に頼まれた仕事の手伝いを続けている風太は、朝から現場をハシゴしているため夏休み前より忙しそうにしている。
二度寝から目を覚ました珠恵は、それを思い、なんとなく申し訳ない気持ちを覚えつつ、顔を巡らせ一人きりでいる部屋の中を見渡した。
いつまでも客間を間借りしての生活もないだろうと、夏の間に、兄弟弟子や職人仲間、それに真那や昌也までが風太に協力して、珠恵には内緒で倉庫の二階に二人で暮らす部屋を整えてくれた。
少し遅い夏休み、風太に誘われた初めての二人きりの一泊旅行を終えて戻ってくると、新しい部屋が出来上がっているというサプライズに出迎えられたのだ。
元々の風太の部屋と隣室とをひと続きにしたこの部屋には、二人のものが色々と置かれている。ここでの生活に馴染んできている筈の今でも、珠恵は、こんな風にひとりでいる時、少しだけまだ夢の中にいるような気持ちになる。
カーテン越しに入ってくる朝の日差しは、ここ最近はなかった明るさを感じさせるもので。久しぶりの洗濯日和だと、現実的なことを考えて起き上った珠恵は、着替えを済ませ、洗濯物を入れた籠を抱えて部屋を出た。
母家で喜世子たちと一緒に朝食を食べ、片付けを手伝ってから部屋に戻ると、すでに止まっていた洗濯機から洗濯物を籠に取り出して、外階段に通じる扉を開ける。細い階段をもう一つ上の階まで上がり、雑然と積み上げられた木材や、細々とした部品の入った箱を避けながら屋上に出る扉を押し開くと、少し肌寒い中にも温かな日差しが、身体を包み込んだ。
今日の好天を示すような、雲の少ない青空に、目を細める。
作業着だけは、母家で喜世子がまとめて洗濯してくれているが、それ以外は各々が自分で洗濯をして、屋上に干すようになっていた。
周囲の民家より僅かに高い場所にあるこの屋上は、ここで暮らし始めてからの珠恵のお気に入りの場所だった。春がきたら喜世子にお願いして、屋上の隅で少しだけ花やハーブを育てさせてもらおうと考えていた。
午前中に家事を済ませて、午後からは喜世子のお使いで駅前のスーパーまで買い物に出掛けた。好天もあり、運動がてらにと歩いて来たのはよかったが、帰りの荷物はエコバック二袋にもなっていて、歩くにつれてまるで嵩が増したかのような重みが両手に掛かり、少しばかり後悔する。
やっぱり自転車を使えばよかった――。
人数も食べる量も多い古澤家では、この量の食材もすぐに消費されてしまう。流石にもう慣れたが、初めの頃は、買い出しに来るたび、珠恵はその量に驚いたものだった。
家に帰り着く頃には腕は痺れていて、寒かったはずの身体も随分温まっていた。風太は必要ないと言っていたが、やはり車の運転免許を取った方がいいだろうか、などと考えながら、ようやく見えた倉庫の前を右に折れようとしたところで。
母家の玄関の前に立っている人の姿が目に入り、珠恵はその足を止めた。
心臓がトクッと波打つ。見覚えあるグレーのツィードのスーツ姿の女性が、門前に佇んでいる。身動きもできずに、珠恵はただ呆然とその場に立ち尽くしていた。
見つめる視線の先で、その人の顔がこちらへと向けられて、珠恵に焦点が合うのがわかった。離れた場所からでも、目を見開き驚いた表情を浮かべたのが見て取れる。その顔を見て、珠恵はようやく呼吸をすることを思い出し、息を吐いた。
立ち止まったままの珠恵の方へと近付いてくるその人から目を逸らすこともできず、けれど、戸惑いと警戒から、自分の顔が強張っているのがわかる。目の前で足が止まると、思わず視線を落としてしまった。
「よかった。何の連絡もせずに伺ったから、お留守で、どうしたものかしらって思ってたの」
「……あ」
声が上手く出せず掠れてしまう。唇を湿らせた珠恵は、息を吸い込んでから口を開いた。
「た、多分、あの、母家の方は、家の人、近所に行ってるだけだから、すぐ、戻ってくると思う。けど……」
「そう」
「……なんで」
「元気に、してるみたいね。珠恵」
ごく普通の、耳慣れた静かな声のトーンに、落としていた視線を上げ、強張った固い口調のままもう一度口を開いた。
「どうして……お母さん」
母と顔を合わせるのは、家を出て以来のことだ。喜世子にも言われて、二度ほど、父が留守の時を見計らい家に電話をかけたことはある。一度目は、昌也に託してくれた通帳などの礼や心配を掛けたことを詫び、そして二度目は、元気にしていること、これからしばらくこの家にお世話になるとの連絡だけを入れた。
父から責められているだろう母に、けれどそのことを確かめたり、謝ることはできなかった。父から絶縁を告げられてからは、コソコソと連絡を取り合っていることが知れたら母の立場も悪くなると思うと、気が引けてしまい、一度も連絡をしていない。
気が引けた、だけじゃない。本当は、連絡することが怖かった。風太を否定し、珠恵を拒絶した父の表情や言葉を思い出すと、今でも胸が苦しい。背を向けて去って行った父の姿を思い出すと、胸が塞がれるような気持ちになる。
母の本心は確かめてもいない。けれど、父の意向を無視して母が何をできるとも思えず、また、そうさせることもできないと思っていた。もしも父ではなく母から戻って来るようにと説得されたら――そう思うと、これ以上母を傷付けることも、自分が傷つくことも、怖かったのだ。
それでも、時折昌也を通じて、母からの荷物を受け取ったり、珠恵の身体をただ気遣う言伝は聞いていた。
警戒心を解くことができないまま、顔を上げて見つめた母は思ったよりも元気そうで、そしてどこか少しだけ以前とは、表情が違っているように思えた。目の前にいる母の表情がふっと緩み、見慣れた優しい顔になる。
「今日、珠恵、仕事お休みだって聞いてたから、もしかしたら会えるかしらと思ってはいたんだけど」
「え……あ」
何かに僅かな違和感を覚えたその時、不意にこちらに手を伸ばした母が、エコバックを持つ珠恵の手に触れた。途端に、思わず避けるように身体が動いてしまう。
「凄い量ね。重いでしょ、貸しなさい」
気が付いているだろうに、母は何もなかったかのように、そう声を掛けてくる。
「いい」
「いいから。手に食い込んで、白くなってる」
「平気、だから」
首を振り、手に力を入れて紐を握り締めた珠恵に、母は少し苦笑いのような表情を浮かべ、触れていた手を引っ込めた。それでも珠恵を気遣うような顔を見せている。
少しだけ触れた母の指先は、温かく、そしてカサついていた。冬になると、特に乾燥しいつも荒れていた手。体質が母に似ていた珠恵の手は、幼い頃は特に今より荒れていて、いつも母が眠る前に小さな手を包むようにマッサージをしながらクリームを塗ってくれていた。その手の温もりを思い出して、胸がツキンと痛くなる。
「どうして、ここに、……いるの」
僅かに視線を逸らしながらそう口にする声は、まるで反抗的な子どものようだと自分でも思っているのに。本当は、きっと母は味方だと思いたいのに。ずっと心配させて、迷惑を掛けて、なのに碌に連絡もしなかったことを謝りたい気持ちがあるはずなのに。
珠恵は、それを口にすることが出来なかった。風太の居ない、風太の知らないところで家族に会うことに、どこか後ろめたさもあった。
「今日は……とてもいいお天気でしょ」
穏やかな口調でそう話し始めた母が、何を言おうとしているのかがわからなくて、つい俯いたまま眉根を寄せてしまう。
「このところずっと曇りがちで、こんなに、お天気がいいのも久しぶりだったから、あなたの部屋のお布団をね、午前中、干していたの。日差しがとても暖かくて気持が良くて。そしたら、急にね。ここを、訪ねてみようかって、思い立って」
そう口にした母が小さく笑う声がして顔を上げた。こんな風に母が笑うのを聞いたのは、いつ以来だろう。
「はじめて……かしら。お母さん、思いつくままに何かしてみたの」
母の言葉に、瞬きを繰り返しながら、驚きとやはり戸惑いを感じる。
「何だかその思いつきにドキドキして。慌てて身支度をして出てきたはいいけど、昌也に場所、ちゃんと聞いたはずなのにやっぱり道に迷ってしまって。だから、人に尋ねながら何とか辿り着けたんだけど。……駄目よね。お母さんいつも、誰かの後をついて行くばかりだったから、自分でどこかに出掛けることに慣れてなくて」
一瞬だけ、自嘲にも似た笑みを浮かべたその表情も、珠恵が初めて目にするものだった。
「ずっと、こちらにご挨拶もしないままで。それもね……気になっていたの」
「おかあ、さん……でも、そんなの……あの、お、父さんが」
父のことを口した時だけ、母の視線が少し揺れた気がした。きっと、黙ってここに来たということなのだろう。それなら、この行動を知った父に、母が責められるに違いないと、もう一度口を開こうとした時――。
「あれ、珠ちゃん」
少し離れた場所から、珠恵を呼ぶ声が聞こえた。ちょうど近所の家から戻って来たところなのだろう喜世子が、門の手前で立ち止まりこちらを見ている。
その声と珠恵の視線を追って、母が後ろを振り返った。互いに、伺うように視線を交わしている様子だった。
「あの、お母さん……今、お世話になっている親方さんの奥様の」
「ああ、やっぱり、そう……」
慌てて耳打ちした珠恵に肯き、母が、喜世子に向かい深く頭を下げる。あ、と何かに気が付いたように笑みを顔に広げた喜世子が、それに応えて深々とお辞儀を返した。
「あの……こちらお口に合うか、わかりませんが」
「あら、ういろうですか。私、羊羹よりも好きなんですよ。嬉しい。じゃあ、遠慮なく頂きます」
「あ、あの……名古屋の方が、有名なんですけど、それは、私の母の出身地のもので」
「あら、そうなんですか、どちら?」
「あ……山口、なんです」
「へえ、山口でも外郎が? すいません、存じ上げなくて。てっきり名古屋のものだとばっかり」
居間に入るとしばらく、娘が世話になっていることの礼を言っては頭を下げ、これまでの非礼を詫びては頭を下げる珠恵の母に、喜世子も恐縮し、互いに頭を下げ合っていた二人は、ようやくまともに顔を合せ、落ち着いた和やかな空気の中で会話を進めている。
無口だと思っていた母も、喜世子が相手だと、いつもより口調が軽いような気がした。
「あの、その節はご丁寧な……」
「ああ、いえいえ、慣れないもので走り書きみたいで、却って失礼かとも思ったんですけどね」
落ち着かない気持ちのまま逃げるように入った台所で、途切れ途切れに聞こえてくる二人の遣り取りを気もそぞろで聞きながら、珠恵は、のろのろとお茶の用意を始めた。
「珠ちゃん、お茶、私が入れるからいいよ。久しぶりなんじゃないの、お母さんと会うの」
「あ……いえ、あの、もう終わりますから」
なかなか台所から出てこようとしない珠恵を呼ぶ喜世子の声に、胸の内を見透かされているような恥ずかしさを覚える。慌ててお茶を乗せたお盆を手に居間へと入っていったものの、茶托に乗せたお茶を母の前に置く手が、緊張で少し震えてしまう。
「……ありがとう」
じっと珠恵の動きを見つめていた母が、唇に笑みを浮かべながら礼を口にする。
曖昧に首を振り、珠恵は少し迷ってから喜世子の隣、母とは向かい合う場所に腰を下ろした。